大隈重信(佐賀市・龍泰寺)
佐賀藩士。7歳で藩校弘道館に入学、17歳で尊撰派の義祭同盟に加わり学制改革に参加して退学、19歳で蘭学寮に入りついで長崎に遊学した。のち佐賀に帰って藩政改革に参画し、文久三(1863)年の長州藩の外国船砲撃には同藩の援助を策し、ついで藩侯鍋島直正を説いて朝幕間に斡旋せしめんとするなど尊攘激派として活躍した。慶応三(1863)年3月脱藩上京して将軍徳川慶喜に政権返上を説かんとして捕えられ、12月の王政復古に際し藩侯に討幕出陣を勧めたが入れられたかった。明治元(1868)年8月徴士参与職・外国事務局判事となりキリスト教徒処分・贋貨処分などの外交交渉に任じ、12月外国官判事より外国官副知事に昇進した。二(1869)年会計官に転じ、副知事から民部大輔・大蔵大輔となり、鉄道・電信の建設、工部省の開設などに尽力、翌三(1870)年参議、六(1873)年大蔵省事務総裁、ついで大蔵卿となり十四(1881)年まで大隈財政を展開した。この間、七(1874)年の台湾事件に蕃地事務局長官、十(1877)年の西南戦争に征討総理事務局長官、十一(1878)年から地租改正事務局総裁となり、秩禄処分にも参画した。十三(1880)年参議専任となり、十四(1881)年に国会即時開設論と開拓使官有物の払下げに反対して薩長勢力と衝突し免官、多数の大隈派官吏も辞職した(明治十四年政変)。十五(1882)年3月小野梓・矢野文雄らと立憲改進党を結成して総理となり、10月東京専門学校(後の早稲田大学)を創立した。二十一(1888)年外務大臣になり条約改正交渉に当ったが、翌年10月の爆弾事件で負傷し辞任した。二十九(1896)年進歩党を結成して党首となり、松方内閣に外務大臣となったが翌年辞職。三十一(1898)年6月板垣退助と憲政党を結成してわが国最初の政党内閣(隈板内閣)を組織したが、11月に解散した。四十(1907)年1月憲政本党総理を辞し早稲田大学総長に就任した。第一次護憲運動のあと、大正三(1904)年立憲同志会を与党として第二次大隈内閣を組織し、第一次世界大戦への参加、対華二十一箇条の要求などを行ったが、五(1915)年10月に辞職した。大正十一(1922)年、85歳で没。
国道207号線から路地へ入ってお寺に向かったら入口になかなか辿り着けず難儀しました。大隈家一族の墓地、だと思いますが、名前が無かった(正面は戒名が刻んである)ので大きさで判断しました。どっちみち墓石の横か裏に俗名があるはずですので見たら大当たり!ってな感じでした。
山県有朋(山口県下関市・桜山招魂場)
長州藩士。嘉永三(1850)年13歳で蔵元付打廻手子、ついで明倫館手子役、目付横目役。安政五(1858)年6月藩命により上洛、尊攘派の影響を受け、10月久坂玄瑞の紹介で松下村塾に入門、文久三(1863)年1月士雇に準ぜられた。12月奇兵隊に参加、軍監となり、壇ノ浦支営の司令に就任した。元治元(1864)年英仏蘭米四ヶ国連合艦隊と交戦、負傷して、武器と兵器の改革の必要を痛感、攘夷論から開国論に転じた。慶応元(1865)年俗論党との戦闘では主力を率いて勝利を決め、第二次長州戦争では小倉地方を転戦。慶応三(1867)年上洛して西郷・大久保と討幕のための薩長連合を討議し、明治元(1868)年戊辰戦争には奇兵隊主力とともに上京、北陸道鎮撫総督兼会津征討総督の参謀として、長岡攻囲戦に河井継之助らと戦い苦戦、のち会津攻略に参加した。功により賞典600石を与えられ、明治二(1869)年渡欧、兵制調査に当り、明治三(1870)年8月帰国とともに兵部少輔となり大村益次郎没後の軍政を担当、兵制をフランス式に統一し御親兵設置に尽力するとともに廃藩置県を推進した。明治四(1871)年兵部大輔(官制改革により陸軍大輔)となり国民皆兵を主張し、明治五(1872)年西郷を説得して徴兵令を制定、国軍の基礎を作った。この年、陸軍中将・近衛都督となったが山城屋事件で辞職、明治六(1873)年初代の陸軍卿となり、明治七年8月参議を兼任。西南戦争では征討参軍として政府軍を指揮した。明治十五(1882)年参事院議長となってからは内政面にも腕を振るい、内務卿・内務相・農商務相をへて、明治二十二(1889)年首相となり、翌年陸軍大将、明治二十五年法相、明治二十六(1893)年枢府議長となるが、日清戦争には第一軍司令官として出征、明治二十九(1896)年特命全権大使として訪露、朝鮮についてロバノフ外相と協定するなど多彩な活動を通じ、伊藤博文と拮抗する勢力を築いた。明治三十一(1898)年元帥府に列せられ、再び内閣を組織した。日露戦では参謀総長、明治三十八(1905)年再び枢府議長となる。明治二十四(1891)年以後は元老であり、特に伊藤の没後は最長老として軍政両界に権勢を振ったが、大正十(1921)年東宮妃色盲問題に関連して地位・礼遇を辞退するも許されず、大正十一(1922)年死去。享年85歳。
維新後伊藤博文と並ぶ元老となり、また「陸軍の法王」として絶対的な力を持った山県さんも、幕末・久坂さんや入江さんらが生きておられた頃はでは松陰門下の中では「棒切れ」程度の下っ端だったようです。そのためなのか後付の結果そうなったのかわかりませんが、桜山での御墓の場所は一番端っこでした。やはり位人臣を極めても松陰門下の序列を破ることはできなかったんでしょうかね。
大正十一年