大鳥圭介(東京都港区・青山墓地)
幕臣。幼にして備前の閑谷黌に入り漢学を修め、嘉永五(1852)年大坂の緒方塾に入り蘭学を修めた。安政元(1854)年江戸に出て坪井忠益の塾に入り、安政四(1857)年江川英敏の塾に入り兵学を修め、慶応二(1866)年の推薦により幕臣に列し、禄100石20人扶持を受けた。慶応三(1867)年5月歩兵指図役頭取、ついで10月には歩兵頭並にあげられ、幕兵の洋式訓練に当たった。明治元(1868)年正月鳥羽伏見の戦い起こるや、主戦論を主張し、この月歩兵頭に進み、2月歩兵奉行となった。その後開城となるや、これを不満とし、4月旧幕兵を率いて脱走、市川・結城・宇都宮・会津・仙台に転戦したが敗れ、榎本武揚の脱走艦隊に投じて蝦夷地を占拠し、陸軍奉行として箱館を守った。翌二年5月五稜郭陥落、降伏して東京の獄に投ぜられ、明治五(1872)年出獄。明治政府に出仕して開拓使御用掛・少議官・大蔵少丞・陸軍省四等出仕を経て、工部省に転じ、工部頭・工部技監・工部大学校長・学習院長・華族女学校長を歴任した。明治二十二(1889)年特命全権清国駐箚公使となり、明治二十六(1893)年には朝鮮駐箚を兼任し、翌年枢密顧問官に任ぜられた。明治四十四(1911)年6月15日没。享年79歳。
初めてこの方の名前を知ったときは思わず笑ってしまいました。その当時「おおとりけいすけ」と言えば「鳳啓介」でしたからね。しかし人物像を追っていったらやっぱり武闘派幕臣らしく常に最前線に立ってる感じがあります。新撰組副長の土方さんとはソリが合ってるんだか合わないんだか、何かキャリアとノンキャリアみたいな関係になってる気がします。

もへい様寄贈
四条隆平(東京都港区・青山墓地)
嘉永六(1853)年12月兄隆謌の養子となり叙爵、安政元(1854)年12月元服・昇殿を許された。文久三(1863)年8月の政変により、養父隆謌が長門に走ったため、差控を仰せ付けられたが、9月釈された。元治元(1864)年6月中山忠能・橋本実麗ら一条家門流38名が連署して権大納言一条実良に書を呈し、横浜鎖港の実行を幕府に督励すべく建言したときこれに加わり、ついで慶応二(1866)年8月中御門経之・大原重徳ら22人の中に加わって列参建議し、10月結党建言の故をもって差控を仰せ付けられた。慶応三(1867)年12月国事多難により執筆御用掛を命ぜられ、翌慶応四(1868)年正月鳥羽伏見の戦いに際しては、5日朝命を報じて山崎の津藩の陣営に赴き、御沙汰を伝えて政府軍に応じせしめた。ついで同月20日北陸道鎮撫副総督を命ぜられ、芸州・若州の兵を率いて出発、引き続き先鋒副総督兼北陸道鎮撫副総督・越後国柏崎県知事・越後府知事を歴任して功あり、明治二(1869)年5月民部官副知事の心得をもって岩代国巡察使を仰せ付けられ、6月戊辰の戦功をもって賞典禄二〇〇石を永世下賜された。その後9月若松県知事、明治四(1871)年8月五条県知事、11月奈良県令に任じ、ついで太政官権少書記官兼元老院権少書記官を歴任し、明治二十七(1894)年6月故ありて分家した。明治四十四(1911)年7月18日没。享年71歳。
 
豊永長吉(山口県下関市・功山寺)
長府藩士。印藤聿と称す。算術に詳しく槍術の奥義に達する。文久の頃赤間関(下関)砲台建築防備に尽力、元治元(1864)年報国隊を編成しその軍監。明治以後商に帰して豊永長吉と改める。渋沢栄一、安田善二郎、大倉喜八郎らと門司築港会社を創る。毛利家家政のことに尽力。明治四十四(1911)年7月23日没。享年81歳。
明治四十四年