壬生基修(京都市右京区・二尊院)
堂上公家。安政四(1857)年11月修理権大夫に任ぜられ、安政五(1858)年正月従四位下となる。同年3月条約勅許問題の起るや、八八卿列参に加わって外交措置幕府委任の勅裁を改めるよう要請し、文久二(1862)年8月には阿野公誠ら有志公家と共に和宮降嫁の実現に尽力した久我建通らのいわゆる四奸両嬪を弾劾、これを失脚せしめた。文久三(1863)年2月急進尊攘派堂上の一人として国事寄人に挙げられ、庶政刷新・攘夷政策の決定に努めたが、八月十八日の政変によって失脚し、三条実美・東久世通禧ら6名と長州に走り、慶応元(1865)年正月太宰府に移り、慶応三(1867)年12月赦免されて帰京した。慶応四(1868)年正月参与として国政に参画。同年2月御親兵掛を兼ね、5月三等陸軍将に任ぜられ、6月会津征討越後口総督嘉彰親王の参謀として東国鎮定に当り、11月凱旋、明治二(1869)年正月右近衛権少将(旧官)に任ぜらる。ついで同年2月越後府知事(のち水原県知事)、10月東京府知事、明治四(1871)年12月山形県権令に任ぜられ、この間、明治二(1869)年6月には戊辰の戦功により賞典禄二〇〇石を永世下賜され、明治八(1875)年7月元老院議官となった。明治三十九(1906)年3月5日没。享年72歳。
平井淳麿(福岡県北九州市小倉北区・福聚寺)
小倉藩士。安政四(1856)年平井氏を継ぐ。外様番頭で、慶応二(1866)年第二次征長には小倉軍の隊長として奮戦、明治元(1868)年戊辰戦争に藩兵200余人を率いて上洛、東北に出征、奥羽鎮撫総督九条道孝に従い、盛岡、秋田に転戦した。長州藩の桂太郎と共に参謀添役として功をたて、凱旋ののち明治二(1869)年正月藩の執政となり、10月大参事に任じて改革途上の藩政をまとめ、明治四(1871)年廃藩ののち小倉県七等出仕となった。その後永く旧小倉藩主小笠原忠忱の家令を務め明治三十九(1906)年6月29日病没した。享年70歳。
海江田信義(東京都港区・青山墓地)
薩摩藩士。桜田門外の変に参加した有村雄助・次左衛門兄弟の長兄。11歳のとき島津斉興の茶道に出仕し俊斎と称した。また示現流の剣道を学んだ。海江田家を継いで武次と改名。嘉永五(1852)年初めて江戸に出府し、水戸藩の藤田東湖・戸田蓬軒らに師事した。安政五(1858)年藩主島津斉彬の命により、一橋慶喜を将軍継嗣とすることに力を尽したが事敗れ、安政の大獄が起ると僧月照と大坂から鹿児島に逃れた。西郷隆盛らと力を合わせ、また水戸藩士らと東西策応して義挙を計ったが実現に至らなかった。帰国後誠忠組の中心として活動し、やがて誠忠組が藩内に勢力を得ると徒目付に登用された。文久二(1862)年久光の上京に随従し、寺田屋事件の鎮撫に努めた。久光に従って江戸に下り、帰路、生麦村において英人リチャードソンを殺傷した(生麦事件)。文久三(1863)年薩英戦争では、奈良原喜左衛門らと決死隊を募り英艦奪取計画を計った。慶応四(1868)年東海道先鋒総督府参謀となり、特に江戸城受け取りに功労があった。また上野に籠もる彰義隊の討伐に当っては、大村益次郎と意見が合わず激しく論争した。ついで軍務官判事・刑法官判事・刑部大丞・弾正大忠等を歴任して、明治三(1870)年8月奈良県知事となり、明治十四(1881)年元老院議官に任じた。明治二十(1887)年ヨーロッパに赴きウィーンで、スタインから憲法の講義を聞いた。帰朝後貴族院勅撰議員・枢密顧問官に任ぜられた。明治三十九(1906)年10月27日没。享年75歳。
明治三十九年