もへい様寄贈
白峰駿馬(東京都台東区・谷中霊園)
長岡藩士・鵜殿瀬左衛門の三男として生まれる。文久二(1862)年江戸に行き、異父兄の鵜殿団次郎(後に幕府から請われて幕府御目付役になった)と交流のあった勝海舟の門下生となる。元治元(1864)年長岡藩を脱藩し、勝海舟の神戸海軍塾に入塾。そこで坂本龍馬に能力を認められ後に海援隊へ加わり、洋帆船大極丸の船将などを勤めた。維新後は造船・機械について学ぶため6年間アメリカに留学。帰国後、明治十一(1878)年に日本最初の民間造船所「白峯造船所」を横浜に設立した。明治四十二(1909)年4月1日没。享年62歳。

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由利公正(東京都港区・海晏寺)
福井藩士。公正の母は頗る賢夫人で家政のきりまわしがよく、女中も雇わず、自家菜園でで需要を充たし魚類も毎月一回と定めて。彼も幼より母を助けて家屋の修繕、菜園の栽培、父の乗馬の飼育などを手伝い、余暇には剣道・槍術・砲術等を学び、いずれも尋常でなかった。その他毎晩馬場を8回駆回るなど心身の鍛錬に工夫したため、後年のペリーの来航の際、わずか3日で江戸に到着したという。公正が財政に功績を残したのも幼時よりの訓育と父の薫陶にあった。19歳のとき、越前に来遊した横井小楠の学問に傾倒し、藩の財政を研究した。5カ年間実地調査して福井藩の総収入を人口で割り、一人一日三合の結果を得て、ここに財政立直しの基礎を得たので、その整理を一任されるに至った。嘉永六(1853)年25歳のとき、父の急死で家督を相続。同年ペリーが来航するや藩命により品川砲台の警備につき、また米艦を見て驚き、富国強兵の持論と信念を強めた。翌安政元(1854)年帰国して兵器製造掛となり、鉄砲製造所・火薬製造所を設け、1200人の職工を使用した。資金調達のため養蚕奨励、蚊帳・紙の特産物の改良に尽した。安政六(1859)年長崎に至り和蘭商館と特約して生糸25万ドルを輸出した。維新後新政府の徴士・参与となり、御用金取扱を命ぜられ、会計基金300万両の募債と金札発行につき部下の失策から引責帰国したが、この間グリフィスを招いて洋楽を盛んにし、外国留学を奨め、商家の子弟も藩学に入学させたり、藩の財政整理もやったが、明治三(1870)年再び上京し、賞典禄八百石を永世下賜され、明治四(1871)年東京府知事となった。知事としては町会所・興業銀行を創立して人心を安定し、明治五(1872)年の大火後、銀座通の道幅を3倍にし25間に拡げた。同年岩倉具視の欧米視察に随行を命ぜられ、明治八(1875)年元老院議官に任ぜられた。晩年は貴族院議員に勅撰された。明治四十二(1909)年4月28日没。享年81歳。

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荒井郁之助(東京都渋谷区・祥雲寺)
幕臣、初代中央気象台台長。安政四(1857)年長崎海軍伝習所に学んで航海術を習得した。のち海軍操練所頭取・順動丸艦長・講武所取締役を経て、慶応三(1867)年歩兵頭となる。明治元(1868)年維新の内乱に榎本武揚と共に幕府の軍艦を率いて蝦夷地に行き仮政府を樹立して海軍奉行に就任した。明治二(1869)年3月20日司令官として軍艦回天丸に乗り、蟠龍・高尾の二艦を従え、政府軍艦隊の集合地たる宮古湾に出撃したが、甲鉄艦の反撃に敗退し、箱館に帰った。同年捕えられ、?獄三年に処せられた。この間、牢屋にて「英和対訳辞書」を編纂した。のちに特赦にあい、開拓使出仕を命ぜられ、開拓使仮学校の初代校長となる。明治十二(1879)年内務省測量局長となり、中央気象台の初代台長に就任し、標準時の制定を行った。明治十五(1882)年辞官し、のち浦賀ドックの創立に尽力した。明治四十二(1909)年7月19日没。享年75歳。

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嵯峨実愛(東京都文京区・麟祥院)
堂上公家。文政五(1822)年4月従五位下に叙し、文政十(1827)年4月侍従に任じられてより、右少将・右中将を経て嘉永元(1848)年3月参議に任じ、5月従三位に叙せられる。爾後権中納言・右衛門督・検非違使別当を歴任し、安政六(1859)年権大納言に昇進した。この間、安政五(1858)年初頭の外交問題で国論沸騰の際、攘夷説を持してあるいは建言し、あるいは他の廷臣と共に列参して勅裁案の修正を請い、関白九条尚忠を幕府に加担するとして排斥した。これは幕府の忌むところとなり、安政六(1859)年正月十日間の慎に処せられ、前年6月より勤めた議奏加勢を辞した。万延元(1860)年6月議奏に補せられて朝議に参画し、薩長その他諸藩の志士の国事に関する建言等を執奏すること少なくなかった。文久二(1862)年12月さらに国事御用掛の一員となったが、過激派の公卿・志士のため志を得ず、文久三(1863)年正月議奏を辞し、ついで2月権大納言をも辞した。しかし8月議奏格となり、12月議奏に復任し、元治元(1864)年10月権大納言に還任、慶応元(1865)年12月辞任して本座を許された。このころ隠棲中の岩倉具視と結び、慶応二(1866)年8月の中御門経之ら復古派廷臣の列参を助けたため、10月議奏を辞し、ついで遠慮閉門を命ぜられた。慶応三(1867)年3月許され、5月議奏に復して王政復古に尽瘁した。10月討幕の密勅が薩長両藩に下されたとき、これを薩摩の大久保利通と長州の広沢兵助に授けたのは実愛である。12月王政復古成るや議定となり、慶応四(1868)年正月内国事務総督を兼ね、2月輔弼に転じ、明治二(1869)年5月刑法官知事、7月刑部卿に任ぜられた。同年9月維新の功績により賞典禄一〇〇〇石を永世下賜された。明治三(1870)年10月大納言に任ぜられ、逆退して従二位に叙せられる。同年12月正親町三条西から嵯峨と改姓した。明治四(1871)年7月大納言を辞して麝香間祗候を命ぜられたが、明治五(1872)年3月教部卿に任ぜられ、10月辞任して麝香間祗候に復した。明治十一(1878)年12月正二位。明治十三(1880)年11月勲一等に叙し旭日大綬章を授けらる。明治十四(1881)年4月隠居し、明治三十二(1899)年7月高齢により宮中杖を許された。明治四十二(1909)年10月20日薨去。享年90歳。薨去後、天皇は棺前に勅使を遣わし、御沙汰書を宣読せしめてその功を賞された。

もへい様寄贈
伊藤博文(東京都品川区・谷垂墓地)
長州藩士。家貧しく、12、3歳頃若党奉公をした。14歳のとき、伊藤姓を名乗る。安政三(1856)年藩命により相州浦賀警衛に出役の折、来原良蔵に見出され、その紹介で松下村塾に学び、ついで長崎で洋式操練を学んだ。安政六(1859)年桂小五郎に従って攘夷運動に参加し、文久二(1862)年12月品川御殿山英国公使館焼討にも加わった。文久三(1863)年士分に列せられてのち、井上馨と共に渡英した。以後開国・富国強兵論に転じ、四国連合艦隊下関砲撃事件を知って慶応元(1865)年6月急ぎ帰国し、列国との講話を工作した。この間尊攘派に狙われ、幾度か危難に遭遇した。以後討幕運動に従い、第一次征長役後、俗論派が長州藩要路を制した際、高杉晋作を援けてこれを一掃し、第二次征長戦の際は、長崎との間を往来して汽船・兵器の購入に尽力すると共に、薩長連合に益すること多かった。明治に入り徴士・参与として新政府に出仕、外国事務局判事、大阪府判事を経て兵庫県知事となり、その折封建制度廃止反対派に狙われ、明治二(1869)年4月辞職東上した。同年7月大蔵少輔、明治三(1870)年民部少輔兼任、同年10月財政幣制調査のため渡米、帰国後租税頭兼造幣頭・工部大輔となる。明治四(1871)年11月岩倉具視遣外使節団の副使として欧米を巡歴し、明治六(1873)年9月帰国した。西郷隆盛らの征韓論には、大久保利通を援けてこれを破った。10月参議に列し、大隈重信と共に大久保を援けた。明治十一(1878)年5月大久保死後内務卿を兼ね、政府部内に地歩を固め、明治十四(1881)年の政変により対立者大隈を政府から追放し、政府の実権を握った。明治十五(1882)年3月憲法調査のため渡欧、在欧1年有余プロシア憲法を学び、帰国後憲政準備に尽力した。すなわち、明治十七(1884)年7月華族令制定、明治十八(1885)年12月内閣制度創設、自ら初代総理大臣となる。傍ら憲法起草に励み、さらに皇室典範・皇室財産を確立、明治二十一(1888)年4月枢密院設置と共にその議長となって憲法草案を審議する等、天皇制権力機構の確立に大いに努めた。一方外交では、井上馨外相と共に欧化政策から条約改正を図ったが自由民権派の反対にあい、保安条例で弾圧する一方、大隈を外相にしたが、失敗し、辞職した。明治二十三年0月貴族院議長、翌年枢密院議長再任後、明治二十五(1892)年8月第二次内閣を組織し、議会解散・詔勅政策などで反政府勢力を排除し、行政整理・条約改正・増税・海軍拡張を行い、明治二十七(1894)年7月日英通商航海条約締結後、日清戦争を強行した。翌年全権として下関で講和条約を締結した。明治三十一(1898)年1月第三次内閣を組織し、地租増徴等増税案を議会に提出したが憲政党の反対にあい辞職。明治三十三(1900)年9月立憲政友会を結成して総裁となり、第四次内閣を組織し、北清事変処理のため増税案を提出したが閣内不一致で翌年辞職。明治三十六(1903)年7月三度枢密院議長となり、政友会総裁をやめた。日露戦争後大使として韓国に赴き、明治三十八(1905)年第二次日韓協約を結び、韓国統監府を設置、初代統監となって、韓国併合の基礎を作った。明治四十二(1909)年6月統監を辞し、四度枢密院議長となった。同年10月満州視察と日露関係調整のため渡満したが、10月26日ハルビン駅頭で韓国人安重根に射殺された。享年69歳。
松平信正(京都府亀岡市・光忠寺)
亀山藩主。兄信義に男子なきためその養子となり、慶応二(1866)年3月14日襲封、第八代亀山藩主となり、翌年3月図書頭に任ぜられた。慶応四(1868)年正月戊辰戦争には京都警備に当たったが敗退して帰藩、山陰道鎮撫総督西園寺公望に帰順した。同年3月大坂親政に際しては供奉を命ぜられ、翌明治二(1869)年6月藩命を亀岡と改称、亀岡藩知事に就任、明治四(1871)年7月廃藩置県で免職となった。のち明治十二(1879)年10月大蔵省御用掛、明治十四(1881)年6月四等検査官、明治二十二(1889)年帝室制度取調掛、検査院第二課長、翌年元老院書記、貴族院議員などを歴任した。明治四十二(1909)年10月28日死去。享年58歳。
明治四十二年