田中光顕(東京都文京区・護国寺)
土佐藩士。武市瑞山に師事して剣術を修め、その勤王同盟に参加、文久三(1863)年京都に出て志士に交わり、帰国後王事に周旋していたが、八月十八日の政変後の藩論一変によって自宅謹慎を命ぜられ、元治元(1864)年8月14日時勢に激して脱藩長州に奔り、同志井原応輔・橋本鉄猪(大橋慎三)・那須盛馬(片岡利和)らと謀って大坂攪乱を計画したが成功せず、大和の十津川に潜伏した。後再び長州に入り高杉晋作の知遇を受け、慶応二(1866)年中岡慎太郎に兄事して薩長同盟の周旋に協力し、また下関の海戦には丙寅丸に乗組み、幕府の征長軍と戦った。慶応三(1867)年8月中岡が京都に陸援隊を組織したとき、これに投じて幹部となり、中岡の死後これを統率、同年12月ひそかに鷲尾隆聚を擁して紀州高野山に拠り、明治元(1868)年正月鳥羽伏見の戦いには錦旗を下賜され、紀州や大坂を牽制する役割をはたした。維新後新政府に出仕して兵庫県権判事・会計官監督・理事官戸籍頭を歴任、明治四(1871)年11月11月特命全権大使岩倉具視の随員として欧米諸国を巡遊、帰国後明治七(1874)年正月陸軍会計監督に任命され、明治十(1877)年西南戦争には征討軍会計部長として功あり、戦後陸軍少将に任命され、また@元老院議官・会計検査院長・警視総監・学習院長を歴任、明治三十一(1898)年宮内次官から宮内大臣に進み、明治四十二(1909)年まで在任した。退官後は東海道岩淵、また蒲原に隠居、維新烈士の顕彰に余生をささげ、多磨聖蹟記念館、水戸の常陽明治記念館、郷里佐川の青山文庫の建設や維持に貢献した。昭和十四(1939)年3月28日没。享年95歳。
写真暗い…散々板橋から雑司ヶ谷霊園・護国寺に辿り着いたのは18時過ぎでした
昭和十四年