徳川慶喜(東京都台東区・谷中墓地)
第十五代将軍。弘化四(1847)年9月一橋家を相続、同年12月元服、将軍徳川家慶の偏諱を賜わって名を慶喜と改め、従三位左近衛権中将に任じ、刑部卿と称した。安政二(1855)年12月一条忠香養女延君と結婚、同月参議となった。安政五(1858)年将軍家定の継嗣問題が起ると、その有力な候補に挙げられた。安政五(1858)年6月幕府が勅許を待たず日米修好通商条約に調印するや、登城して大老井伊直弼を面責し、翌月途上を停止せられ、安政六(1859)年隠居、慎の処分を受けた。文久二(1862)年4月他人面会・書信往復の禁を解かれ、7月一橋家再相続を命ぜられ、将軍後見職となり、政事総裁職松平慶永と共に幕政に指導に当った。文久三(1863)年正月上洛、将軍家茂を輔けて朝幕の間に奔走し、公武合体派の頽勢を挽回しようとしたが、尊攘派の優勢に屈して賀茂・石清水行幸に供奉、5月江戸に帰った。同年8月の政変により、尊攘派が一掃されると、11月再び上洛、松平慶永・山内豊信・伊達宗城らと共に朝議に参じ、元治元(1864)年3月将軍後見職を罷めて禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮に補せられ、同年7月禁門の変が起るや、諸藩兵を指揮して長州勢の撃退に努めた。ついで起った第一次征長の役は兵火を発せずして収まったが、引き続き第二次征長の役となり、この間将軍家茂を輔佐して条約勅許問題を解決した。しかし慶応二(1866)年6月より始まった幕長の戦闘に幕軍は敗北を重ね、そのうえ7月20日将軍家茂は大坂城に薨じ、かくて徳川宗家を相続、諸般の情勢の不利を察し、8月奏請して休戦の朝命を受け、翌月諸方面の兵を徹した。同年12月5日正二位権大納言に任じ、征夷大将軍に補せられ、慶応三(1867)年9月内大臣に任ぜられた。慶喜は徳川宗家を相続するや、人材の登庸、陸海軍の充実、冗費の節約などに努め、仏国公使ロッシュの建言なども容れて鋭意幕政の改革を推進、また慶応三(1867)年5月兵庫開港問題をも解決し、その施政には見るべきものがあったが、ついに衰退する幕府を支え切れず、同年10月14日大政を奉還した。慶応四(1868)年正月鳥羽伏見の戦いに敗れ、海路江戸に帰り、2月諸事を田安慶頼らに託して寛永寺大慈院を出て水戸弘道館に移り、7月静岡に赴いて宝台院に入った。明治二(1869)年9月謹慎を解かれ、明治五(1872)年正月新たに従四位に叙せられ、明治二十一(1888)年6月従一位に陞った。大正二(1913)年11月22日没。享年77歳。
慶喜公の御墓はきっちり閉ざされた門扉の奥にありまた。無論容易に入れるわけもないので、門扉の隙間にカメラのレンズをねじ込んで撮影しました。しかしある意味まだ開かれてるのかもしれませんね。増上寺なんかは特別公開のときでもないと拝めそうにないですからね。
それにしても不思議なのは、慶応二(1866)年7月20日に十四代将軍徳川家茂が薨去。同年12月25日に幕府にとってはまだ味方とも言えた孝明天皇が崩御。このことが明治維新への流れを加速させたといえます。その明治が明治天皇の崩御で終わって1年弱で薨去されたのは偶然かもしれませんが、何かその意味を考えてみたくなります。本当の意味で明治という時代を終わらせるには、その明治という時代を作るために争った朝廷と幕府の2つの勢力の象徴をこの世から永遠に消すことが必要だったのかもしれないですね。
船越衛(東京都港区・青山墓地)
広島藩士。幼少の頃藩校で学び、また武術を細氏に就いて学んだが、父寿左衛門が冤罪で数年間閉門中に家庭で父の訓化を受けたことが大きかった。ペリー来航以来、尊攘論が盛んになると、同志と脱藩を計画したこともあり、文久三(1863)年には執政辻将曹(維岳)に従って上京、諸藩の志士と交わって尊攘論を唱えた。征長の役には長幕和解に斡旋、その名は諸藩に知られ、とくに薩長間に重んぜられた。この間、長州の大村益次郎について兵学を修め、慶応四(1868)年徴士・江戸府判事に任じ、次いで軍務官権判事となり、戊辰戦争には東北遊撃軍参謀として奥羽に出征、賞典禄二百石を賜った。明治三(1870)年6月兵部大丞、明治七(1874)年戸籍頭、明治九(1876)年内務大丞、明治十(1877)年内務権大書記官を経て、明治十三(1880)年千葉県令となり、もち元老院技官、また石川・宮城間県知事に任じ、晩年枢密顧問官となった。大正二(1913)年12月23日没。享年74歳。
大正二年