五月二日
8時30分スタート…。勢いで「仮面ライダーW」まで見てしまった…。
今日は肉体勝負!。朝日山登山です。
事前の調査で、現在朝日山は関係者以外は自力で登るしかないってことがわかってましたから、覚悟決めます。

9時
越の大橋到着。この橋は北越戦争の古戦場である榎峠の前にかかる橋で、司馬さんの書いた「峠」記念碑があるんです。

越の大橋




そこから定番の榎峠・朝日山を展望します。

ちょうど赤い屋根の左側の辺りがが榎峠古戦場パーク、その屋根の右側が中越地震で崩落して母子が生き埋めとなり、ハイパーレスキューの活躍で子供だけは救われたという日本中が注視することになった奇跡の救出現場・妙見大崩落地跡です。まだその痕跡だけは残っています。

9時22分
その榎峠古戦場パークに到着。パークって…。まぁいいんですけど…。

9時29分
何か案内板があったので寄ってみました。榎峠や朝日山の位置関係がわかりそうなので、付録でつけときます。

9時35分
旭山登山道入り口・浦柄神社に到着。
案内看板には山頂まで70分!。山の裏の方に駐車場があるので、そっちから登ったほうが速そうです。
でもそうできない事情がこっちにはあるんですね。あくまで正攻法でなければいけない事情が。

さて、浦柄神社には朝日山での会津藩士殉難者21名22基の墓碑があります。それを一基一基丹念に撮っていくんですが…明らかにおかしな墓碑が一本あるんです。
なにがおかしいかって、墓碑の側面に「官軍参謀時山直八之碑」って刻んであるんです。なぜ会津藩士の墓碑に、敵であった長州藩の時山さんの名が刻んであるのか…全く理解できません。普通に解釈したら、この墓碑は時山さんその人のものと考えざるをえないのですが…。それとも本来時山さんの碑であったものを、よもや会津藩士の墓碑に流用したとか…。謎です…。

そしていよいよ登山開始!。ゼルのハンドルに据え付けてるVAAMを抜き取って持っていかないと…って…無い〜っ! ◇ミ\(°ロ°\)三三(/°ロ°)/ミ◇!。

登山するのに飲料水無しで挑めってか?。かと言って周辺に買えそうな自販機すら無い…。いいよ!。やってやるよ!。やりゃぁいいんだろ!!。

開始後5分で脳内から撤退命令が数十度発令されましたよ。「道舗装されてんだし、戻ってゼルで来ようよ〜」って…。それを体が振り切って登っていくと、ほどなく「恢興之道」に入りました。この道は、中越沖地震の崩落で道路が寸断されたために急遽作られた登山道です。この道に入ったら、もう後戻りはできません…。

さすがに冬季用ライダージャケットで登ったのは失敗だったかなぁ…。暑い…じゃなくて熱い…。あぁ…水分補給もできない…。

旧来の登山道に合流する辺りで何やら人の声が…。合流地点に到達すると…

ん?

何だ何だ?。

ほ??

どうやら看板の修理でしょうか。長い間雪に埋もれて傾いたりしてたのでしょうかね。朝日山には東軍兵士のこうした御墓があちこちにあるらしく、周囲に気を配らなければ見逃す可能性があるんです。

先へ進んでると…

(゜ロ゜;)

「乗せて…」と心の中でつい呟いてました…。

で、ひたすら周囲を気にしながら山頂を目指してると…熱い!。放熱しにくい格好のため、とにかく熱い!!。
そんなとき目の前に融け残った積雪が…。

うりゃ!

(≧▽≦)

異物を取り払ってきれいにしたところで雪を一掴みし、水冷式で顔や首を冷却♪。気持ちいいo┤*´Д`*├o…。
これでもうちょっと頑張れる〜って登ったら…もう山頂でした…。あれ〜、まだ40分くらいしか経ってないよ?!。

ってことで山頂に着きましたぁ\(≧∇≦)/\(≧∇≦)/\(≧∇≦)/\(≧∇≦)/ ♪。

早速定番の眼下に広がる風景を確認。二〇三高地から旅順港が見えたような気分ですねぇ。これでは敵情も手に取るようにわかるわけです。

山頂には大平木観音、塹壕跡、朝日山古戦場碑(揮毫は当時会津松平家当主だった元海軍少将松平保男子爵)、展望台兼資料館などがあり。さらにそれらを取り囲むかのように東軍戦死者墓碑が5基、点在していました。その1つ1つを見ていったのですが、山頂南南東角にさしかかったとき、びっくりする様な光景が眼前にありました。
それは麓まで滑降でもできそうなほど真っ直ぐに伸びた一本の道でした。ただそれだけの単純な風景を異様に見せたのは、その道が人が、まして獣が作ったものではないということです。
震災の崩落跡です。




塹壕跡


崩落痕

同時に蘇る記憶…。「昨日揺れたよな…」。
今ここでそれが来たら、さすがにちびるよ…。来なくても十分足はすくんだけど…。普段ただ目の当たりにするだけじゃこんな感覚はこないかもしれません。いつくるかわからないからこそなんです。

それから資料館兼展望台へ。

長岡方面(北方角)

小千谷大橋方面(西方角)

山本山方面(南西角) 

越後三山方面(南東角) 

で、そんなこんなで…いろいろやってるんですが…ものすごい問題が発生…。
長州藩の仮参謀で、朝日山攻防戦では事実上の総指揮官だった時山直八さんの戦死の場所が見当たらない…。確か石碑も立っており、しかも案内板もあるはず…。それが全く見当たりません。
おかげでそれを探しに登ってきたのとは反対方向の登山道も下っていき、駐車場まで行っちゃいました…。

ずいぶん時間も経ったので、探査を打ち切り下山します。まずはさっき冷却材に利用した雪溜まりでもう一回頭部を冷却、スタスタ降りてると…何と未見の東軍戦死者の墓碑が!。
登ってるときは見落さないよう気をつけたつもりだったのに、しっかり見落としてました。前だけ見てたら確かに死角にある場所ですが、杜撰すぎるだろ…。
これで新国さんの所で2基、山頂周辺で5箇所5基、ここで1基の7箇所8基を確認したことになります(※注)

降りきって浦柄神社でゼルと再会したときは思わず抱きつこうかと思いましたよ。しかしもっと酷い目に遭うと覚悟していたので、少々安堵しました。

裏柄をあとにして、一路慈眼寺へ。

12時29分
慈眼寺着…ではなく、慈眼寺にゼルを停めて、ひとまず近くの酒屋で水分補給です。無給水で登山したんだから…。

12時37分
慈眼寺再到着。写真でしか見たこと無い山門が目の前に。

灯篭には震災の爪痕さえ残っていませんでした。全壊だったのね…。

「岩村軍監河井総督会見記念之碑」。撰文は徳富蘇峰です。この碑の傍にある桜がちょうど散ってて、風向き次第ではいい具合の桜吹雪になるんです。それを狙って5分ほど佇むも…。結局写ったのは花びら1枚…。悲しい…。

会見の間がある本堂へ行くと、何やら中から解説の声が。しかも一発で録音だって分る音声。先客がおられるようなのでしばらく待ちましょうか…っていつ終わるかわからん解説を待てるほどに余裕があるワケもなく、寺務所の方へ拝観の申込みに行きます。
インターフォン押せって書いてあったので押すと、引き戸が開いておじいさんが出てきて、拝観の手順を一通り説明してくれました。先客もおじいさんもいなくなり、一人っきりになった上、例の解説も終わっておりましたので、私のタイミングで気兼ねなくボタンを押せばいつでも始まるってことです。

河井さんと岩村さんの骨格なんかを元に復元した声で、小千谷会談を再現してくれる内容と、ちゃんとした解説の2つがあるようなので、まずは再現音声から聞きましょう。

慶応三(1867)年10月17日、15代将軍徳川慶喜公が大政を奉還してから、日本の主権が朝廷へ移ったわけです。しかし現実的には薩摩長州を主軸とする倒幕勢力と、相変わらず幕府を支持する勢力に別れて今後の政権をめぐって対立する格好になっていたのです。
土佐の坂本龍馬さんなんかは、この2大勢力が武力衝突することで国力が疲弊することを恐れ、平和裡に解決すべく慶喜公を中心とした議会制を実現させようと動いている最中の11月15日に暗殺されてしまい、もはや武力衝突はきっかけ次第という状況にまで煮詰まっていきました。
12月8日、王政復古の大号令が発令され、小御所会議においては慶喜公の辞官納地と謹慎蟄居の決議がなされて幕府側勢力を激怒させます。
さらに並行して江戸では薩摩藩の指示を受けた相楽総三さんら関東系浪士たちが江戸の治安騒擾活動をせっせと行っていたために庄内藩らも堪忍袋の緒が切れてしまい、12月25日に薩摩藩邸焼き討ち事件を引き起こしてしまいます。
これで薩長にとっては、武力衝突のきっかけは掴めたわけです。幕府も覚悟を決めました。
慶応四(1868)年1月3日、慶喜公は朝廷に対し薩摩の悪行を訴え征伐の許しを得るべく1万5000の大軍を京へ向かわせました。幕府軍は、薩摩軍と上鳥羽小枝橋において通せ通さぬの押し問答の末ついに薩摩側が発砲、鳥羽伏見の戦い…すなわち戊辰戦争の幕が切って落とされたのです。

このとき越後長岡藩は、藩主牧野忠訓公や家老河井継之助さんが大坂で警固ににあたっていました。
なぜ大坂にいたかというと、前年の大政奉還で政権の行方が注目されていたころに、政権を再び徳川家へ帰すべきであると幕府・朝廷それぞれに建言するためで、11月30日に来坂して藩主が老中板倉勝静に建言書を出しましたが、ほどなく病に伏せることとなり、家老の河井さんが上洛して公家に対して建言を行うなどしていたのです。

しかし結局建言は無視される形になり、大坂の玉津橋を警固しているところで開戦となったわけです。

河井さんは、長岡藩を戦渦に巻き込まないことを第一に考えていました。
だいたい徳川家は牧野家にとって主筋に当たり、また長岡藩が会津藩に多大な恩顧を受けていたことに拠り、新政府側に付けば主や恩人に刃を向けることになり、武士が最も重んじる「忠」「義」を捨て去ることを意味します。ことに牧野家は家康股肱の臣とも言える徳川十六将に、わざわざ長岡藩初代藩主牧野忠成公を加えて徳川十七将の図を描かせるほどに徳川家の臣としての矜持を持っているのです。従って徳川討伐の軍に加わるなど絶対にありえないことなのです。
さりとて幕府側に付けば勢いを持つ新政府、すなわち朝廷に弓引くことになってしまい、長岡が戦渦に巻き込まれるのは必至です。
従ってどちらにも敵対したくない河井さんは、局外中立の立場を堅持したかったのですね。

1月7日、長岡勢は戦うことなく大坂を引き上げて江戸へ戻ります。
河井さんは藩邸にある金目のものを売り払い、それを資金にガトリング砲2門他多数の武器弾薬を購入し、長岡藩の武装強化を図ります。

普通に考えるなら、戦禍を避けるために武装強化をするなんて矛盾に満ちた行動です。
しかし現実には「安全と平和」は似て非なるものなのです。平和は世の中すべてにおいて争いの無い状況を意味しますが、安全は周囲360度すべての国で争いが起こっていても自分のところだけは争いと無関係な状況にあることです。
つまり、現在の日本国憲法のように戦力も交戦権も放棄して追及しているのが平和です。そのためにはどこかが日本に攻め込んできても、防衛費世界ランキング第5位を誇る自衛隊を擁しながら、専守防衛、自衛以外の攻撃は一切許されない、という一種珍妙な理屈で反撃はせず、もちらん報復として逆に相手国へ攻め込むようなこともせず、日本以外の平和をも維持しようとしているのです。
しかし河井さんが追求しているのは平和ではなく、強大な武力を背景にして長岡藩の安全を担保することだったのです。長岡藩の安全を脅かすものに対しては容赦なく攻撃を加えるが、戦力が大きければ大きいほど、長岡藩を攻めようという気は起こりにくくなるから戦いにはなりにくいという論理です。これを「武装中立」という形で断行したわけです。

この論理は日本では有史以来稀有なものだと思います。日本では味方でない以上敵と見做すのは極普通の論理だったでしょう。戦国の世では味方であっても油断できないくらいでしたからね。その気風を武士という身分は維持しようとしてたわけですから、究極的に敵か味方かの二元論で突き詰める風潮はあったと思います。

鳥羽伏見の戦いに勝利した新政府軍は、戦略目標を江戸と会津に置いていました。幕府の本拠地である江戸と、幕府軍の中核である会津を叩けばこの戦争は終わると考えていたのです。
それで江戸を攻略する東海道先鋒総督府軍をはじめ、中山道から進む東山道鎮撫総督府軍、北陸方面の北陸道先鋒総督府、東北方面を担う奥羽鎮撫総督府を編成し、それを東征大総督府が統括しました。
江戸方面は3月14日には西郷・勝会談で江戸城無血開城が約され、4月11日には西軍入城、5月15には寛永寺に立て篭る彰義隊と交戦して殲滅する上野戦争に勝利しました。
奥州方面は奥羽鎮撫総督九条道孝卿・参謀世良修蔵さんが派遣されて仙台藩や米沢藩に会津追討の命令を出しましたが、世良さんが書いた大山格之助参謀宛の密書が仙台藩に渡ったのです。書簡を送るよう預けられた福島藩用人鈴木六太郎さんに、世良さんがわざわざ「仙台兵士に悟られんよう、十分注意しぃ」って念押ししたもんですから、六太郎さんはその異常に怪しみ、結果福島藩の命で仙台藩士瀬上主膳さんに告げることになったわけです。
その密書には…

(前略) (閏4月)十五日白河へ到来有之申候、右の訳にては、総督府兵力迚は一人も無之、押て返せば今日より両中将(仙台藩主伊達慶邦・米沢藩主上杉斉憲)始各藩にも会に合し候様相成可申、少々にても兵隊有之候はヾ押付出来申候へども、迚も六ヶ敷、宇都宮兵も追々賊処々蜂起にて于今不来大に困り申候、乍併一旦総督取上げに相成候を返す訳には参り不申候間、此上一応京師へ相伺、奥羽の情実得と申入、奥羽皆敵と見て逆撃の大策に致し度候に付、乍不及小子急々江戸へ罷越、大総督府西郷様へも御示談致候上登京仕、尚大阪迄も罷越、大挙奥羽へ皇威之赫然致候様仕度奉存候、此嘆願通にて被相許候時は奥羽は一二年之内には朝廷之有にあらざる様可相成、何とも仙米賊朝廷を軽ずるの心底、片時も難擱奴に御座候、右大挙に相成候時は、払底之軍艦にても一二艘酒田沖へ相廻し、人数も相増、前後挟撃之手段に致方無之候、越後口へも近況申遣べく、尤も庄内へは急に打入候様可致、此件篤と御相談之上取計可申訳に候得共、一日長引時は一日丈け賊論沸騰し不忍聞候間、千万僭越之至に御座候得共、書中にて申上置、(後略)(「二本松藩史」)

と、会津のみならず、奥羽諸藩を敵として一刻も早く討伐すべしと中央に働きかけていることや、そのため江戸や京都へ説得に行こうとしていることが仙台藩に露見して逆鱗に触れてしまい、世良さんは惨殺されて奥羽諸般の結束を固める結果になってしまいました。閏4月22日には奥羽列藩同盟が成立し、奥羽二十五藩が結束して会津藩の救解を新政府へ要求しています。

こうした状況で大総督府の大村益次郎さんは、北陸道、日光街道、奥州街道より会津の南下を防いだ上で、仙台藩に軍事的圧力をかけてこれを追討軍先鋒たらしめ、さらに久保田(秋田)・津軽の両藩をして庄内藩を背後から圧迫して奥羽列藩同盟の中核を各個に切り崩していき、会津藩を孤立させて自滅に陥れるという戦略を立てます。
そのため北陸道から会津に向かうために、西軍に恭順している越後高田藩を本営として軍を集結させていたのです。しかし兵力不足は如何ともし難く、東山道軍から1500名の兵を派遣してもらいました。率いるのは東山道軍鎮撫総督府軍監岩村精一郎さんです。

そのころ長岡藩は、河井さんが会津藩家老佐川官兵衛さん率いる会津軍の藩領立ち入りを頑なに拒否し、会津軍が藩領付近で西軍と交戦していても一切両者に援護をせず静観を守ったのです。
さらに長岡藩にとっても重要な防衛拠点、いわば頚動脈と言ってもいい榎峠から軍を下げて、抗戦の意志がないことを示します。
そして天領だけれども会津藩が管理していた小千谷に岩村軍が本陣を構えると、河井さんは会談を申し込んだのです。目的は長岡藩の中立を認めさせることです。
会談は5月2日、小千谷の慈眼寺にて行われました。

その会談の様子は、岩村さんが後年語った回顧録によると…

「薩長二藩の参謀黒田清隆及び山縣有朋の二人、北陸道より進み来れりとのことにつき、之を待合わせ、高田にて二人と面会せり。二人は官軍人数多からざるを以て、余にも共に進まんことを望めり。余は乃ちこの旨を総督府に報じ、指揮を待ちしに、その儀然るべしとのことにて、更に越後口官軍に命ぜらりたり。是に於て黒田・山縣の両人は海道筋を取りて柏崎方面に向い、余は山道より小千谷に進めり。此の時余に属したるは、尾州、加州、信州諸藩の兵凡そ千五百人、外に薩長の小分隊なりし。余は直ちに小千谷に入りしが、薩長分隊は中途に別れて、小出島に至り、後また小千谷に来れり。
小千谷にては、会津の陣屋を以て官軍の本陣に充てたり。然るところ、長岡藩より使いの者来り、重役河井継之助来陣の上、親しく面会して願いたいことありとのことなり。因って早速承知の旨を答え遣りたるに、翌日河井は自ら小千谷に来れり。本陣にては談判不都合に付き、或る寺院に於てこれに応接せり。河井には随行の士一人ありしが、これは慥(たし)か隣室に居りし様なり。
当方にては余の外、長州の杉山荘一、白井小助と、薩州の淵辺直右衛門とにて、都合四人列席したり。この人々は、各薩長の一部隊の小監軍の如き者にてありしかと覚ゆ。河井は当日肩衣か麻上下か、慥か麻上下を着せしように思わる。
先ず初対面の挨拶を述べ、さて、『事変以来今日まで、
長岡藩の挙動は不都合の廉、甚だ少なからず、出兵、献金、何れもその命に従わず、誠に謝するところを知らず。然しながら弊藩主人に於ては、固より恭順して決して異志ある者に非ず。ただ藩内議論自ら相分かれて、一定せず。且つ種々内情の已む得ざるあり。然るに会津、米沢、桑名の諸兵城下に入り来り、薩長は私心を挟める者、真の官軍に非ず、故に之に抵抗すべしと迫り、若し之を峻拒すれば忽ち開戦となるべき恐れあるを以て、已むを得ず直ちに朝命にも応ぜず今日に至りしなり。願わくば仮すに時日を以てせられよ。然れば先ず藩論を一定し又一方には会桑米等の諸藩を説得して無事にその局を結ぶに至らしめん。今直ちに軍兵を進められるに至りては、忽ち大乱を惹起し、人民塗炭の苦を受くるに至るべく、是れ主人が最も憂慮する所なり。猶、主人委細の心事は、別に認めあり。願わくば之を総督府に取次がれんことを』とて、懐中する嘆願書を取出してこれを差出したり」(「天皇の世紀 十 『河井継之助伝』」)
                                                                                   
河井さんが言うには、長岡藩内でも新政府に対して恭順か抗戦かの意見が二分してしまい、新政府が提示した30000両献金と兵500の供出がすぐにできず申し訳もありません。恭順する気はあるのですが、藩情が不安定の上、会津や米沢や桑名が城下に来ては、薩長は私情で動く偽官軍だから撃退しようと協力を迫り、断れば即時戦闘状態に入る危険性もあるので迂闊に返答できないのです。しかし今少し時間をいただければ、藩論を統一し、会津や桑名、米沢藩を説得して大戦をすることなく丸く収めてみせます。もし今すぐ軍を動かすようなことを西軍がすれば、たちまち戦端が開かれてしまい、人々を苦しめることになり、そのことを長岡藩主は憂慮している。それについて嘆願書を書いているので、総督府へ渡してほしい。
ということなのです。

しかしながら、岩村さんの回想の続きでは…

「余、この時僅かに二十三歳、血気方にさかんに、且つ河井の人物経歴は今に至りて漸く知るところにして、当時固より之を知らん由もなし。封建時代の常として、各藩の重役は皆、藩の門閥家のみ。所謂馬鹿家老たる習いなれば、現に余に随行せる信州各藩の重役等の如く、河井もまた尋常一様の門閥家老に過ぎざるべしと推察したり。河井の人物を知ること今日の如くならば、まだ談判の仕様もありしなるべけれど、右の次第なりしかば、頭掛けにこれを斥けて取合わず、遂に破裂に及びたり。殊に総督府の内旨もあり、且つ兼ねて探偵を入れて長岡の内情をも探りたるに、その報ずる所、皆長岡藩の異志あるに在りしかば、今、河井が仮すに時日を以てせよと言うを聴きては、これ時日を借りて戦備を修めん為の謀略に相違なしと信じ、遂に断然之を拒絶し、『既にこれまで、一たびも朝命を奉ぜずして、今更かかる言訳の相立つべきに非ず、願いの趣聞届け難し、命を奉ずる能わざれば、唯兵馬の間に於て相見るの外なく、嘆願書の如きは固より取次ぐの必要なし』とて更に之を開き見もせず、直ちにその請を斥けたり。
全体長岡藩は初めより朝敵と見做され、必ず討伐を期せしが故に、斯る始末にも及びたるなり。河井は猶も繰返し、頻りに嘆願に及びたれども、余は最早之を聴くの要なしとて座を起ちたるに、彼は更に余が裾を捉えて訴うるところありしかど、余は直ちに振放ちて奥に入りたり。こは恰も午後二時に頃にして、河井との談判は僅かに三十分に過ぎざるべし。固より議論も何も為したるに非ず、ただ河井は事情を述べて嘆願を為し、余は全く取合わざりしまでなり。今彼の河井の写真を見て、実に当年の事を想い出さるるなり。この時河井は固より嘆願に来りし者なれども、意気傲然、論詰の語を帯び、気焔揚がり居れり。余が座を起ちしより、河井も余儀なく退席したりが、後に門衛に聴く所にては、河井は猶も幾度となく本陣の門に来り、再度の面会を請い、深夜までその付近に徘徊して頻りに取次がんことを求めたれども、衛卒の之を諾せざりしかば、遂に已むなく引取りしとの事なり。今に至りて之を熟考すれば、河井が斯くも繰返して嘆願したるは、或は真に戦意なかりしにてもあらんか、されど当時は勢い之を信ぜざりし。」
(「天皇の世紀 十 『河井継之助伝』」)                                                                                   

と嘆願書の受け取りは拒絶され、兵も30000両献金もできないなら、敵として戦うだけとして会談は終わります。

岩村さんが河井さんをこれまで会ってきた「馬鹿家老」と同一視していることについては、岩村さん自身の人を見る目の問題としても、ただその場で会った第一印象だけで事を決断してはいないようです。
いつのころからかはわかりませんが、長岡藩に密偵を入れて国情は探っていたようで、その報告がすべて長岡藩は「異志ある」、つまり敵対するであろう不穏な情勢だと報告されているのなら、初めから穿った見方をしてしまうのも無理はないでしょう。
5月1日には
「草生津御固場にて、御新調の機関砲を見る、多大砲二門にて、値一万二千金の旨」(「戊辰戦争とガトリング砲」より『鈴木総之丞の日記』)
とガトリング砲の射撃演習をやった節があり、こうした新型重火器の演習などを密偵がもし探っていたならば、長岡藩に抗戦の意志があると報告されてもやむを得ないと思います。

そして当時の河井さん側についての記録が、河井さんの従者だった木川松蔵さんの証言として「河井継之助伝」に挙がっています。

「旦那様(継之助)と御同行なされたは二見虎三郎様で、供は私と今一人でした。駕籠舁(かごかき)は二十人ずつ四十人で、小千谷へ着くと、直ぐに官軍の本陣へ御出になりました。旦那様と二見様は奥へ御通りなされ、私共は前に休んで待って居りました暫く御出にならなかったが、その中に片貝(地名)の佐藤某というが、御注進々々々といって駆けて参り、唯今会津勢二千人旭の川(渋海川)に船橋を架け、片貝へ向って進んで参りましたと申しますと、本陣では大騒ぎに成り、旦那様も御話が出来なかったと見えまして、直ぐにお出になりましたが、それより皆が御供をして、信濃川の脇の旅籠屋へ参りました。間もなく官軍から御使いが有って、旦那様は直ぐに御出掛けになりましたが、それより皆が御供をして、信濃川の脇の旅籠屋へ参りました。間もなく官軍から御使いが有って、旦那様は直ぐに御出掛けになりましたが、此度は本陣でなくて寺でした。
官軍の隊長方はヅーと列んで御談判の様子、何の事か能く解りませぬが、旦那様は嘆願の筋を御陳べになった様子であります。また官軍の隊長からは、高田へ御使いがお出ましになった節に、なぜ言付けに従わなかったとか、
会津や桑名の兵隊の中に長岡の武器が見えるが如何した訳だとか云う声がポツポツ聞えました。
色々御話もあったでしょうが、旦那様の思い通りには行かなかったと見えて、その場を御退出になりました。宿の周りは官軍の方が始終囲んで居ったようでした。その晩には旦那様は二見様を相手にして酒だのと御命じになり、面白そうに詩を吟じて御座られた。私共は次の間に居ったのです。人足共は、戦争の始まったという事を聞いて、御帰しくだされ度いと騒ぎ出しましたけれど、旦那様は、明日まで待てといって御許しがなかったです。さて翌日は御帰りの事になりましたが、途中で聞けば、戦争も
会津方が負けで、しかも五間梯子の御印(長岡藩の印)の付いて居った者が跡に残って居ったそうでした。是は最初会津の兵隊共が城下へ参り、武器を貸せとて色々六ヵ敷いことをいっても、旦那様が御貸せにならなかったので、わざと藩の印を付けたものを置捨て居ったのであったそうです(「天皇の世紀 十 『河井継之助伝』」)

交渉は岩村さんが回想した通りなのでしょうか、一方的に責められて終わった感じに見受けられます。
さらに会津藩や桑名藩が、河井さんの会談をブチ壊すために、わざわざ会談の時間にぶつけて攻撃を開始したり、敗走するにあたって長岡藩の袖印をつけたりしてあたかも長岡藩が奥羽列藩同盟に加盟したかのような欺瞞工作を行うなど、薩摩藩が藩邸焼き討ち事件を誘発させたことを責められないような行動が見受けられます。この工作に乗せられた岩村さん等が態度を硬化させたのならば、形振り構わぬ東軍の戦略は当たり、戦渦に巻き込まれる形となった長岡藩は哀れという他ありません。
河井さんがヤケ酒?を呑んで騒ぎたくなる気持ちもわかります。

ただ、一説には、河井さんは藩内の恭順派を抑えるために会談を申し込み、恭順を匂わせつつもその実「意気傲然、論詰の語を帯び、気焔揚がり」といった、恐縮の欠片も無い不遜な態度などで巧妙に談判破裂へと誘っていき、藩論を恭順派に対しても筋を通した上で、主戦論に統一することを目的にしていたというのがあります。
実際薩長に引けを取らないだけの近代武装を整えたわけですから。
もしそうだとしたら、敵も味方も手玉に取った河井さんの手腕は見事なものとしかいいようがありません。
ヤケ酒どころか祝杯ですよね。
この手法、日本軍による柳条湖事件や、フランクリン・ルーズベルト大統領による対日政策に見られるメジャーな外交術です。

いずれにしても河井さんが、武装中立についてまるっきり岩村さんに説明する間もなく談判が決裂したことで、両者は食い違ったまま別れたことになります。

しかし不可解なのは、同席した「各薩長の一部隊の小監軍の如き者」達です。
岩村さんはそもそも坂本龍馬さんの活躍に触発されて、坂本さんのもとで働こうと京へ出たものの、折悪しくそれが坂本さん暗殺の直後だったために、知遇を得ることなく陸援隊に入り天満屋事件や高野山出兵に参加したことでその存在を知られるようになります。
ただ悪辣な見方をすれば、天満屋事件でどのような活躍をしたのか伝わっていませんし、高野山出兵は公卿鷲尾隆聚に率いられて他の陸援隊士と共に慶応三(1867)年12月13日に京都を発ち、錦旗の威光で戦うことなく高野山や紀州藩を新政府に服従させて慶応四(1868)年1月16日に京都に戻ったということで、いわば鳥羽伏見の戦いを体よく疎開したにも関わらず、その経歴と土佐藩という後ろ盾があって軍監という立場にいたわけです。

そこへいくと、「各薩長の一部隊の小監軍の如き者」達は違います。

杉山さんは慶応二(1866)年の小倉戦争で奇兵隊第五銃隊長として参戦しています。そのときの奇兵隊軍監は山縣さんで参謀が時山直八さん。また第六銃隊長は三浦梧楼さん、第七銃隊長は鳥尾小弥太さんでした。

白井さんは吉田松陰さんと交遊しており、獄中の松陰さんに便宜を図ったために藩から謹慎食らってます。文久三(1863)年には高杉さんと共に奇兵隊創設に参加、翌年の四国連合艦隊下関砲撃事件の時にも参戦し、慶応元(1865)年には新設された真武隊の総督となり、さらに第二奇兵隊軍監として四境戦争では大島口の戦いを指揮しています。維新後栄達した山縣さんや伊藤博文(俊輔)さんらも、白井さんにかかればいつまでたっても小僧扱いで、長州閥のご意見番(といっても本当に意見したことはなさそうなので、単なる厄介者?)的存在でした。

淵辺さんは薩摩屈指の軍略家だった伊地知正治さん(東山道軍参謀)から兵学を学び、鳥羽伏見の戦いに参戦して負傷するも、北陸道鎮撫総督府参謀黒田清隆の幕僚として返り咲いていたのです。

いわばド新人と大ベテラン位の差があるのにも関わらず、なぜ3人はなぜ岩村さんの独断専行を許したのかがわからないんです。戦略目標が江戸と会津である以上、長岡に過剰の圧力をかける必要も無く、むしろ戦意が無いというのならば会津攻略前に徒に兵力を損耗することのないよう方策を練ることもできたでしょう。そう諫言できない立場ではないと思うのです。

同会見のことを山縣さんは

「山道の兵(小千谷の岩村隊)と海道の兵(柏崎の本隊)とは、是に至りて予ての作戦計画に従い、応(まさ)に相応じて長岡城を挟撃すべき場合に到着したるが、長岡藩は是より先き五月の二日に、其の重役河井継之助を小千谷の陣営に遣わし、官軍が長岡の領内を通過することなき様請願を為したり。而して其の理由は、目下闔藩の人心紛擾を極め居り、之を鎮撫すること容易ならず万一官軍が領内を通過するに於ては或は不慮の変あらんことを虞ると云ふに在り。当時小千谷支隊の指揮に任じ居たるは軍監岩村精一郎(男爵高俊氏ナリ)及び薩の淵辺直右衛門と長の白井小介(原文ママ)となりしが、長岡藩の人心紛擾の故を以て、我が進軍を中止することは、到底行はるべき話しに非ず、我れは是非とも長岡領を通行すべきにより、若し之を拒まんとならば、宜しく兵馬の上にて相見るべしとて、断然河井の請願を卻けたる由。

河井継之助が小千谷に走りたること及び其時の応対振り等につきては、近年刊行の諸書に記する所互に異同あり、一々信を措くに足らざるの状あるを以て試に『長岡藩戦争之記』を按ずるに左の如く記しあり。

旧領一里の外、旧会の陣屋跡、小千谷と申所、御宿陣に相成、御総督府の御役人も御出張之趣、相聞候付、五月朔日、用人花輪彦左衛門を以て重役之者嘆願の為
拝謁致度之旨、相伺候処、御聞届被下候に付翌二日河井継之助罷出、願書差上候得共、御披見も不被下、何と可致様も無之、同所出張之藩へ、倚頼致候得共是亦相断り時刻移り同所に一泊、翌日罷帰り其段申達、種々議論を尽し候得共、云々

而して其の所謂ゆる嘆願書なるものは、即ち左の如し

恐れながら謹んで嘆願奉り候。丁卯
(慶応三年)の十月、徳川氏天下の政権を奉還致され候節、今日の勢いに至るべくと悲嘆の余り、疎践を顧みず、忌諱を憚らず、上京献言仕り、退きて徳川氏へも忠諫仕り度き段、書取を以て相伺い、御聞き済みの上、十二月二十八日京地出立、翌二十九日下坂仕り候ところ、城内物騒がしく、早速入場も相叶わず、当正月朔日、昼頃に至り、漸く重臣の者入城届仕り候ところ、彼是混雑、その辺に至り兼ね、二日、三日と相成り候ては、既に如何とも致すべからざる模様柄、万民の艱苦、忽ち生ずべきは眼前相分り候えども、何と仕る可く候ようもこれなく、尤も上京前、徳川氏政令の不治と、当今の形勢と、一、二執事の者へ申出で候えども、その段も届き兼ね、猶また下坂の上、篤と諫争仕り度く存じ奉り候ところ、前件の次第柄、只々嘆息罷り在り候仕合。帰府以来屡々申立ても仕り候えども、謂れざる取始末、見聞に忍びざる事のみにて、致方もこれなく、この上は封土の人民を、撫安仕り候より外これなしと、拠なく帰邑仕り候。
当春より徳川家御追討の御命令これあり候えども、
臣として君を諌むるはこれ有るべく、諫争も仕らず、恩義を忘れ、累代の君へ鋒を向け候は、大悪無道、忍んでこれを為すべきや。方今諸侯伯の所業、弁論を待たず、日本国の人理、棄絶に至り、何と申すべき様もこれなく、是等の人々、何程御味方仕り候とも、格別御為にも相成るまじく歟。
徳川家は前後条理も相立たず、終に今日に至り候次第、日夜苦心罷在り候えども、諫争の誠意も貫かず、微力の済うべからざるところに御座候えば、何様憂慮仕り候も致し方これなく、微小の弊邑に御座候えども、人民十余万もこれ有り候えば、右の者共をして、職業を励まし、財用を足し、四民を安じ候を以て、天職と心掛居り候ほか他事これなく、慎みて天下の治平を相待ち、及ばずながら応分の御奉公仕るべき心底に御座候。
もっとも表に忠義を唱え、内実に割拠傍観仕り候ようなる儀は、他にこれあり候も悪むべきところにて、その辺は申訳仕り候までもこれ無く、一毫の求なく、誰人に怨あるにも非ず。御威力の十の一に当らざるは、愚昧の者も相分り候儀に御座候えども、義理を守り、天職を尽し、滅亡仕り候わば、天命と明(諦)らめ、覚悟も極むべく候えども、彼是の強弱を計り、二心を懐き、不義の名を以て隣国の兵禍を受け、領民を苦しめ、滅亡を取り、汚名を後世へ残し候ては、申訳もこれなく、衷情御洞察なし下され候よう仕り度く存じ奉り候。
方今海外の諸国、互いに富強を計り、嘉永癸丑渡来
(ペリー来航)よりの所業、御承知在らせられ候とおり、申上げるまでもこれ無く、嘆息罷在り候ところ、自国の争乱止まざるの勢いと相成り候ては、行末の常呂(ところ)、深く御案じ申上げ候儀に御座候。微小の弊邑にても用を節し、倹を勤め、両三年中には海軍用意も仕るべくと、一同勉励仕り候ところ、斯る形勢と相成り、乱を済うに補なく、徒らに領民を苦しめ、農時を妨げ、疲弊を極め候ては、悲しむべき事に御座候。
万死を犯し、朝廷へ献言奉るも、その詮無く、徳川氏へ申立て候もその益無く、進退途を失い、ただ領民を治むるを以て、天職となし、暫く清時を待つの心事、宜敷く御憐察も成し下され候わば、この儘差置かれ度く、然らざれば民心の動揺、大害の生ずる所、幾重にも御赦免願い奉り候。独り一領一国の為のみにて申上げ候にはこれ無く、日本国中協和合力、世界へ恥無きの強国に成させられ候わば、天下の幸、これに過ぎず。事迫り、情切し、愚誠の程、御採用にも相成り候わば、有り難く存じ奉り候。恐惶恐懼謹言。
                                      慶応四年辰年五月             
   牧野駿河守

右『戦争之記』は維新後長岡藩より政府へ差出したるものにして、其の記する処寧ろ精確なるべしと思はる。

初め河井継之助が来ることにつきて、小千谷より報告ありし時、
余は兎に角之を拘留し置くべしとの指図を為したるに、此の指図が小千谷に達したる時には河井は已に立ち去り居たる由にて、余は窃かに白井等の不用意を遺憾とすると同時に、小千谷方面の状況、頗る掛念すべきものもあるを察し、時山をして同方面の指揮に任ぜしめんと欲し、五月の十日に時山と同道、同地に出向きたり。然るに途中に於て、榎峠の方向に当たり、激烈なる銃声を聞くこと頻りにして、接戦の正に酣なるを知りたれば、急ぎて小千谷の本陣に着し、質すに榎峠の戦況如何を以てすれば未だ何等の情報に接せず且つ銃声をも聞かずと云へり。焉んぞ驚かざる得んや、加之、余等が到着したる時、恰かも岩村以下の諸長官が晩餐を為し居たる、其の有様を見れば、銘々に膳を控え、剰へ人をして給仕せしめ居るなど、殆んど戦陣中に在る者の所為とは思われざるものアリ、余は憤然として彼れ等を叱責し、急に斥候を派遣せしめたるに、予て榎峠に出しありたる尾州上田の二小隊は、敗られて退却を為し、榎峠の要害は已に敵の為めに占領せらりたりとの事なり。」(「山縣公遺稿」より『こしのやまかぜ』・嘆願書部分はほぼ同内容につき、読み下してある「天皇の世紀 十 『河井継之助伝』」の方を引用)

と長岡藩攻撃がある程度規定路線だったことが伺えます。それは長岡藩が30000両献金も兵500名の供出にも応じなかったことで、恭順の意志はないと見られているのですから仕方ないでしょう。
そして嘆願書には、徳川の恩を忘れて西軍に加わった大名を「方今諸侯伯の所業、弁論を待たず、日本国の人理、棄絶に至り」と嘆く辺り、いかにも武士としての忠義を重んじる姿勢に満ちていますが、「天皇の世紀」で大佛次郎さんは、「日和見で、節操なき諸大名の大地に根のない群動を、痛烈に批判し、『日本国の人理』と言ったのであるが、実は革命はこれを廃絶せしめる為のものであった」と書いています。まったくその通りです。正確にいえば、徳川家や旧幕府に対して抱かれている忠義を日本から廃絶させなければ徳川を滅ぼせないのですから。河井さんが守ろうとしていた武士としての本分を廃絶させることが目的なのですから、この嘆願書が聞き届けられる可能性はまずないでしょう。むしろ積極的に潰しにかかるはずです。

さらに長岡藩七万四千石の小藩でありながら、藩士は河井さんの方針によって「一家に一挺」ミニエー銃がありその数は600丁挺(藩士だけなら)とも1600挺(足軽まで含めれば)ともいわれてます。さらにアームストロング砲があったと思しき記録もあり、果てはガトリング砲2門という、火力だけなら会津藩や仙台藩にも引けを取らない東軍最高水準の武装振りです。恭順の態度を見せない以上、敵視されない方が不思議でしょう。

だから長岡藩より避戦に向けて会談の申し入れがあった時点で和議の芽が萌じたとしても、岩村さん等にはその芽を摘む以外の言動しか取れなかったのかもしれません。これが機略に富み、かつ将たる器を備えていたのであれば、開戦した場合の兵力の損耗やら乏しい弾薬の温存やらと今後を計算した上で、和議か開戦かを天秤にかけながら、もっと臨機応変な処置も採れたのでしょう。

しかし岩村さんはその器でなく、ただ軍監という立場ゆえに、上からの命令通りに軍を監督するだけであり、また中級士官レベルじゃ大局的戦略に容喙できるものでもなかったため、ひたすらひたむきに河井さんの嘆願を拒絶することのみに終始したとも考えられます(それが逆に大局に影響を及ぼす一大事だったことにも気付かず…)。
そう考えれば、他の「各薩長の一部隊の小監軍の如き者」達が口を挟まなかったのかも一応理解できます。彼らもその職掌から同様の立場にいるわけですからね。
だから山縣さんが河井さん拘留の命(山縣さんの目的が、河井さんを拘留して自ら会談を持ちたかったのか、長岡藩の中心的危険人物と悟って身柄を拘束したかったのかは不明ですが…)を出したが間に合わず、逃してしまったことに対して「岩村等」でも「淵辺等」でもなく、「白井等の不用意を遺憾とする」と代表格として白井さんの名を挙げたのには、他の連中よりも深い松陰門下以来の知己であるだけに、「それくらいの臨機応変な判断があなたならできたんじゃないのか?」という気持ちが汲み取れる気がするんです。
ところで…杉山さんはどこへ行ったのでしょう、山縣さん…。回想に名前挙がってませんけど…。


そして5月3日、河井さんは本陣の光福寺に各隊長を集めて開戦を告げるのです。
これにより拒絶していた会津藩や桑名藩といった東軍勢が長岡藩内に続々入り始めます。
まず最優先の戦略目標は、頚動脈たる榎峠の奪還です。
ここを奪い返して西軍を小千谷に引かせた後、時を移さず信濃川を渡河して西軍本営を潰して敗戦を決定づけ、これによって日和見的立場にいる諸藩や西軍から寝返る親藩や譜代を取り込んで勢力を拡大して戦線を膠着化させて冬将軍の到来を待ちつつ、一方で戦争を鎮圧出来ない新政府の力の無さを露呈させ、信用を失墜させることで諸外国の心証を悪化させ、外国勢力の介入で和議に漕ぎ着けるという、「勝てないまでも負けない戦争」戦略を考えていたようです。これは後に日露戦争でも採られた戦略です。

5月12日、山縣さんがその辺の不穏な空気を感じて時山さんとともに小千谷に向かう途中で、榎峠からの砲声を聞いて開戦を知ったようです。ところが小千谷の本陣についてみると、「未だ何等の情報に接せず且つ銃声をも聞かず」という状況だったのです。現在ほど騒々しくはなさそうな当時であれば、まだ聞こえそうな距離じゃないのかなぁと現地で体感したのですが、どうにもそうではないと。
おまけに岩村さん等は呑気に給仕付で御飯食べてたって…ブチ切れた山縣さんはさぞかし怖かったでしょうね。「叱責し」とは仰ってますが、一説には膳を蹴り上げるほどに暴れたとも…。
即座に指揮権を剥奪し(といっても序列でいえば上官だから、当然の流れでしょうけど)陣頭指揮を執り始めるのですが、榎峠を守備する尾張・上田の藩兵2個小隊は必死で防戦しているにも関わらず、

「官軍の不幸は之のみに非ず。此頃は恰かも梅雨の期節にして、陰霖已に連日に及び、信濃川は一丈八尺の増水を為し居り、此上更に一二尺の増水を見るに於ては、到底舟を渡すの望みなきなり。此夕余は親しく渡河の実況を見分したるに、独浪怒号、滿目莽々として、当る可からざるの勢あり、一隻の舟を済すに、尚八人の水手を要し、而して
兵士は僅かに七八人を載せ得るに過ぎず、独り出兵の困難なるのみに非ず、糧食弾薬の運搬も亦従って太だ渋滞せざるを得ざるなり」
(「山縣公遺稿」より『こしのやまかぜ』)

と信濃川が増水していたために渡河出来ずに増援が出せず、夕方になってようやく一部援兵が渡河しますが、時すでに遅く、11日までに榎峠や朝日山といった軍事上の重要拠点は長岡藩等東軍に占領されてしまったのです。

「余は明暁を期して進撃を行ふの方略を決し、部署を定めて時山をして進撃部隊の指揮官たらしめ、余は明暁援兵を伴ふて来り会すべきことを約し、別れて小千谷に帰りたり。豈に料らんや此別即ち時山との永訣とならんとは、別に臨んで時山が、明日の戦ひは赤阪の戦ひよりも困難なるべしと語りたる、其の言葉は、今尚余の耳底に留まりて、悲酸の響きを為し居るなり」(「山縣公遺稿」より『こしのやまかぜ』)

と山縣さんは援軍を呼ぶために小千谷に戻り、引き連れた後時山さんと連携して早朝総攻撃をかける作戦を立案します。
それが時山さんと山縣さんの今生の別れになるとは思わなかったでしょう。

5月13日、山縣さんは小千谷で援軍の到来を待っていましたが、命令伝達過程の不手際で援軍の到来が遅れ、急ぎ時山さんの陣営に駆けつけたところ、時山さんは時機を失する恐れがあるとすでに出陣した後で、朝日山にて熾烈な戦闘状態にありました。
時山さんは奇兵隊二番隊・五番隊・六番隊、薩摩藩二隊半を率いて朝日山山頂を目指して進撃していました。朝日山の軍事的重要拠点と位置づけて、経験豊富な薩長の精鋭部隊を引き連れての攻撃だったので、朝霧で視界がないのも幸いして山頂付近まで突破しつつあったのです。
最後の難関は山頂の東軍朝日山守備隊本陣なんですが、ここで指揮を執っていたのが桑名藩雷神隊の智将・立見鑑三郎さんです。

「西軍猛進、前塁を陥れ、更に東軍の耳目を偽るべく東軍を背にし、空銃を自軍に向けて発射しつつ前進し、相距る数歩に及ぶ。時に濃霧冥濛、殆んど咫尺を弁ぜず。暗中相暗唖するのみ。安田隊(長岡藩士安田多膳さん率いる長岡藩槍隊)銃を棄て、刀槍を執りて突撃せんとす。桑将立見鑑三郎これを止めて曰く、濃霧かくの如し、勢い同士打ちを免れず、我に一策あり、暫くこれを待てと。乃ち大呼して云く、敵十五、六人を仆(たお)し、分捕その数を知らず、最早味方に十分の勝利なれど猶奮戦して一人も余さずに討取るべしと。斯くと聞きて西軍やや逡巡す。東軍機に乗じて猪突し、縦横搏戦す。時山自ら隊旗を揮い、挺身大呼、崩れかかれる味方を激励して奮闘せしが、立見隊の砲手三木重左衛門の狙撃する所となりて殪(たお)る。西軍既に首将を亡い意気沮喪し、遂に大いに敗れ、蹂践、崖に陥りて死するもの算なし。」(「天皇の世紀 十 『河井継之助伝』」)

「右人
(立見鑑三郎)大声にて申され候には、敵十五、六人討取り、分捕等は数知らず、最早味方十分の勝ちに候間、今一息防ぎと申され候ところ、敵これを聞き、避(辟)易して鼠の逃げるが如くソロソロと引取り候を、味方勝鬨を上げ、酒を呑みながら逃る敵を追討ち致し、銃、弾薬等を分捕り候ところ、残らず元込に候。その外首を取り、懐中をさがし、書付奪い取り見候ところ、長州藩とこれあり候。今日怪我人吉田正次郎、井上勝太郎両人なり。何れも命には障り御座なく候」(天皇の世紀 十 『安田隊報告』)

(北越戦争から数年後のこと)長岡藩士にして、当時朝日山の陣中に在りしと云ふ三島億次郎(三島億二郎、戦争当時川島億二郎)に出逢ひ、互に昔語りを為したることありしが、同人の話に依れば、此日朝日山の戦ひは頗る激烈にして、賊兵は已に官軍の為めに二個の砲塁奪はれ、殆んど復た其の攻撃を支ふるに堪へず、従って已に長岡方面に退却したる者も少なからざりしに、適ま官軍の前頭にありて指揮を為し居たる者が銃丸に中(あた)りて斃るゝと同時に、官軍は俄かに浮き足になり、賊兵は為めに意外の大捷を得たり。而して此の指揮者の時山なることは、其の分捕の日記帳によりて知られたりと云へり。」(「山縣公遺稿」より『こしのやまかぜ』)

両軍双方とも猪突猛進ではなく、視界の利かない霧という気象条件を生かして虚々実々の駆け引きをしているところが興味深いです。
東軍のフリをして寺軍に空砲を発砲する時山隊。押されているフリをして後退しても、それは実質前進ですからね。こういった機転は高杉さんや久坂さんらと共に、長州がやらかした様々な騒動に参加してる時山さんの豊富な実戦経験から出てきたものでしょうか。
一方の立見さんは、この戊辰戦争が初陣で、宇都宮城攻略や、柏崎で実戦を重ねたとはいえ時山さんほどの経験はありません。
しかし立見さんは敵が間近に迫ったところでも、うろたえることなく豪胆にも「味方大勝!」と叫んで長州軍を怯ませ、その隙を突いて一気に畳みかけて、遂には時山さんを戦死させて長州軍を潰走させる大戦果をあげたわけです。
後々「賊軍」とも言われた東軍の将として闘いながら、維新後は陸軍軍人として最後陸軍大将にまでなったのは立見さんくらいでしょう(長州征伐の際小倉藩軍として参加した奥保鞏元帥も戊辰戦争では西軍でしたし、会津の柴五郎さんはまだ子供でしたし…)。それほど天性の智勇を兼ね備えた将だったのです。
結局攻略に失敗した榎峠では以後散発的な戦闘が繰り返されますが、陥落させるには至りませんでした。


再現会談を聞きながら、会見から今朝行った朝日山での攻防戦に至るまでのことを思い巡らし(そういうことにしておいて…。編集上の都合で慈眼寺と朝日山攻防戦の話を一まとめにしたなんて言えないし…)会見の間で写真撮ったり上座に座ったり下座に座ったりいろいろやりたい放題やってたところで、再現会談が終わったので、次の解説の方を流しつつ展示物を眺めてたら、さっきのおじいさんとお次の拝観者が入ってきました。そしておじいさん、私を見るなり、「京都の方、まだおられましたか」って…(京都から来たことはすでに話してました)。いや、まだ解説全部聞いてないですよ〜。多分入ってからまだ10分くらいしか経ってないはずですし…。まぁさすがにそうツッコむ根性は有りませんが…。ただそれをきっかけに慈眼寺さんの本山・京都智積院の話になり…おじいさんがご住職だってことが発覚し…震災の話や河井さんの話になり…気づいたらおよそ90分も話してました。

ご住職の家系は元々長岡で海産物を商っていましたが、北越戦争で店が駄目になり、先代は高知の真言宗智山派・五台山竹林寺に修行に出されたそうです。
そして住職として赴任したのが長岡と土佐に最も深い因縁を持つ慈眼寺だったということです。長岡と土佐に縁を持つ先代はそれを契機に小千谷談判に関する資料の収集に努め、会見の間の保存にご尽力されたそうで、それを先ほど私は拝見していたんですね。
また先代は、寺子屋みたいな感じで子供を教えるなど教育にも力を入れておられ(隣の幼稚園はそれが形となったもの)、その子供たちを率いて朝日山に登った折に、子供の一人が小銃弾を見つけたりなんかしたそうです。そういえば小銃弾も展示してましたね…。
う゛〜、掘りてえぇ〜…。

前日に只見の医王寺に行ってきつかったっていう話を振ったら、ご住職も若い頃に行かれたそうです。しかも…徒歩で…。当時只見線も全通してない頃で、夜明け前に出て夜中に着くようなハードな徒歩行だったようですが、そりゃそうでしょう!。六十里峠なんて、普通に登山ですよ。
それ以上にびっくりしたのは、行った理由でした。何でも慈眼寺のご住職は、只見の医王寺の住職も兼ねてるらしい!。道理で無住のはずです。「農家の倉庫みたい」なんて言わなくてよかったよ…。で、いくら住職だからって、その後2度と歩いて行くことはなかったそうです。

ご住職自身も子供の頃河井さん縁の人物に会っているそうです。昭和十二(1937)年の「岩村軍監河井総督会見記念之碑」除幕式の際、河井さんの甥・根岸錬次郎さんが出席されておられました。このとき岩村さんの甥も出席されていたのですが、岩村さん側に反省がなかったため和解はならなかったという逸話が残っています。で、ご住職は根岸さんに「おみしゃん」って呼び掛けられて意味がわからずフリーズしたそうです。そのとき「『おみしゃん』は『お前さん』の武家訛だよ」って教わったことを語ってくださいました。
つまり昭和の頃には「おみしゃん」は廃れていたんですね。確かに今は「おめさん」で統一されてるみたいですからね。

岩村さんについてはご住職も理解を示しておられました。小千谷会談当時24歳だった岩村さんが1500名の兵を率いること自体異常なことで、そうした人事をした新政府の責任を問うてましたね。元々ご住職自身軍隊経験があるようなので、それに基づく旧軍のシステムから考えればありえないことだそうです。そりゃそうででしょう、23、4歳といえば陸軍幼年学校から陸軍士官学校を経て陸軍大学校までを出たエリート層のトップクラスで中尉くらいで、じき大尉に届くだろう年齢で、それでも歩兵200名足らずの中隊長程度であり、連隊規模に近い1500人という将兵の指揮は最低でも中佐クラスです。連隊規模なら連隊長になれる階級は大佐ですよ。志士として大した活動歴も戦歴も無い岩村さんとしては大出世もいいとこです。
いくら階級制度が未熟なこの時期でも、同世代ならば西軍で長州の山田市之亟(顕義)さん、東軍なら桑名の立見鑑三郎(尚文)さんといった天性の用兵家レベルでようやく可能であって、普通はできようはずもないですよね。
まして岩村さんには折衝や実戦などに深い経験があるわけでもなかった上に、ことさら戦略的判断を必要とする交渉に臨んだものの、全軍に影響するほどの作戦変更ができるだけの決定権を持っていないのですから、なおさらこのレベルの会談には不向きな人材だったでしょう。実際ご住職も山縣さんが柏崎の本営から出した指示は河井さんを捕縛しろというところからして、せめて会談の相手が山縣さんクラスであったらと残念がってました。
ただ明治維新後岩村さんが顕官の地位に就いてるのだから、それほど無能な人物でもないんじゃないかと述べられてましたね。もちろん突っ込む余地はありますが、御住職がそう仰るならその善意に応えて同意するしかないでしょう。

岩村さん縁の方が慈眼寺を訪れることは極々稀なようです。それでも縁戚のおばあさんがしばらく逗留したことがあったらしいです。
ところが…ある時期から突如検察官が度々訪れるようになったそうです。なぜかというと…岩村家の方が法務大臣になったからだそうです…。宮仕えの悲哀ですねぇ…。で、後日調べたところ、岩村さんの兄・岩村通俊さんの五男通世さんが昭和十五(1940)年に検事総長に就任して検察のトップに登りつめ、昭和十六(1941)年7月成立の第三次近衛内閣の司法大臣(現在の法務大臣)として入閣しており、続く東条内閣にも続投して昭和十九(1944)年の総辞職まで大臣の座にありました。戦後A級戦犯として逮捕されますが不起訴で釈放され、弁護士となってます。
ご住職が話されたのはきっとこの大臣在任時期のことでしょうね。で、辞職したとたんパッタリ検察官は来なくなったそうです…。やはり宮仕えって…親分の首が替わればさっさと離れていくんですね。わかりやすいというか単純というか…。
さらにある時期には、自衛隊関係者の来訪が目立つようになり、統幕議長までが来訪されたそうです。何でも河井さんの北越戦争における戦術に学ぶところがあったらしいのですが…そういった来訪は司馬さんの「峠」が連載された時期だけだったようです。これまたわかりやすいというか…。

その司馬さんの「峠」ですが、ご住職が1点だけ内容の誤りを指摘されておりました。それは「小千谷の慈眼寺といえば、このあたりでは知られた禅宗の古刹である」という一文です。慈眼寺は先にも書いたとおり真言宗智山派なので禅宗ではありません。だから寺の作りも禅宗様式とは違っているためわかる人は見ただけで違いに気付くそうです。「あれほど博学な司馬先生が何で間違ったのかな」と不思議そうでしたが、それについて「武士と禅宗は歴史的にも密接に結びついていたから、禅宗にしておく方がよいのではないかと意図的にアレンジしたのだろう」という答えも導き出していたそうです。その上で近年たまたま司馬さんの事務所でそのことを伺ったところ、「先生は思い込む性質なので…」という回答をいただいたそうです。さて、真相は…?。

その「峠」によって訪れる人は今でも多いようですが、2004年の中越地震では甚大な被害を蒙り、ご住職もさすがにもう取り壊すしかないと思われたそうです。しかし歴史家や「峠」ファンの根強い要望や、専門家による修復可能の判断を受けて修復を決意したそうです。
会見の間がある本堂は、そもそも江戸期に行われたキリスト教禁教の一環で実施された寺請制度(キリシタンでないことを証明するために必ずどこかの寺院の檀家になることが義務付けられた)で檀家が増えたために、集会所の役割を持たすために創建されたそうです。
修復に当って細密な調査を行った結果、どうもこの本堂はその創建以来二百年以上にわたって修理というものを受けた形跡がないらしいのです。つまり創建当時のままで震度6の直撃を食らって、大破したものの倒壊しなかったという、当時の宮大工たちの腕の確かさを示したものになりました。

震災時の被害状況

こうして話してる間にも、数名訪問される方が行き来しておりまして、その方々がボタン押して例の復元音声の会談が流れるわけなんですが、ふいにご住職、ポツリと「ホントにこんな声だったんですかねぇ」…(゜ロ゜;)。そんな根幹にかかわるような…。「いやぁ…私も御二人に会ったことないですからねぇ…」としか返しようがないですやん!。

最後にこれから船岡山の官軍墓地へ行く旨を伝えると、墓地は小千谷の方々が篤志で作った、小千谷が誇るべき墓地だと力強く仰ってました。つまり官軍墓地なのに官修墳墓ではないという珍しい場所なんでしょうね。

まぁ話したことでこうして公に書けそうなものはこんなところでしょうか。
そうそう、いずれは慈眼寺にも記念館を作りたいって仰ってましたよ。それでは役立ててと些少ながら寄付もさせていただきました(ここまでどこぞの馬の骨に付き合っていただいておいて、ハイサヨウナラってそれはさすがにできないでしょうσ(^_^;)..)。

14時28分
船岡山公園に来ましたヽ(^◇^*)/ 。

桜が満開でした\( ~∇~)/。

たくさんの人たちが花見を楽しんでいましたo(▽^v)v(゜▽^)v(v^▽)o。

天気もよくてみんな楽しそうでした(..)(^^)(^。^)(*^o^)(^O^)!!

写真撮ってると次から次からバックにいっぱい人が入ってくるんですヘ(゜∇^ヘ)(ノ^∇゜)ノ ヘ(^∇゜ヘ)(ノ゜∇^)ノ♪。

………

邪魔じゃぃヾ(*`Д´*)ノ"!!


以上心の声でした…。

とにかく黙って、待って、耐えた一時でした…。そう、「慈しみの心」を忘れてはならないのです…。っていうか誰一人悪くないし…慈しむ前に己の独善を反省しろヾ(_ _。)。


ま、それはともかく…

船岡山公園は…

っていうところなんです。

しかも慈眼寺の御住職がおっしゃっていたように、官修墳墓じゃないのにこの規模です。これは確かに小千谷の人々の心意気を見せられた思いがします。

さらに…

やはり無事では済まなかったのですね。
復興に携わった方々、本当にご苦労様でした。


16時40分
摂田屋の光福寺に寄ります。
長岡藩本陣が置かれた場所なんです。


移動中…ようやく長岡に慣れてきたというか、落ち着いて周りの風景を見られるようになったのか、違和感を感じるようになりました。

それは…やけに道路が赤い!。
正確には赤っぽく感じるんです。今までいろんなところを走ってきましたが、意図的に赤くしたとかいうのを除けば経験のない風景なんです。

その謎はある道を通ったときに解けました。

赤っぽかった道が

縞模様に

答えは消雪パイプだったんですね。

雪深いこの地域は、路面が積雪で埋まらないよう冬場は路面に水を流して積もるのを防いでるんです。多分そのとき一緒に流れた錆が道路を赤茶色に染めていったんでしょうね。
なるほど西日本ではなかなか見ないわけだ…。
こういったどうでもよさそうなネタも織り交ぜるのはうちくらいだろうな…。

17時3分
普済寺到着。時間ないぞ…。
ここには長岡藩初代藩主牧野忠成公の御墓があるんです。

もっとも、他に長岡藩少年隊士3名の御墓もあって、対象としてはそちらがメインなわけで…。少年たちよ、藩祖様を超えたぞ!。

少年隊士在名碑

初代忠成公

何がすごいって、ここまで迷わずに辿り着いた自分がすごい…。

17時31分
蒼柴神社第3駐車場着!。もう日没まで間がない!!。

大急ぎで石碑を巡ります。

小林虎三郎碑

長岡藩槍隊碑

長岡藩刀隊碑

山本帯刀碑

河井継之助碑

お祭り中で大賑わい


そして一気に牧野家累代墓所と戊辰戦争長岡藩戦没者招魂所へ。

二代忠成公

初代忠成公長男光成室

三代忠辰公

四代忠壽公

四代忠壽公室厚姫 

五代忠周公

六代忠敬公

六代忠敬公室直姫

七代忠利公

八代忠寛公

八代忠寛公室長姫

九代忠精公夫妻

九代忠精長男忠鎮

十代忠雅公夫妻

十一代・十四代忠恭公夫妻

十五代忠篤公夫妻

十五代忠篤公先室

子女三十名


河井・山本招魂碑

招魂社

思ったより早く薄暮になりつつあって大急ぎで撮影。
しかし自然光はかなり無理があってフラッシュ併用を余儀なくされました。あれは墓碑がベタになって碑面が見えなくなるから嫌いなんですよ…。でもしかたないか…。

どさくさにまぎれて、山本五十六元帥が昭和十二(1937)年に帰郷した際、旧制長岡中学(長岡高校)へ寄贈したらしい機雷と魚雷が鎮座してます。

日露役時の二号機雷?

九一式航空魚雷かな?


すっかり暗くなってしまい、本日の作業は終了。
さぁ食事だ。

19時33分
ようやく食事にありつける…。あちこちさまよった挙句立ち寄った中華料理店。酢豚だよ〜。


すべて終わってから恒例の写真保存作業。一日撮影枚数1075枚…微妙に記録更新…。



※注 後日写真整理をしていた際、白虎隊士の新国さんはじめ山中にあった墓碑8基全てが、浦柄神社にあった21基の墓碑のうち8基とペアになる、つまり16基で8人のもの(正確には新国さんが3基あるので17基で8人)と確認しました。

このことから山中には、まだ13基が存在する可能性があります(何の確証もないですけど)。しかしその一方で、慶応四(1868)年5月12日から19日の間で、朝日山において戦死された会津藩士は確認できる限りで4人です…。この辺が理解できない…。