山本権兵衛(東京都港区・青山墓地)
薩摩藩士・海軍大将。文久三(1863)年の薩英戦争のとき12歳で砲弾運びなどの雑役に加わった。慶応三(1867)年小銃八番隊に編入され、藩主島津忠義に従って上京、慶応四(1868)年鳥羽伏見の戦いから越後奥羽庄内に転戦した。明治二(1869)年の箱館戦争に参加、9月東京築地の海軍操練所に入り、明治三(1870)年海軍兵学寮に転じ、明治七(1874)年海兵第一期生として卒業、征台の役に従軍し、累進して諸艦長、海軍大臣官房主事、海軍省主事、日清戦争前後少将に進み明治三十一(1898)年山県内閣の海軍大臣となり、伊藤・桂内閣に留任した。日露戦争が起ると大将に進み、海軍軍政の中枢となった。また、政治家として薩派を代表し大正二(1913)年および大正十二(1923)年の両度にわたり内閣を組織した。しかし、第一次内閣はシーメンス事件、第二次内閣は虎ノ門事件のため責任を負って辞職し、十分に政治的手腕を発揮するに至らなかった。昭和八(1933)年12月8日没。享年82歳。
明治二十四(1891)年、上級将官も含む100人近い将校をばっさりと予備役に編入したり、明治二十八(1895)年の黄海海戦の勝利に勢い付いて一気に清国内部に攻め入ろうとする軍部に対して「列強の反発を受けるだけ」と冷水を浴びせています。
また明治三十六年、日露開戦前夜に当時常備艦隊司令長官だった猛将日高壮之丞中将を更迭して、予備役寸前の舞鶴鎮守府司令長官だった東郷平八郎中将を後任に抜擢した張本人です。更迭した理由を明治天皇から下問されたときには「東郷は運の良い男ですから」と理由を述べてながら、その実は中央の命令に従いそうにない日高中将を切って、無謀な賭けはしない東郷中将を選任しているのです。
つまり途方もなく現実的で合理的な思考の持ち主でしょうね。絶対に迷走する昭和の政府や軍部に必要な方だったと思いますよ。
児玉源太郎大将と山本大将が次代の将官を育成していたらなぁ…。
昭和八年