徳川家達(東京都台東区・寛永寺)
徳川宗家十六代当主。慶応元(1865)年2月田安家六代寿千代(慶頼の長子)が6歳で夭折したのを後を受けて田安家を継ぎ、閏5月本邸の火災に遭い、清水邸に移居した。慶応二(1866)年7月将軍徳川家茂が大坂城に薨じた時、先に家茂が江戸を出発する際、継嗣として亀之助を立てようと内意を洩らしたことがあったため、天璋院
らは亀之助をして相続させようと計ったが、将軍夫人親子内親王(静寛院宮)は僅か4歳の亀之助では不安であるとし、天下のため然るべき人物を選ぶべきであるとせられたので、この事は沙汰止みとなり、結局徳川慶喜が将軍職を継ぐことになった。慶応四(1868)年正月慶喜は鳥羽伏見の戦いに敗れて東帰、寛永寺大慈院に入って謹慎し、静寛院宮はじめ徳川慶頼らの尽力の結果、死一等を減ぜられ、閏4月29日に至り、徳川家名の相続を田安亀之助に命ずる旨の朝旨が伝えられた。亀之助は5月名を家達と改め、同月24日駿河国府中に封ぜられ、駿河一円および遠江・陸奥(のち三河に変更)において七十万石を賜った。明治二(1869)年6月版籍奉還と共に静岡藩知事に任ぜられ、ついで明治四(1871)年7月廃藩置県により知事を免ぜられた。明治十(1877)年より明治十五(1882)年まで英国に留学、明治二十三(1890)年貴族院議員となり、明治三十六(1903)年より昭和八(1933)年に至るまで貴族院議長の重職に在った。この間大正三(1914)年3月山本権兵衛内閣総辞職の際、組閣の内命があったが拝辞した。また大正十一(1922)年ワシントン会議には全権委員として列席、そのほか済生会会長・日本赤十字社社長・日米協会会長などを勤め、内外にわたって尽力するところが多かった。昭和十五(1940)年6月5日没。享年78歳。
西園寺公望(東京都府中市・多磨霊園)
堂上公家。第12代、第14代内閣総理大臣。嘉永四(1851)年3歳で従五位下に叙せられ、以来安政三(1856)年2月まで毎年位階昇進して正四位下に至る。安政四(1857)年10月元服して昇殿を許され、文久元(1861)年4月従三位、翌年正月従二位、明治元(1868)年3月参議を経ずに権中納言に任ぜらる。これより先、慶応三(1867)年12月王政復古により参与を仰せ付けられ、翌慶応四(1868)年正月山陰道鎮撫総督、4月但馬府中裁判所総督、閏4月東征第二軍総督、ついで北国鎮撫使等の大任をはたし、6月会津征討越後口総督府参謀となり、10月新潟府知事を命ぜられ、翌明治二(1869)年6月戊辰の戦功により三〇〇石を永世下賜された。明治三(1870)年仏国留学に際し、従二位権中納言の官位を辞したが、明治十一(1877)年に旧位に復し、明治十三(1880)年帰朝す。その後明治法律学校の創立に参画し、「東洋自由新聞」を中江兆民らと創刊して自由主義を鼓吹し、政府・旧公家らを驚嘆させた。そのため岩倉具視は内勅を請うて公望に退社を命じた。その後特命全権公使として澳・独国に勤務し、帰国後貴族院副議長・枢密顧問官を経て第二次・第三次伊藤内閣の文相となり、明治三十三(1900)年枢密院議長。ついで明治三十六(1903)年政友会総裁に就任し、明治三十九(1906)年総理大臣となる。二度の組閣ののち政界の重鎮として元老となり、後継首班推薦の任に当たった。昭和十五(1940)年11月24日薨去。その日従一位・国葬を賜る。享年92歳。
西園寺さんには他の幕末を潜り抜けた方々にはない、ある特別なものを感じていました。それは恐らくあの時代に関わった人々の最後の生き残りだったということです。ある意味つい最近まであの時代を知ってる方が生きてたんだなぁって感慨が、幕末を遠い歴史の彼方の事柄にしないでいられるんです。
それにしてもこの方、公家というイメージと違って結構意地っ張りだたようで、フランスのソルボンヌ大学留学中に友人とカフェで歓談中、友人が誤ってグラスを割ってしまったそうです。店員が弁償しろとわめき散らす中、西園寺さんはステッキで店中のグラスを片っ端から叩き割った挙句弁償して金を払い、金を払ったんだからこれは自分のものとばかりにグラスの破片をこれまた全部集めて持って帰ったという逸話が残ってます。フランス人相手に一歩も退かない気概は、やはり時代的なものから来てたんでしょうかね?
昭和十五年