高橋泥舟(東京都台東区・大雄寺)
幕臣・講武所師範役・遊撃隊頭。安政二(1855)年兄静山の没後、その門人を督して槍術を教授し、技神に入ったと称せられ、安政三(1856)年22歳で講武所教授、25歳で同師範役となり、従五位下伊勢守に叙任された。文久二(1862)年12月幕府が山岡鉄舟・鵜殿鳩翁(長鋭)に浪士取締役を命じて上京させるや、文久三(1863)年3月泥舟は浪士取扱を仰せ付けられたが、浪士組が尊攘志士と提携したために東帰を命ぜられ、4月浪士取扱を免じ、寄合差控に処せられた。同年12月講武所師範役に再勤、慶応二(1866)年11月遊撃隊頭取、慶応三(1867)年10月同隊頭並となり、慶応四(1868)年正月鳥羽伏見の戦いのあと、徳川家恭順説を幕臣に説き、同月遊撃隊頭に進み、2月慶喜が江戸城から上野寛永寺に移ったとき、ついで4月水戸に幽居したとき、それぞれ遊撃隊を率いて警固に当った。明治三十六(1903)年2月13日没。享年69歳。
西郷頼母(福島県会津若松市・善龍寺)
会津藩国家老。西郷家は代々会津藩家老を勤め、頼母は安政四(1857)年父が病のため職を辞したので藩政に参画し、安政七(1860)年父の死によって家を継いだ。文久二(1862)年の松平容保守護職就任に対し国内情勢から反対した。さらに慶応四(1868)年鳥羽伏見の敗戦で容保が会津に帰ると、帰順以外に藩を救う道はないと主張したが、、主戦論をくつがえす力とならなかった。政府軍進撃に際し白河口を指揮し一時政府軍を撃退したが、白河城も陥落し、若松に帰って再び帰順を主張したが退けられ、登城を差し止められた。しかし八月22日政府軍の若松接近により急ぎ登城した。この時西郷一族は母や妻子ら21人が刺し違え悲惨な最後を遂げ誠忠の意を示した。。主戦派は頼母を軍事局から締め出したために城におられず脱出し、容保の汚名を晴らすため機会を求め、米沢・仙台に入り、ついに榎本武揚の軍に入って箱館で戦ったが敗北して捕らえられた。禁固の刑に処せられたがのちに赦免され、明治八(1875)年に磐城国都々古別神社の宮司になった。明治三十六(1903)年4月30日没。享年74歳。

長松幹(東京都港区・青山墓地)
長州藩士。初め佐波郡右田の大田稲香に学び、ついで京都に遊学し、安政五(1858)年以来久坂玄瑞らと公家間に出入りして国事を議した。元治元(1864)年帰藩して右筆となり、8月儒役雇から雇医員となった。その後藩の編輯局に勤め、尊王事蹟を編集し、明治元(1868)年議政官試補・同史官となり、明治二(1869)年明治天皇の東幸に供奉し、のち函館軍功取調掛・太政官正院歴史課・修史局出仕を経て明治十(1877)年一等編集官、ついで修史館監事に進み「復古記」「明治史要」の編纂に従事した。明治十七(1884)年元老院議官、明治二十三(1890)年錦鶏間祇候となり、翌年貴族院議員に勅撰され、明治三十六(1903)年6月14日東京で病死した。享年70歳。
楠本いね(長崎県長崎市・皓台寺)
オランダ商館シーボルトと遊女其扇(お滝)の子として長崎の父の外科室で生まれた。シーボルト事件で父が文政十二(1829)年12月5日、日本を去った時は2歳8ヶ月であった。父の門人二宮敬作に託されて成長し、母の生家の姓楠本を名乗った。弘化二(1845)年より嘉永四(1851)年まで岡山の町医石井宗謙に、嘉永四年より安政元(1854)年まで長崎の寄留医師阿部魯庵に、安政元年より文久元(1861)年まで宇和島の医師二宮敬作についてそれぞれ産科術を修行し、安政六(1859)年以降明治二(1869)年までオランダ医師ポンペ・ボードイン・マンスフェルトらに産科術を学び、明治三(1870)年東京に出て築地に産科医を開業、明治六(1873)年7月には権典侍葉室光子の妊娠に際し宮内省御用掛を命ぜられ、その功により賞賜された。岡山の父の門人石井宗謙と結婚し一女たか子を産んだ。明治三十六(1903)年8月26日没。享年77歳。
鬼のようでした。2004年1月2日、新年早々グレイブ・ハントの機会に恵まれてしまいました。場所が長崎と言うことで事前に調査したところやはり海援隊ゆかりの近藤長次郎さん・沢村惣之丞さんらをはじめとしてたくさんの方々が長崎市に在ることがわかりました。しかし当日行ってみると探査時間は3時間程度しかないということになり、急遽探査箇所を限定する羽目になりました。結局風頭公園を中心とした区域に限定し、近藤長次郎さん・上野彦馬さんの御墓を捜査すべくさっそく皓台寺へ。まずはお寺の横にあるヘイフリ坂を登って風頭公園へと向ったのですが…キツカッタですねぇ〜。正直体は正月休みモードで鈍ってる感じのところにあの坂は反則ですよ。何しろどこまで行けばいいのかわからないと言う精神的な部分で疲れました。そんな坂の途中で見つけてしまったのがいねさんの御墓です。実は今回の探査対象からは漏れていましたので、あれ?ここにあったんだ?!っという感覚で墓所へと御邪魔してしまいました。
中村長平(滋賀県彦根市・清涼寺)
彦根藩商人。商家に生を受けたが、好学の念強く嘉永七(1854)年秋長野主膳の門に入り、深く愛された。主膳が国事に奔走するころは彼の手足となり、特に彦根産物売広めに活動した。文久二(1862)年藩状一変、主膳刑死後は牢舎内埋骨地の上に地蔵尊を祭り、明治五(1872)年清涼寺に墓を建て、また膨大な遺稿、史料の収集と保存、あるいは不遇の遺族縁者の援助にも私財を投げ出した。明治以後は平田学派に転向、権少講義となり神道の宣揚に努めた一時期もあった。明治三十六(1903)年11月22日没。享年68歳。
明治三十六年