五月三日
8時スタート。本日は長岡城奪還戦の史跡巡り&施設訪問がメイン。

8時31分
永閑寺(官軍本陣跡)到着。まぁそう書いてある杭を見に来ただけになりましたが…。それにしても工事中の寺院が多いです。やっぱり震災の影響なのか偶然なのか…。

8時33分
道すがらの光景
豪雪地帯の長岡では、こうしたアーケードをよく見かけます。元々は雁木と呼ばれる、家の軒先を長く伸ばすことで家の前の積雪を防いでいたものが、段々アーケードに代わっていったものです。

8時45分
大黒古戦場パーク到着。ここは慶応四(1868)年6月14日から始まった長岡城攻防戦の古戦場です。
さぁパーク前に路上駐輪して石碑やら見ようかぁ♪。

って思ったら…。おっちゃん2人が近づいてきます。
あちゃ…路駐はまずかったかなぁ…。まぁ仕方ない…素直に怒られて謝ろうと腹くくってたら…「どこから来たんですか?」って。
そこからはもうお決まりのパターンです。京都ですかぁと驚いてくれ、どんなルートで来たのかとか、何しに来たのかとか聞かれるわけです。とりわけ驚いたのは、おっちゃんの一人がゼルの名前を言い当てたことです。
何しろ「遅い」「曲がらない(おかげでこけたわ…)」「人気無い」とホンダ車の中でも異彩を放つほどの不評ぶりから約5年で生産終了した不運な奴なんです。その上「XELVIS」なんて普通読めないって…。XELVISとは、特別の(Xtra) 元気づける(ELate) 訪問者(VISitor)を引っ付けて作られた名前で、「Xe」でぜって読ませるなんて、他には「Xabngle(ザブングル)」しか知らないって…。それを一発で「ゼ」と読んでのけましたからね。まぁ「ゼビルス」とか少々ゼビウスが混じったような言い間違いはありましたが、ゼと読んだだけでも大したもんです。
どうやらお二方とも昔はバイク好きだったようで、ご自身でもバイクとか乗っておられたようなので、私からすれば「先輩」ってことですね。
で、「田舎なもんだから(失礼…でも私が言ったんじゃないですよ)、他から人来ることも少ないんで、来たらこうして話する」んだそうです。よかった…怒られるずに済んだよ。

それで、前日朝日山に登ったとか、今日もこの戦跡が目的でここまで来たって話をしてたら、突然…「タマ見る?」って聞かれたんです。
一瞬何のことか分らずに「えっ?」って言っちゃいますと、「タマ。大砲の弾」って…。何かすごいことをこともなげにサラって仰って下さいまして…「ハイ!見たい、見たいです」…。もう錯乱して敬語使えなくなってしまってます…。

道路挟んだ向かいのお屋敷の方だったんですね、中に入って程なく、黒い箱を抱いて戻ってこられました。
そして箱を開けると…

Σ(゜Δ゜*)


おおぉ〜、旧式砲の球形砲弾と尖頭砲弾!!。
尖頭砲弾は大きさや形状から見て四斤山砲かな。

何でもこの辺りでは農作業やってたら普通に出てきてたそうで、おっちゃんたちは子供の頃「不発弾に注意しろ」って言われてたらしいです(゜゜;)。

う゛〜、今すぐ掘りてえぇ〜…。
そういえば昨日もそんなこと思ってたな…。

で、話は北越戦争から大国主社のになり…2004年の話になりました。
大国主社というのがとにかく奇妙なんです。遠目から見てもその異様さはわかります。まるで温室のように透明のアクリル板で囲まれてるんです。

これは防犯のためらしいのですが、この大国主社は2004年の中越地震で倒壊寸前の被害を受けたのですよ。
それでなくてもこの年の7月は大水害で、元々低湿地帯だったこの辺りは一気に水があふれ、1mくらいも浸水するという目に遭ったらしいんです。もっとも土地柄昔からそうした水害が多かったようで、かつては万一のため、濃尾平野のように舟を備えてたそうです。田船もあったらしいですよ。
そんなことがあった止めに、大地震ということで、相当大変だったと思います。でも全然そんなこと感じさせない明るい喋りに、何というか忍耐強いといわれた長岡人の剛毅さを感じてしまいました。

ひとしきり喋って謝辞を述べた後、大国主社で由来の戊辰役関連の石碑や、干拓されて耕地となった八丁沖(八町沖)を眺めつつ、いい気分でこの地の空気に浸ってたら…またまた別の、今度は傍の小道に車を停めて降りてきた作業服のおっちゃんが「どこから来たの?」って…。
はい、また1から説明させていただきましたですよ。

で、大国主社が中越地震で傾いたお話もまた伺いました。たださっきと違ったのは…いきなり大国主社の鍵を開けて、全部の戸を開け放ってくださったのです。
で、大国主社を修復するに当って、使える部分はなるべく残そうという配慮をしていることを教えていただいた上、何と昇殿?まで許していただきましたヾ(@^▽^@)ノ 。
おかげさまで天井画や御祭神の大黒様を拝見する栄誉に浴しましたよ。

干支と七福神かな

旧社殿の彫刻

そんでもって大黒様の御前でいろいろ話聞いていたら…先ほどのおっちゃんのうちの1人がまたいらっしゃいまして…しかもこのおっちゃんらは顔なじみのようで…「除草剤撒きに来たらおったんでね」「いろいろ話してやって」と…何か気付かないうちにVIP待遇になってませんか?、私…。ってことですっかり座談会になってしまいました(>▽<;; 。

そんな中で教えていただいたことなんですが、毎年11月3日に慰霊祭を行ってるそうです。
さて…11月3日…?。文化の日?。明治節??。
この辺りが戦場になったのは慶応四(1868)年6月から…。

長岡城は北を底なし沼の八丁沖、東を越後山脈、西を信濃川、南側には榎峠と難所に囲まれた天然の要害でした。しかし城自体は平野の真ん中に築かれた平城だけに、その要害を越えられると脆いものになるのです。
南側の榎峠は攻守入り乱れながらも東軍が死守していて戦線は膠着していました。
そこで河井さんは5月20日に梅雨期で増水している信濃川を渡河して小千谷の西軍を背後から衝いて敗走させようという作戦を立案します。
しかし5月19日、三好軍太郎率いる長州藩奇兵隊が決死的渡河作戦を敢行して長岡藩は総崩れとなり、長岡城を西軍に奪われた長岡藩勢は、藩主を会津藩へ移して難を避けさせ、河井さん等は敗走軍や榎峠や朝日山の守備隊を引かせ北方の加茂に軍勢を集結させました。
西軍は八丁沖の北方にある新発田藩領の今町付近まで進出して、加茂の東軍と対峙したのです。

5月19日、新政府は東海、東山、北陸道先鋒総督府を全廃して新たに奥羽征討白河口、平潟口、そして越後口を編成します。

5月24日、米沢藩や新発田藩の援軍を迎えて3000名規模になっていた軍勢になった東軍は、河井さん指揮のもと長岡城奪還のために反撃を開始します。
6月2日、河井さんの巧みな用兵によって、囮部隊に引きずり出された今町の西軍主力部隊は北方に誘致され、その隙に背後へ回った東軍本隊と別働隊によって今町を占領されてしまう失態を犯します。

6月、会津征討越後口総督に仁和寺宮嘉彰親王を迎え、西園寺公望卿を大参謀に据えて柏崎増派を決めます。

長岡方面に敗走した西軍は、信濃川と八丁沖の間に布陣しました。要害を左右に配することで、守備範囲が狭くなり、その分だけ有利になるからです。
その後散発的に攻防が繰り返されますが、膠着したまま1ヶ月以上が過ぎたのです。

そこで河井さんは、奇策を以て膠着の打破を図ります。
それは要害として扱われているため防備の手薄な八丁沖を渡礁して奇襲をかけ、西軍の防衛戦を一気に衝き崩して長岡城下へ雪崩込んで城を奪還するというものでした。
同時期山縣さんも7月15日から21日にかけて越後口総督府軍が柏崎に上陸して戦備も整ってきたため、増援兵力を船で新潟へ運び、長岡藩や会津藩ら東軍にとって重要な補給地であった新潟港を奪取して戦局を転換させるつもりで23日に柏崎を出港させたんです。指揮は長州藩の山田市之允さん、嚮導士官はあの土佐の岩村さんでした。

7月24日午後10時頃、河井さん指揮の長岡藩兵700人は、夜陰にまぎれて八丁沖の渡渉を開始します。長岡藩士で大の釣り好きのために八丁沖の地形に詳しい鬼頭熊次郎さんが先導して渡っていきますが、一面葦が生い茂り、胸まで浸かり、油断すれば底なし沼に沈んでいく困難な渡渉を5時間にわたって耐え抜き、全員が渡りきった午前5時、奇襲攻撃を敢行しました。
不測の事態に西軍は混乱して防衛戦は崩壊、長岡藩決死隊は長岡城下になだれ込みました。ここでも西軍がパニックを引き起こし、長岡城にいた山縣さんも、西園寺公望卿も着の身着のまま逃げ出す体たらくでした。
奪還に成功した河井さんでしたが、応援に来るはずの会津藩・米沢藩の軍勢が北から西軍を挟撃するはずだったのに、挟まれた薩長兵が異常に踏ん張ったために南下出来ずにいたため西軍を押しきれていませんでした。それで長岡城入城したとはいえ戦いは続いていました。午後3時頃、苦戦を訴える新町口へ移動中に河井さんは流れ弾を喰らってしまい左膝下を骨折銃創を負ってしまいました。
その場所があの…私が地震で度肝を抜かれた「石田屋」さんのある所だったんです。

同じ頃新潟では山田さん率いる別働隊が新潟北方に上陸、これに新発田藩が内応して新潟港制圧作戦を開始しています。

7月26日には会津藩や米沢藩の藩兵も長岡城に入城しましたが、この方面の東軍の頭脳である河井さんの戦線離脱は、戦局全般に影響を与えました。当然軍略を引き継げる者もなく、士気は低下しますし、何より疲労困憊して積極的に打って出られる状況ではなくなったのです。
7月29日には西軍が反撃を開始、もはや脆弱化した東軍と、態勢を立て直して臨んだ西軍とは比較にならず、さらに新発田藩の寝返りが東軍にも伝わって東軍の守備隊は全線にわたって崩壊、長岡城は再び落城し、また新潟港も陥落したため敗残兵は会津へ向かうべく見附と只見を結ぶ八十里峠を越えていきました。事実上の北越戦争の終焉です。

8月12日、河井さんは会津塩沢の矢沢宗篇医師宅で療養していたのですが、破傷風により左足の腐敗が進み、かなり悪い状態でした。死期を悟ったのか15日夜になって従者の松蔵さんに対して、自らの棺と火葬のための火を準備させ、翌日、8月16日息を引き取りました。
遺体はすぐに荼毘に付され、遺骨は会津若松に入った後、城下の建福寺に仮埋葬されます。その葬儀の際には、会津藩主松平容保公も参列しました。後に長岡の河井家菩提寺・栄凉寺に移葬されましたが、当初は長岡を戦禍に巻き込んだ張本人という謗りを受け、墓石を破壊されるなどのこともあったようです。
一方火葬が執り行われた会津塩沢では、土地の人々が拾い残された細骨を集めて医王寺に埋葬し、西軍にも分からないよう無記銘の祠型墓碑を建てて手厚く祀っています。

慶応四(1868)年9月、仙台・米沢・会津・長岡藩が相次いで降伏します。戊辰戦争の舞台は箱館へと移っていきました。


ということで…何で11月3日??。どう考えても、何の出来事にもかすりもせず、それこそ縁もゆかりもない日にちなんですけど。
そしたら返ってきた答えが…。
「何でかな…。忙しくないからじゃない?」
なるほど…実に明快で納得のいくお答えです。農繁期も過ぎたころだからなんですね。

そんなこんなでひとしきりお話させていただきました後、散会?となりまして、私一人で社内を堪能した後、除草剤散布作業されてるおっちゃんにお暇のご挨拶をしに行ったところ…「そこにあるのが倒壊した鳥居の根元。無事だった部分だけでも残そうということで」って…。まだそんな隠し玉があったのか…。

まぁとにもかくにもいろいろとご教授いただきましてありがとうございました。この場を借りて厚く御礼申し上げますm( __ __ )m。


9時33分
さて、続いては八丁沖古戦場パークですが、大黒古戦場パークと100mも離れてないような場所にあります。
そして、だ〜れもいません…。

10時1分
日光社着。ここも灯篭の古さとは比較にならないほど社殿がきれいです。相当やられたんでしょうね。大国主社同様鍵かかっていました。

10時27分
安楽寺着。こちらには大垣藩士4名の墓碑があります。

探査を終えて次に移動しようとしたんですが、急な坂を下りて本道と合流するところで一旦停止したら…一瞬足が届かない!。坂の合流部分自体が実は左から右にかけて傾斜していたため、思った以上に車体が傾いて…こけた…。
しかも傾斜でこけたから、車体を起こせないし…。たまたま通りがかった法事(らしい御姿だったので)に来たと思しき方々の手を借りて何とか復帰。しかし…ブレーキレバーが3分の1を残してパッキリ折れ、ウィンカーも垂れ下がってるような体たらく…。初日の方が結構ハードだったのに、破損は今回の方が惨いです。
助けてくださった方は、わざわざ修理してくれそうな自転車屋の場所まで教えてくださいました。どうもありがとうございましたm( __ __ )m。
どの道通る道だったので、行ってみたところ…休みのようでした。まぁ連休中ですからね…。
運転には支障は無いものの、ブレーキレバーが短いっていうのはちょっと心もとないので…速攻調べましたよ。全国展開してるレッドバロンの場所。あそこなら多分開いてるはずです。
ツーリングを始めた頃に忠告されてたことの一つに、「ブレーキレバーとクラッチレバーは、転倒したときに折りやすいから必ずスペアを持っておくこと」っていうのがありました。だからきっちり積載してたんで、パーツが無いって心配ありません。言うこと聞いといてよかったよ〜。

で、場所を確認して現地に向う途中で気付いたんですが…曲がってたハンドルが元に戻ってる…。初日左にこけて、今回右にこけて、衝撃が±0ってことか…。コントかよヽ(*`○´*)/!。

11時20分頃
レッドバロン長岡店到着。状況を説明して修理を依頼します。もちろんウィンカーはさすがにスペア無いから放置…。ナンバーみて早速「京都ですか」って…。どこをどう来たのか話すのは本日3度目だな…。
修理終わって退去する間際、店員さんから「これからどちらに?」という問いに対して、「今日は長岡で、明日福井へ移動します」って応えると…「福井ならカニですね」って…。う〜ん、季節的にどうかなぁ…。季節をクリアしても、経済的に…。ということで、「いやぁ高いですからねぇ」とかわしてしまいました。

12時6分
西福寺の門前に着きました。維新の暁鐘がいきなり目の前にありますね。

12時33分
西軍上陸地です。信濃川を強行渡河した三好さんたちがここから長岡城下へ突入していったんですね。

13時8分
興国寺まで小林さんに会いに来ました。
何だあの火焔土器は?!。

画像修整しないと読めないほど劣化…

公園に鎮座してます

13時24分
鵜殿団次郎さんがおられるんですよ。

13時40分
山本五十六記念館です。

中は基本的に元帥の手紙が中心でしたね。一番の見所はやはり昭和十八(1943)年4月18日に元帥がブーゲンビル島上空で撃墜された際に搭乗していた一式陸攻(一式陸上攻撃機)の左翼と搭乗席でしょうか。
展示を見終わって帰る際、かねてからどうにも心に引っかかっていた疑問を館員さんにぶつけてみました。
「高野家は、水沢藩の高野長英さんの家系と繋がってるんですか?」
そう、日田の咸宜園で聞いたあの謎を、私は未だに引き摺っているんです…。
さぁ、そのお答えは…
「聞いたことないですねぇ」

ハイ、どうもありがとうございましたぁ(^▽^;)。

でも否定ではないんですよね。
何でも高野家の遠祖は今で言う栃木の宇都宮辺りらしいんです。また微妙な位置に…。そこから北や西に一族が分派したとしても不思議は無い位置関係ですよねぇ。
そんなわけで、この疑問は私の中でまだ未解決です…。

14時59分
山本記念公園
園内には山本元帥の大きな胸像と、長岡空襲で焼失した山本元帥生家が復元されています。胸像は、元帥が大佐時代副長をしていた霞空(海軍霞ヶ浦航空隊)に建てられたコンクリ製全身像だったものが戦後進駐軍の破却を避けるために霞ヶ浦に沈めたものを時を経て引き揚げたときに原型にして鋳造したという、なが〜いいわくのあるものなんです。
生家は立ち入り自由で、中に入ったら…ここにも巨大な元帥が!。ちょっとお体と比べて狭くないですか…?
元帥は2階の2畳間で勉強されていたようです。

公園入り口にて
マーボラーメン…。ふ〜ん…。

15時19分
長岡の河井継之助記念館、個人的には只見に続いて2つ目の記念館です。
ここにあるガトリング砲は…只見のと全然違う〜っ!。

上下角だけ可動

模型

どう見てもこっちの方が小振りで機動力ありそう。しかもザクレロみたいなカラーリング…w( ̄△ ̄;)w。

なぜ違うのか、その真相はというと…只見のレポにも書いたように、河井さんが購入したガトリング砲が弾丸まで含めて残っていないため、形式がまったく分らないからなんです。
只見のガトリング砲は1868年モデルの復元で、年代から考えて慶応四(1868)年にそれほどの最新型が入ってくるとは考えにくく、ほぼ河井さんが買ったものではないと思ってます。
対してこちらのは、現在に続くガンメーカーの名門コルト社製1865年モデルなので、十分日本に入ってくる可能性があります。

ただ口径が1インチであり、江差で沈んだ開陽丸から引き揚げられたガトリング砲弾が0.58インチ弾だったので、もし開陽丸積載のガトリング砲が長岡藩からもたらされたものだとしたら、このタイプではないことになります。
0・58インチ弾を用いるのは開発初期の1862年型なので、長岡藩が買ったのはこちらかもしれません。いずれにせよ物証のない現時点で結論づけるのは難しいですけど…。

長岡藩が購入ししたのは横浜居留のスイス商人・ファーブル・ブラントが売ったガトリング砲で、2門で1万両、一説に6000両とも1万2000両ともいう額です。
1万2000両説は
「草生津御固場にて、御新調の機関砲を見る、多大砲二門にて、値一万二千金の旨」(「戊辰戦争とガトリング砲」より『鈴木総之丞の日記』)という、実見した長岡藩士の記述から。
6000両説は
「折節ファーブル・ブラントへ速射砲が三門輸入され、夫が亜米利加南北戦争の経験を経た新式のものだと云うので、一門の値が三千両だと云うから、当時の金では高かったけれども…」(「戊辰戦争とガトリング砲」より『河井継之助伝』に所収された、河井さんとも面識のあった掛川藩士福島住弌さんの談話)という供述から。
で、1万両説は…。1万両説は…。あれぇ?原典史料で示されるものが手持ちの資料では何も出てこないぞ?!。最も膾炙されてる1万両説は、何を根拠にしてるんだΣ('◇'*)??。

で、当時アメリカではガトリングが1門「1,200〜1,500ドル」
(「戊辰戦争とガトリング砲」)で売られており、また当時の為替レートが万延二分金(金の含有量を大幅に減らし、貿易による金の国外流出を減らす目的で発行したもの。含有する金銀の価値が、1両で1ドル金貨相当になる)2枚(1両)で1米ドルに相当したことから、3000ドルから6000ドルと米市場の2.5倍から4倍以上の値で買ったことになります。ただ慶応四(1868)年3月2日の横浜の銀相場が1ドル=銀44.2〜44.85匁なので、銀本位で換算すると1ドル=およそ三分銀です(1両=4分=16朱=4000文=銀60匁が当時の通貨と銀の交換比)。だから、3000両〜6000両=4000ドル〜8000ドルという額を支払ったことになります。

長岡の記念館では2門6000両説を採っていますね。


16時46分
願誓寺です。木川松蔵さんの墓碑があります。

17時12分
西妙寺へ移動。長州藩・大垣藩殉難者7名がおられました。

17時43分
はい、マーボラーメンです。あの時点で心は決まっていたのです。山本元帥が幼少期青っ洟垂らして走り回っていたであろう辺りで食事というのが一興です。

結構辛い。ただエグイ辛さじゃないです。程よい唐辛子の辛味が効いてて、汗が出る出る。できたら冷水の入ったポットがあるとよかったな。

半分くらい食べ終わった頃に店のおっちゃんが何かの用事なのか外へ出まして、すぐ戻ってきたのですが…すかさず「京都からですか」…。ゼルを見たな…。

ってことで、今日4回目のトーク…。もうこんだけ話すことは2度とないだろう…。
しかし…話は京都の話題から長岡の話題、さらには震災の話題と何やかやで盛り上がり、気づいたら20時前…。よくもまぁ酒も呑まんとこんだけ話せるもんだと少々感心しました。

今日は撮影禁止の場所も多く、撮影枚数少ないんで保存は明日にしよ…。

ってことで呑んで寝ました。どんどん夜に弱くなっていくのはいつものことです。



どうでもいいけど、この5月1日から3日までの3日分のレポ書くだけでおよそ一ヶ月もかかったよ…。特に5月2日は、もはや紀行文じゃないよね…。