福岡孝弟(東京都豊島区・染井墓地)
土佐藩士。土佐藩の家老福岡家の支族に生まれた。才気煥発で学問を好み、安政元(1854)年吉田東洋が罪を得て吾川郡長浜村に鏑居するや、東洋の鶴田塾に出入りして、後藤象二郎・岩崎弥太郎らと共に教えを受けた。安政五(1858)年1月東洋の参政復職に伴い大監察となったが、東洋の横死後辞任した。文久三(1863)年藩状の一変により、藩主山内豊範の側役となったが、慶応年間討幕の機運がみなぎるに至り、京都・江戸にあって板垣退助・中岡慎太郎らと談合して活躍した。慶応三(1867)年2月西郷隆盛の土佐来国のときは、容堂の補佐役として勤王の実をあげることに尽力し、3月には長崎での後藤象二郎の行状の実態を知り、藩の貿易を推進するため、岩崎弥太郎らを伴って長崎に出張、後藤と相談して海援隊と陸援隊の編成を決定し、坂本龍馬の脱藩を許した。この年参政に進み、10月には後藤と共に上京して、将軍慶喜に大政奉還を勧告し、薩長の武力討幕論に対して公議政体論を主張した。維新後、新政府の成立に当たって、後藤と共に朝幕諸藩の間を周旋し、参与となって議事制度の確立に尽力した。由利公正と五箇条の誓文の原案を起草し、由利の第一条原案を修正加筆したことは有名。また政体書の発布に尽力し、王政復古への功により賞典禄四〇〇石を永世下賜された。議事体裁取調方御用掛・高知藩少参事・同権大参事・文部大輔・司法大輔などを歴任し、明治八(1875)年元老院議官、明治十四(1881)年参議兼文部卿、明治二十一(1888)年枢密顧問となった。大正八(1919)年3月6日没。享年85歳。
徳大寺実則(東京都府中市・多磨霊園)
堂上公家。嘉永四(1851)年3月侍従に任ぜられ、その後右近衛権少将・左近衛権中将を歴任、安政四(1857)年12月従三位に、安政五(1858)年3月正三位に進み、文久二(1862)年4月権中納言に任ぜられ、同年12月国事御用掛となり、さらに翌文久三(1863)年4月議奏となった。この間、尊攘派堂上の一員として活動したが、同年八月十八日の政変により参朝・他行・他人面会を禁ぜられ、ついで議奏を免ぜられた。慶応三(1867)年正月遠慮を許され、明治元(1868)年正月参与、ついで議定に進み、内国事務総督を兼ね、2月内国事務局督、明治二(1869)年4月内廷職知事を引き続き兼任した。前年2月権大納言に任ぜられ、明治二(1869)年7月大納言に任じ、明治三(1870)年2月山口藩の騒擾の際は宣撫使として山口に赴いて鎮撫の事に当たった。明治四(1871)年7月大納言を辞して麝香間祗候を仰せ付けられ、8月侍従長に任ぜられ、10月宮内郷となり侍従長を兼ねた。明治十(1877)年8月宮内省官制の改革あり、侍従長を罷め、兼一等侍補となった。明治十七(1884)年3月側近奉仕の職制が改正され、侍従職が置かれた際、改めて侍従長に任ぜられ、以後明治天皇の崩御に至るまで侍従長として奉仕した。明治十八(1885)年7月華族局(のち爵位局)長官を兼任、明治二十四(1891)年2月内大臣を兼ね、大正元(1912)年8月本官並びに兼官を辞した。大正八(1919)年6月4日死去。享年81歳。
徳大寺卿は同じ多磨霊園に墓所のある「最後の元老」・西園寺公望の実兄で、明治天皇の侍従長として長く仕えていました。この御墓の周辺は将星や大臣級の方々が固まっていますよ。もっとも当時私の体は会津遠征の疲れと睡眠不足のおかげでボロボロ…。奥地まで歩く根性がありませんでした。おかげでもう一度行く羽目になると思います…いつになるのかなぁ?

もへい様寄贈
今井信郎(東京都文京区・寂円寺)
京都見廻組隊士。幕府講武所の柔術師範だった窪田鎮勝から扱心流体術を習い、榊原鍵吉から直心影流剣術を学んで二十歳で免許皆伝を授かったといわれる。慶応二(1866)年関東郡代岩鼻陣屋で剣術教授をつとめ、慶応三(1867)年には見廻組に参加、同年11月坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺に加担したとされる。慶応四(1868)年1月鳥羽伏見の戦いで敗走し、衝峰隊副長として箱館まで転戦後降伏。明治五(1872)年に特赦放免、明治十(1877)年西南戦争で西郷軍に加わろうとしたが失敗し以後、自由民権運動に参加、堰南学校の設立に尽くした。明治三十九(1906)年初倉村長。大正七(1918)年6月25日没。享年78歳。
もへい様寄贈
鈴木三樹三郎(茨城県石岡市・東耀寺)
新撰組隊士・九番隊組長。父の閉門蟄居により母方の里で兄甲子太郎と共に幼年時代をすごし、のち寺内増右衛門の養子となるも酒の失敗で離縁されたが、鈴木姓を名乗ることが許されずに三木荒次郎と称する。その後江戸に出て甲子太郎の道場で学んでいたともされ、元治元(1864)年10月に兄と共に新撰組に入隊する。このときの名前は三木三郎であり、新撰組時代に鈴木姓を名乗った形跡はない。同年12月の編成では井上源三郎の三番組に所属し、慶応元(1865)年には九番隊組長となる。同年6月、新撰組は将軍警護のために大坂に隊士を派遣していたが、同地の祭礼がすべて中止されると聞き、新撰組の警備下に行うよう諸神社の宮司を呼んで申し入れた。慶応三(1867)年の新撰組からの分離には甲子太郎と行動を共にし、和泉と名乗った。油小路の変には兄の遺体を収容に行き襲撃を受けるが、見張り役だったために逃走に成功して伏見の薩摩藩邸に保護される。同時に収容された高台寺党残党とともに、12月18日に近藤勇を銃撃して重傷を負わせた。慶応四(1868)年鳥羽伏見の戦いには薩摩軍に属し、赤報隊などを経て軍曹となり、維新後は司法、警察畑を歩んで酒田警察署長などを歴任。明治十七(1884)年に退職し、茨城県石岡市に住んで天寿を全うした。大正八(1919)年7月11日没。享年82歳。

もへい様寄贈
板垣退助(東京都品川区・品川神社裏興源寺墓所)
土佐藩士。幼少時より武断的な勝負事を好み、母は養育に苦心した。青年期には盛組の首領となり名を売ったが、安政三(1856)年同輩陵辱の罪により土佐郡神田村に謫居した。吉田東洋の慰撫を受け、以後態度を改めて文武の修行に励んだ。万延元(1860)年免奉行に登用され、文久元(1861)年には江戸藩邸の会計・軍事の職につき、文久二(1862)年には上士の五十人組を組織して下士のそれに対抗し、山内容堂の側用人となり藩邸の総裁を勤めた。文久三(1863)年の初め上洛して中岡慎太郎に会って将来の討幕を約し、10月仕置役、翌年8月大監察に任ぜられ、後藤象二郎とともに藩政運営の中核となったが意見が容れられず、慶応元(1865)年正月官を辞して江戸に赴き、漢籍を学び騎兵の修練に励んだ。慶応三(1867)年5月上洛し、中岡慎太郎と共に西郷隆盛らと会して薩土討幕の密約を結び、帰藩後兵制の改革に従事した。慶応四(1868)年戊辰戦争には大隊司令・総督府参謀として出征し、先鋒となって東山道を進撃した。このころ乾を板垣と改め、9月の会津攻略に大功をたてて賞典禄一〇〇〇石を下賜されたが、この時以来民衆を基盤とする民権運動を考えるようになったという。帰国後家老格となり、ついで土佐藩大参事として藩政改革を指導し、明治四(1871)年には新政府の参議となった。明治六(1873)年征韓論が容れられず下野し、明治七(1874)年副島種臣・後藤象二郎・江藤新平らと愛国公党を組織し、民撰議院設立建白書を政府に提出した。以後高知に立志社を創立して自由民権運動の先頭にたって活動し、明治十四(1881)年には自由党を結成して党首となった。明治十五(1882)年4月岐阜で遭難したが、11月に外遊、翌年6月に帰国後、民権運動の下からの激化のため自由党を解党した。明治二十(1887)年伯爵となり、以後愛国公党を組織し、立憲自由党総理、第二次伊藤内閣の内相を経て、明治三十一(1898)年最初の政党内閣である隈板内閣の内相となった。明治三十三(1900)年伊藤博文による政友会結成と共に政界を退き、以後社会事業に尽力した。大正八(1919)年7月16日没。享年83歳。
大正八年