立見尚文(東京都港区・青山墓地)
桑名藩士。江戸昌平黌に学び、槍術に長じ、またフランス人の練兵に参加した。京に出て藩の外交の任に当たり、西郷隆盛・大久保利通などとも交わった。戊辰戦争では幕府軍に投じ、越後では雷神隊の隊長として活躍し、越後・長岡・会津と転戦したが、敗れて桑名に幽閉された。維新後明治二(1869)年権少参事となる。のち東京に出て陸軍教授岡田豊前に兵学を学ぶも薩長出身でないため抜擢されず郷里に帰った。明治十年西南戦争で陸軍少佐・大隊長として活躍した。のち小松宮に従い諸外国を回り、歩兵第十旅団長・陸軍大学校長・台湾総督府軍務局長に昇進し、第八師団長として日露戦争にも活躍した。明治三十九(1906)年陸軍大将。明治四十(1907)年3月6日没。享年63歳。
立見鑑三郎といえば無敗の将とまで言われた戦上手なイメージが個人的には定着しています。西南戦争では西郷さんたちが篭る城山の岩崎谷を攻略して西郷さんを自刃に追い込み、日露戦争では明治三十八(1905)年1月26日黒溝台の会戦で、零下30度の酷寒の中、ロシア第2軍およそ10万人を向こうに回して大激戦、ついにこれを下がらせたのですからまさに軍神と言ってもよいかもしれません。

もへい様寄贈
松本良順(神奈川県大磯町・妙大寺)
幕医・初代陸軍軍医総監。嘉永二(1849)年18歳で幕府の医官松本良甫の養嗣子となった。幼時より実父泰然の教化を受け、西洋医法の重んずべきことを知り、坪井信道・竹内玄同・林洞海について蘭学を修めた。安政四(1857)年幕命で長崎に赴き蘭医ポンペから西洋医術の伝習を受けた。この長崎遊学中、彼は長崎奉行を説いて洋式病院の設立を企て、熱心な斡旋でその開院を見たが、これが日本の医学史上意義深い長崎養生所である。文久二(1862)年秋、遊学を終わって江戸に帰り、31歳で将軍家茂の侍医となり、法眼に叙せられた。文久三(1863)年6月西洋医学所頭取緒方洪庵の没後、良順がその後任の頭取となった。ついで維新の動乱となった。幕臣である良順はその師弟を率いて会津に奔り、軍陣病院を設けて東北軍の負傷者を治療し、旧主のために大いに努めた。東北の乱後、朝敵として捕われたが、明治政府は彼が従来の閲歴に徴してその罪を許した。明治三(1870)年の夏、早稲田に私立の蘭疇医院を経営した。この間に陸軍大輔山県有朋に知られ、その勧めで兵部省に出仕し、衛生部の設置に尽力した。明治四(1871)年陸軍最初の軍医頭となり、軍の医療体系を整えた。明治六(1873)年5月陸軍軍医総監に任ぜられたが、明治十(1877)年には陸軍省医務局長を辞して早稲田に退隠した。明治二十三(1890)年貴族院議員にあげられた。民間の衛生にも強い関心を持ち、海水浴を奨励・啓蒙したことで知られている。明治四十(1907)年3月12日大磯の自邸で病没。享年76歳。
明治四十年