松方正義(東京都港区・海晏寺)
薩摩藩士・大蔵大臣。幼少の頃両親を失って赤貧に苦しんだ。嘉永三(1850)年勘定所出物問合方へ出仕、ついで大番頭座書役となり、島津久光の側近として生麦事変・寺田屋事変などに関係し、慶応二(1866)年郡奉行・軍艦役、慶応三(1867)年軍役賦役兼勤となり、長崎との間を往復して軍艦・武器の購入に尽力、動乱に備え、民心の動揺を防いだ。明治元(1868)年に引き続き長崎に駐在し、2月長崎裁判所参謀、5月日田県知事、間引の風習を矯正して人口政策に功績をあげた。明治三(1870)年中央に帰り民部大丞を拝命、日田・福島の暴動の処分を行った。明治四(1871)年8月租税権頭となって国家財政に関与し、以後財政関係の役職を離れなかった。明治七(1874)年9月大蔵省三等出仕、明治八(1875)年5月地租改正局三等出仕に兼補され、同年11月には大蔵大輔となって、総裁大久保利通の下で改正事業を完成させた。明治十一(1878)年には渡欧して産業経済面を視察した。待つか田の財政経済上の最大の功績は明治十三(1880)年以降の紙幣整理である。新政府成立後国用多く、西南戦争もあって紙幣が乱発され、そのため幣価は下がり物価は上がり、財政は破綻に瀕した。明治十四年の政変で大隈重信に変わって参議兼大蔵卿となり、みずから紙幣整理に当った。以来各内閣に大蔵卿または大蔵大臣として在職すること10年に及び、明治二十四(1891)年と明治二十九(1896)年には総理大臣となり、晩年は元老として薩閥政界の中心的存在であった。大正十三(1924)年7月2日没。享年90歳。
大正十三年