五月一日
起床5時代…。朝早くなってきたね。
まずはテレビで本日の天候を確認。長岡は晴れ。乾燥注意報が出てましたが…同時に雪崩注意報!。今日から5月だというのにさすが雪国は一味違う…などと妙な感心をしてました。

8時
いい天気の柏崎駅。さぁいよいよ今日は長岡入り!。高速かっ飛ばして柏崎から長岡へ。そして長岡から小千谷へ…。いきなり通り越したよ…。
それもそのはず。今日の目標は実は福島県!。只見湖のほとりにある会津塩沢の河井継之助記念館なんです♪。
そんなわけで峠越えです。

越後三山…かな?

ゼルに乗ってこの地名を見上げる日が来るとは…

河井さんが越えた八十里峠は現在でも車じゃ通れない峻険な場所なので、六十里峠を越して会津塩沢に向います。
多分ね…もう二度と行くこと無いと思います…。
なるほど…今朝の雪崩注意報の意味が、今、この瞬間、身に沁みてよ~っくわかりました…。こりゃ一発間違ったらその雪崩に巻き込まれるわ…。

10時57分
3時間よ…3時間…。やっと着いたよ記念館…。ぶっちゃけこの後来た道帰らなきゃいけないんだよ…。気分は躁鬱入り混じる不思議な感覚。

土禁なのでスリッパに履き替えて中に入ります。
すると早速河井さんがお出迎え。案外人が入ってます。何を好き好んでこんな所に来たんだろうかと感心しましたよ(人の事言えるか!)。

河井さん終焉の間は、ダムの底に沈むため、元あった場所からこちらへ移築されたのです。その上から記念館を建てたわけですから…中尊寺金色堂みたいな感じですね。
河井さんの半生をパネルで眺めているうちに、ガトリング砲が!。
レプリカとはいえこの迫力は堪りません。
はっきり言って全体像は書籍でも見たことがあるので、自然興味は普通本にも載らないようなパーツへと…。
その中で驚いたのがこれ。

どこからどう見ても、これは水平角を調節するハンドルっぽいですよね…。
ガトリング砲は水平角の調節ができないため、正面の敵にしか発砲できず、いちいち砲全体を動かさなければならないと聞いていただけに、これにはちょっと驚きました。さすが1868年製♪。
垂直角も、仰角より俯角の方に重きを置いてる感じです。

ん?2門6000両??

だからといって「何だ…そっでは動かすことができたすけはないか(何だ…それじゃ動かすことができたんじゃん)」と簡単に結論付けられないのが、このガトリング砲という兵器の奥深いところなんですよ。

ガトリング砲は北越戦争の象徴的な武器ですが、案外謎が多いんですよ。

慶応四(1868)年1月3日、鳥羽伏見の戦いが起こったとき、河井さんをはじめとする長岡藩は大阪の玉津橋を警固していました。しかしほどなく戦いが幕軍の大敗に終わったため、河井さんらは江戸へ戻り、藩主牧野忠訓公が長岡に戻った後も江戸へ留まって江戸藩邸の資産を売却して武器を購入していたのです。
そしてアームストロング砲とともに、日本国内でも3門しか入ってなかったガトリング砲を2門10000両(12000両説もあります)で購入しています。
この話は有名ですがここで第1の疑問。3門の内の残る1門はどうなったのかということです。
確定的な資料はありませんが、明治元(1868)年に江刺沖で沈没した旧幕府海軍旗艦・開陽丸の船内からガトリング砲の弾丸が引き揚げられたので、幕府が購入した可能性があります。
一方で幕府がアメリカから購入した甲鉄艦にもガトリング砲が装備されており、アメリカが戊辰戦争によって幕府への甲鉄艦引き渡しを凍結(明治二(1869)年2月に新政府へ引き渡す)して横浜に停泊している最中、甲鉄艦に装備されたガトリング砲と弾薬を持ち出して幕府艦に積み込んだって話が箱館戦争にも参加した山内六三郎さんの記録にあります。
もしかしたら開陽丸のガトリング砲はこれなのかもしれません。
しかし甲鉄艦は翌明治二(1869)年に宮古湾で箱館政府海軍艦・回天の斬り込みを受けた際にガトリング砲で迎撃しています。
ということは、甲鉄には2門のガトリング砲があったことになります。

ここで第2の疑問が絡んできます。それは、長岡藩のガトリング砲はどこへ行ったのかってことです。
北越戦争が終わった後、長岡藩の2門のガトリング砲は忽然と姿を消します。
一説には長岡城の堀に沈めたとか、長岡から会津へ移動する際に八十里峠のどこかの池に沈めたとかいう話があります。
しかし、当時日本でそんなにガトリング砲が出回ってるとも思えませんから(長岡と宮古湾程度でしか使われた形跡がないので)、新政府が長岡で鹵獲したガトリング砲を甲鉄艦に据え付けてたと考えたくなるのですが…。でもそれじゃ旧幕府艦隊が品川を脱走する慶応四(1868)年8月19日までに据え付けてなければ、山内さんの記述と整合しませんけれど、そのころ甲鉄艦はまだアメリカの管理下にあって、いくら新政府でもそんなことは無理でしょう。
といって会津戦争や箱館で西軍が使った形跡もないので、そもそも鹵獲すらしていないのかな…。
逆に山内さんの話を無視して、長岡藩のガトリング砲が旧幕府海軍にもたらされたと考えるのが自然かもしれませんが…こんな秘密兵器を会津で再起を図るつもり(本人にその意思が薄くても、流れとして)の河井さんが手放しますかねぇ。河井さんが只見で亡くなったのが8月16日…。ガトリング砲が河井さんと共に移動していたのならきっと旧幕府艦隊の脱出までには間に合わないでしょう。
そもそも連絡も密にできないのに、うまく西軍の目をかいくぐって積み込むには江戸よりも、8月26日に開陽丸が入った仙台で積み込む方が確実でしょう。ただ8月23日にピークを迎えた会津戦争で長岡藩の山本帯刀さんらが参戦して苦戦してるのに、それを無視して仙台へ行くかなぁ…。でも9月8日の飯寺の戦いで山本隊が壊滅した後ならあり得るか…。旧幕府艦隊が仙台湾を出航するのは10月12日だし…。でもそうなると、会津では持っていたのになぜか使われなかったことになるなぁ…。どんだけお荷物なんだ、ガトリング砲って…。会津に入ろうとしたら封鎖されていて叶わなかった可能性もありますが、ともかく仙台へ持ち込んだら9月15日に降伏してしまい、新選組や幕府伝習隊らと共に旧幕艦隊に乗ったかもしれません。でも、箱館戦争では長岡藩士が参戦した記録はないし、殉難者も出ていない…。ガトリング砲だけ載せて、あとはサヨナラ…?。

そういった可能性すらすべて否定して、もしかしたら演習中に、あるいは実戦の中で使用中に何か不具合でも生じてしまい、「へーぼっこれて修理もできねくてお荷物だし、敵の手にわたるのも厄介だすけ、どっか見つかんね所にでもびちゃってしまえ!(もう壊れて修理もできなくてお荷物だし、敵の手にわたっても厄介だから、どこか見つからない所に捨ててしまえ!)」っていうような理由で消えていったなんてことは(゜ロ゜;)…!?。


で、結局謎は1つも解けませんv(T▽T)v。

司馬さん揮毫の書を見ながら一旦外へ。スリッパをサンダルに履き替えて外へ出ると、そこには石碑二本と小屋みたいな建物、そして融け残った雪がどっちゃり…。
「製塩記念碑」はどうでもいいとして、「河井継之助君終焉之碑地」はじっくり近づいて見たい!。しかし石碑の周りには、雪という名のSPがびっしり取り囲んでます。こちらはサンダル履きです…なんてことに躊躇するはずもなく、サンダルのまま雪原へ突入です。もちろん足跡など一つもありませんからね。「人間にとっては小さな一歩だが、歴史好きにとっては大きな一歩だ!」。ただ足冷たい…。

裏に回ると、ほ~ら…冷たい思いした甲斐がありましたよ。
建碑奉賛で多くの方が名を連ねています。まず会津塩沢がまだ会津郡伊北村と呼ばれていたころの村長や区長、代議員、小学校長など建碑発起人が下の方に名を連ねています。
そして上の方は主に新潟・特に長岡出身の名士がずらっと並んでいます。

東京市第六天町に住まわれてた松平とは、15代将軍徳川慶喜公の孫で、慶喜家を継いでいた徳川慶光公爵でしょう。
で、西久保が住所なのかわかりませんが、まぁ牧野家ということは、牧野忠永子爵でしょうかね。
渋谷の松平家がわかんないんですけど、牧野鋀子さんは亡くなった元長岡藩藩主牧野忠篤子爵室です。

あとは元第二師団長井上一次陸軍予備役中将、元司法大臣井上直、海軍次官山本五十六中将、衆議院議員大橋新太郎、元東京帝国大学総長小野塚喜平次、現日本石油株式会社創始者内藤久寛、東京高等歯科医学校(現東京医科歯科大)創立者島峰徹などなど、衆議院や貴族院議員、次官級官僚、創業者、軍人、学者がこのあとも並んでおります。

個人的にものすごく気になってるのが、小山良修さん。名前が河井さんの盟友だった長岡藩医の小山良運さんと酷似していたからです。調べてみたら、長岡出身の医師であり水彩画家だったようなのです。医師ってことはますます怪しい…。しかも良運さんの長男・正太郎さんは画家なんです。もう怪しさMAX!。しかし、その繋がりは全く見当たりません…。建碑に協賛する以上、何か思うところがあったはずですから疑惑は濃厚なんですけど…。誰かご存じじゃないですか?。

山塩資料館は…見るだけ見ておこう…。


館内に戻りました。すっかり靴下グジョグジョ…。
展示物や終焉の間をじっくり拝見。
河井さん終焉の経緯についてはは私がグチャグチャ書くより、司馬さんの「峠」を読んでください(逃げたな…)。っていうか、流れとしては、それ書くのはまだ先にしないと…。


売店で河井さんの江戸から備中高松へ行ったときの紀行「塵壺」の現代語訳を買いました。そのついでに医王寺の河井さんの墓所の場所聞いたら資料館出て左に曲がって左に曲がったらすぐだそうで…話の通り近いのね。

早速向かうと、途中にこいのぼり♪。雪があってこいのぼりという風景は私にとってはとっても斬新です。

12時36分
そのまま突き進むと、農家の倉庫のような建物…まさかとは思ってましたが…まさかでした。医王寺です。
何となく無住なのかなという雰囲気を感じつつ先へ進むと、河井さんの墓碑が見えてきました。正面を雪で阻み、ひっそりと隠れるかのように佇んでいます。
この瞬間のためだけにここまで来たんですよね。

様々な感慨を胸に…長岡へ戻ろう…。

14時53分
いろいろあって長岡の手前まできました。栃尾の辺りで善昌寺の東軍兵士をお迎えに上がります。

15時31分
ついに長岡市街地に!。まずは様子見がてら河井さんが銃撃を受けた新町の付近をゼルで流してみます。
思っていたより簡単にその場所は見つかりました。大きな駒札が付いてましたからね。蕎麦屋の辺りだったんだ…。「石田屋」ですか…。これで決まったな(何が?!)…。

15時52分
伊東道右衛門さん終焉の地に到着。
伊東さんは槍の名手で、長岡城攻防戦では大砲隊長として指揮を執っていましたが、信濃川を渡河した薩摩兵を相手に齢62歳で槍を振るって奮戦するも射殺されてしまいました。

16時5分
松代藩士の墓に到着。

16時15分
龍野藩士の墓碑がある長福寺着。

16時26分
長興寺着。山本帯刀さんと五十六元帥の墓所があります。

16時49分
栄涼寺着。牧野家菩提寺ということで河井さん他長岡藩士の御墓も散見されました。

二見虎三郎さん

三島億二郎さん

さて、今日はチェックインもしなければならないので、作業はここまで。
その前に夕餉を取らねば…

っていうことでやって来たのは…「石田屋」さん♪。あの時何が決まったかって、食事はここだなってことが決まったんです。
かつ丼とそばのセットを頼んで、河井さんゆかりの地で司馬さんの「峠」を読む(^▽^;)。こういうのやってみたかったんです。
ところが…

突然店全体が揺れだすんですよ!。別に電車が通ってるわけでもないのに(そもそも線路とかないし…)。ウォータークーラーの上に積んであるコップが音立ててるし、奥ではおばちゃんたちがざわめいてるし、こりゃどう考えても…地震!!。

ぶっちゃけ新潟で、しかも長岡で地震って洒落にならねぇって!。
ここは6年前の10月23日に発生した中越地震で震度6弱、3年前の7月16日にも中越沖地震で震度6強という強烈な揺れに見舞われ、甚大な被害を蒙ったところですよ。
うわぁこれってまさか3回目…とか思いながら、阪神大震災の経験が脳裏に蘇りました。あのとき体験したのは震度5だったけど、「今のはそこまできつくはないな…。このまま収まるんなら大したことはない」とか考えてましたよ
取り乱しはしなかったけど、ホントに短い時間でしたが、瞬間生きた心地しなかったよ…。
店の方も大して動揺することもなく、ほどなくセットが届きました。やっぱり被災体験で肝が据わってるのかも。


カツ丼食べてると、地震速報が流れてました。震度4…。その程度で済んでよかった…。っちゅうか、その程度ならむしろネタになる…ってことでこうして書いておりますv(。・・。)。


で、このネタ書くに当って、当時の報道引っ張り出そうと思ったら…
http://www.bousai.city.nagaoka.niigata.jp/modules/news/article.php?storyid=443

平成22年5月1日18時20分頃、地震が発生しました。
震源地:新潟県中越地方 ( 北緯37.6度、東経139.2度)
震源の深さ:約10km
地震の規模:マグニチュード4.9
長岡地域に津波の心配はありません
市内各地の震度
<震度4>
三島地域
<震度3>
長岡地域、中之島地域、越路地域、和島地域、寺泊地域、栃尾地域、与板地域
<震度2>
山古志地域、小国地域
<震度1>
川口地域

市内に大きな被害はありませんでした(5月6日9時現在、被害報告無し)

震度3に落ちてるよ…。長岡市内でも差があるようで。

食べ終わってゼルに乗る準備をしてたら、店の方が出前に出てきました。ゼルのナンバープレート見て、京都からということに驚いた感じですが、次に放った一言が凄かった。「なかなか貴重な体験したでしょう」って…。やっぱり肝が据わってるようです(⌒▽⌒)。

確かにね…。たった2日で新潟県を震撼させた2つの事件を疑似体験したんだからね…。拉致事件と震災と…。