もへい様寄贈
東久世通禧(東京都目黒区・長泉院)
堂上公家。天保六(1835)年10月従五位下に叙せられ、天保十三(1842)年12月童形にて東宮に出仕、ついで弘化三(1846)年2月禁中の児となる。弘化四(1847)年元服して昇殿を許され、従五位上に叙せられ、嘉永二(1849)年12月侍従に任ぜらる。爾後累進して安政六(1859)年正月正四位下、同10月左少将に叙任された。文久二(1862)年5月国事書記御用掛、12月国事御用掛、文久三(1863)年2月国事参政となり、しきりに尊王攘夷を唱えたが、八月十八日の政変に逢い、同志三条実美以下六卿と共に長州藩兵に護られて西下し、ために官位を止められて通と称した。初め周防三田尻に在ったが、第一次征長役後の慶応元(1865)年正月筑前太宰府に移った。慶応三(1867)年12月王政復古により許されて帰洛、官位を復された参与に挙げられた。慶応四(1868)年正月軍事参謀となったが、ついで外国事務取調掛を兼帯、爾後外国事務総督・兵庫鎮台・兵庫裁判所総督・外国事務局輔・横浜裁判所総督・神奈川府知事・外国官副知事等を歴任、専ら新政府の外交事務を掌った。この間4月議定となり、9月従二位権中納言に叙任、ついで明治二(1869)年5月議定より参与に転じ、8月開拓長官に任ぜられ、12月鷁退して従三位に叙し、明治四(1871)年10月侍従長に任じられたが、12月岩倉具視の欧米巡遊に当り理事官として同行、明治五(1872)年12月帰朝した。明治十(1877)年8月元老院議官となり、明治十五(1882)年6月開拓長官の功により特に正三位に叙せられた。同年11月元老院副議長、明治二十一(1888)年4月枢密顧問官を兼ね、明治二十二(1889)年12月勲一等に叙し、瑞宝章を授けられ、明治二十三(1890)年10月貴族院副議長に転じ、明治二十五(1892)年3月枢密院副議長となる。明治三十一(1898)年6月正二位に叙せられ、明治四十五(1912)年1月薨去に先立ち従一位に昇叙せられた。1月4日薨去。享年80歳。薨去後、天皇は棺前に勅旨を遣わし、御沙汰書を宣読せしめて生前の功を賞された。
高崎正風(東京都港区・青山墓地)
薩摩藩士。父高崎五郎右衛門は島津斉彬の継嗣問題をめぐる高崎崩れの首魁として嘉永二(1849)年に処刑された。正風も15歳になるのを待って嘉永三(1850)年大島に流された。嘉永六(1853)年18歳のときにようやく罪を許され鹿児島に帰った。以後国事に奔走し、文久二(1862)年の寺田屋事件においては有馬新七らの急を京都の藩邸に報告した。文久三(1863)年の薩英戦争の時には伊地知貞馨と諸隊監督となり沿岸の台場を巡視し、戦後戦況報告のため使番となり上京した。文久三(1863)年八月十八日の政変においては会津藩士秋月悌次郎らと天皇の大和行幸・親征をとどめることに最も力を尽し、その功により京都藩邸の諸藩応接掛・京都留守居付役に任ぜられた。慶応四(1868)年の戊辰戦争には征討大将軍府下参謀に任ぜられた。明治二(1869)年鹿児島の垂水・桜島・牛根等八カ郷の地頭となり垂水小学校を設け、堕胎を禁止するなど民生に力を尽した。明治四(1871)年召されて上京、明治政府に仕え左院少議官となり、理事官として欧米視察、明治七(1874)年台湾事件講和の大久保全権に随行して渡清した。明治八(1875)年太政官出仕となり次いで侍従番長にあげられた。正風は早く和歌を八田知紀に学び桂園派の歌人として一家をなしていたが明治九(1876)年宮廷の御歌掛兼務、明治十九(1886)年御歌掛長、明治二十一(1888)年御歌所長となり明治天皇の寵愛を受け明治四十五(1912)年に没するまでこの職にあって、御歌所派として明治旧歌壇を指導した。また枢密顧問官も兼任。明治四十五(1912)年2月28日没。享年77歳。
鷲尾隆聚(京都市上京区・上善寺)
公家。嘉永三(1850)年9月元服して昇殿を許され、文久二(1862)年12月侍従に任ぜられたが、その後朝譴を蒙って差控を命ぜらる。つとに勤王の大義を唱えて討幕の志を抱き、文久年間には上京した諸藩勤王の志士たちを糾合、寺院に帰宅して時期を待った。慶応三(1867)年12月差控を赦されるや、直ちに内勅を奉じて高野山に登り、檄を四方に飛ばして政府軍の糾合に努め、集まる者千余名に及んで隠然たる勢力を形成した。ついで京都の同志と相呼応して大坂城の攻略などを企図し、慶応四(1868)年正月7日錦旗を授けられ、ついで高野山より入京、同月25日参与に任じ、軍防事務局親兵掛を兼ねたが、閏4月免ぜられた。6月7日奥羽追討総督を拝命し、10日東征大総督府参謀に転じ、7月13日奥羽追討白河口総督を命ぜられ、政府軍を率いて東北各所に転戦、功を収めたが、病を得、8月7日総督を、ついで9月13日東征大総督府参謀を辞した。明治二(1869)年2月三等軍将に任じ、6月戊辰の戦功により賞典禄二百石を永世下賜され、8月陸軍少将に転じ、明治三(1870)年3月五条県知事に任じ、4月兵部大丞を兼ね、明治四(1871)年8月若松県知事(のち若松権令、同県令)に任じ、明治六(1873)年5月以降愛知県令・五等判事・工部大書記官等を歴任、明治十五(1882)年元老院議官となった。大正元(1912)年3月4日没。享年71歳。
もへい様寄贈
渋沢喜作(東京都目黒区・祐天寺)
彰義隊頭取。豪農の家に生まれ、血洗島村で従兄の渋沢栄一と共に成人した。幕末、尊攘運動の渦中に身を投じ、文久三(1863)年横浜異人館焼打ちなど計画したがを計画したが中止し江戸に出た。元治元(1864)年2月平岡円四郎の仲介により、栄一と共に一橋家の家臣になり、京都にあって活躍、慶喜に認められて次第に重用され軍制所調役組頭となった。慶応二(1866)年7月慶喜が徳川宗家を継ぐや、翌月幕府の陸軍奉行支配調役に取立てられ、以後、幕府のために働いた。慶応三(1867)年慶喜が政権を返上するとそれに反対し、奥右筆格の地位を利して頻りに尾張・紀伊などの諸藩士を説き幕権の維持に努めた。慶応四(1868)年幕軍が鳥羽伏見に敗れるや、2月天野八郎らと共に彰義隊を結成しその頭取に推された、天野と意合わず脱退して振武隊を組織し、飯能に拠って5月に倒幕軍と戦ったが敗れ、さらに榎本武揚軍に加わって箱館に走った。明治二(1869)年5月榎本軍敗れるや捕えられ獄に下った。明治五(1872)年出所、栄一の助力により大蔵省七等出仕、ついで蚕糸業調査のためイタリアに派遣され、翌年帰国と同時に退職、以後は実業界で活躍した。即ち、小野組に入り、次いで横浜で生糸売込問屋を経営、さらに廻米問屋・鉱山業・製麻会社・人造肥料会社・十勝開墾会社・鉄工所などに関係し、明治二十九(1896)年東京商品取引所理事長にもなった。明治四十五(1912)年8月30日没。享年75歳。
彰義隊のときは渋沢成一郎と名乗っていましたね。でも実質頭取自ら脱退したってことは…彰義隊で扱わない方がよかったのでしょうかね?。
明治天皇(京都市伏見区・桃山御陵)
第122代天皇。中山邸にて降誕あり、安政三(1856)年9月中山邸より内裏に移り、万延元年7月儲君と定められ、同年9月28日親王宣下あり、御名を睦仁と賜わる。慶応二(1866)年12月父天皇の崩御により皇位を継承し、翌三(1867)年正月9日践昨の式を、翌四年(1868)8月27日即位礼を挙げ、9月8日明治と改元し、12月一条美子(昭憲皇太后)と大婚の礼を挙げられた。天皇の即位の初め、これまでの国内の対立抗争もようやく終局を迎え、慶応三(1867)年12月9日王政復古を断行、天皇親政の時代を迎え、翌明治元(1868)年3月五箇条御誓文において公議尊重・開国進取の国是を定めた。同年正月戊辰戦争が起り・戦火は関東から東北地方に、さらに北海道まで波及したが、4月江戸開城あり、7月江戸を東京と改め、9月東北地方が平定されるや、10月東京に着御、いったん京都に還御の後、翌二(1869)年3月再度東京に着御あり、爾来東京を首都として人心の一新を図った。ついで6月版籍奉還、四(1871)年7月廃藩置県を断行して中央集権体制の強化を図り、六(1873)年7月地租改正条例を公布して統一的な税制の基礎をつくり、五(1872)年12月の徴兵令の制定と相まって、富国強兵・殖産興業政策の財政的基礎を整傭した。また五年8月学制を頒布し、あるいは欧米先進国の制度・文物を移植して杜会万般の改革が急速に行われた。かくて二十二(1889)年二月憲法を制定し、議会を開設して近代国家としての政治体制を確立した。いっぼう対外的には安政以来の不平等条約を改正して因権の伸張と国際的地位の向上を図り、日清・日露の両戦役に勝利を収めて大陸進出の端を開き、四十三(1910)年8月韓国を併合するに至った。後進国のかかる急激な発展には、それたりに欠陥を有したが、それにしてもなお驚異とするに足るものであった。かかる国家発展の過程にあって、天皇の地位はいわゆる天皇制の頂点として、伝統的な権威をさらに高めるとともに、極めて強力な政治権力を有するものとなったが、天皇自身もまたかかる天皇の地位にふさわしく、資性英明を称せられ、また君主たる職責に対する自覚が強く、維新以来天皇親政の理念の下に国政を総援してその責に任ずるとともに、君徳の修養に不断の努力を重ねられた。その克己励精、治を図られたことについては数六の逸話も伝えられており、天皇の人格・識見はすぐれた治績と相まって、国民の斉しく尊敬するところとなった。なお和歌の才能に富まれたことも著名である。明治四十五(1912)年崩御。
明治天皇陵は桓武天皇陵と隣り合っており、奇しくも京都に遷都した帝と、京都から遷都した帝との組み合わせになっております。西側参道から行ったのですが、この参道が予想以上に長くて辟易しました。
明治四十五年/大正元年