三吉慎蔵(山口県下関市・功山寺)
長府藩士。天保八(1837)年田辺惣左衛門の養子となり藩校敬業館へ入学し、天保十(1839)年諸武芸師範に入門、嘉永二(1849)年田辺家から実家小坂家に帰って萩の明倫館へ入学、とくに宝蔵院流槍術に長じ、安政二(1855)年長州藩師範小幡源右衛門の免許を得た。安政四(1857)年三吉十蔵の養子となり藩主毛利元周の近習扈従役を命ぜられ、安政五(1858)年江戸へ随従し、文久元(1861)年伊勢大神宮へ代参した。文久三(1863)年下関の外船砲撃に藩の軍議に与り、大砲鋳造掛締方・精兵隊諸事肝煎を勤め、慶応元(1865)年坂本龍馬に随って、四藩連合の謀議に加わり、伏見の寺田屋で刺客に襲われて帰国した。明治三(1870)年家扶となり、明治十(1877)年宮内省御用掛として北白川宮家に勤め、家令となって明治二十三年辞職して帰郷した。明治三十四(1901)年2月16日没。享年71歳。
三吉さんは寺田屋で坂本さんと死線を突破したこともあって、坂本さんの話の中では欠かすことのできない存在となっています。しかしながら坂本さん没後もお龍さんの面倒見たりと何かと関わっています。本当に義理堅い方だったのでしょうね。

もへい様寄贈
清岡公張(東京都文京区・護国寺)
土佐藩士。安芸郡田野浦の郷士で野根山殉難二十三士の首領清岡道之助の弟。少壮時伊勢に遊学して経史を学んだ。勤王の志が深く、文久年中上京して諸藩の志士と交わり、藩命により三条実美の衛士となった。文久三(1863)年八月十八日の政変後七卿に従い、途中広島藩に使したのち長州に赴き、種々画策した。元治元(1864)年7月禁門の変の時、上京して堺町御門に進んだが、敗れて天王山に退き、再び長州に走った。慶応元(1865)年三条実美に従って太宰府に移ったが、王政復古により五卿の罪が許されるに及んで入京した。維新後、慶応四(1868)年正月東山道鎮撫総督府大監察に任じ、10月甲斐府権判事、明治二(1869)年7月福島県権知事、8月白河県権知事、明治四(1871)年11月二本松権令などに任じ、ついで司法省に出仕し、のち元老院議官・宮内省図書頭・枢密顧問官を歴任した。明治三十四(1901)年2月25日没。享年61歳。
あの清岡道之助さん弟も剣林弾雨を潜っているのですね。もし三条卿に随っていなかったら野根山で露と消えていたかもしれないだけに、運がよかったといえるのかもしれません。
宍戸?(東京都豊島区・染井墓地)
長州藩士。萩藩明倫館に学び、ついで明倫館祭酒山縣大華の養子となり、嘉永四(1851)年江戸に行き安積艮斉の門に入り、塾長となった。安政元(1854)年幕府の勘定吟味役村垣範正に従い蝦夷と露国事情を探って翌年帰国し、また長崎に遊学した。安政五(1858)年明倫館都講本役となり、藩世子の侍読に擢んでられ、万延(1860)元年世子に扈従して江戸に行き、常に世子の左右にあって機務に参与した。文久二(1862)年信州松代の佐久間象山を聘用するため、久坂玄瑞とその地に使したが果たさなかった。文久三(1863)年帰国して尊攘の大儀を九州諸般に遊説し、8月の政変後は京摂の間に潜行して形勢を視察した。元治元(1864)年帰国報告、ついで下関攘夷戦の和議に尽力したが、恭順派政府のため家に禁固され、慶応元(1865)年藩論回復後赦免された。ついで幕府の長州再征に嘆願書提出のために広島に使し、家老宍戸備前の末家格となって再三広島国泰寺で幕府の問罪使と応接し、慶応二(1866)年ついに広島に小田村素太郎(楫取素彦)と共に拘留されたが、開戦後幕府敗戦の調和策として放還された。藩主この間の功を賞し寄組に加え、宍戸備前の末家となし、直目付役を命じた。ついで明治元(1868)年まで藩史編修のことを管し、明治二(1869)年山口藩権大参事、明治三(1870)年刑部少輔、明治四(1871)年司法少輔・司法大輔、明治五(1872)年教部大輔・兼文部大輔等を歴任、明治十(1877)年元老院議官に任じ、明治十二(1879)年特命全権公使として清国在勤、のち宮内省に出仕、参事院議官に任じ、明治二十三(1890)年錦鶏間祗候となり、明治三十四(1901)年9月30日没。享年73歳。

JUNE様寄贈
谷周平(大阪市北区兎我野・本伝寺)
新撰組隊士。長兄三十郎、次兄万太郎とともに、文久三(1863)年末頃新撰組入隊。元治元(1864)年、池田屋事件の直前、近藤勇の養子となる。近藤勇は周平を池田屋で近藤隊と記したが、土方隊の可能性が高い。事件後金10両、別段金5両の恩賞を下賜された。同年12月の編成では、三浦啓之助とともに近藤の小姓格となる。しかし、慶応元(1865)年12月、近藤は佐藤彦五郎ら後援者へ、天然理心流の後継は沖田総司と定めた書簡を送っており、周平への期待感の希薄さも垣間見られる。慶応三(1867)年6月、諸士取調役兼監察の一員として、幕臣取り立てで見廻組並の格を受けるが、この折の名簿では谷姓に復している。慶応四(1868)年1月、江戸帰還後、脱走。のち、山陽鉄道に奉職後、明治三十四(1901)年12月2日神戸で病没。享年54歳。
近藤家の養子として見込まれていたのでしょうけど、さしたる働きのないまま脱走という結果だけをみると批判の対象かもしれませんが、一応天寿を全うしたという点で谷さん自身はよかったのかもしれませんね。

もへい様寄贈
木村芥舟(東京都港区・青山墓地)
幕臣・軍艦奉行。13歳のとき浜御殿見習となり、弘化元(1844)年両番格に進んだ。嘉永元(1848)年昌平黌試験に乙科及第。、安政二(1855)年講武所出役、以後老中阿部正弘の人材登用により同年9月西丸目付、安政三(1856)年2月本丸目付に進んだ。同年12月長崎表取締御用となり、図書と改称した。安政四(1857)年5月海軍伝習生監督となり、長崎海軍伝習所に勤務、安政六(1859)年2月海軍伝習中止により帰府した。同年6月外国御用立合・神奈川開港御用掛となり、9月目付より軍艦奉行並、11月軍艦奉行に進んだ。このとき諸大夫に列して従五位下・摂津守に叙任された。幕府の遣米使節派遣に伴い、万延(1860)元年正月咸臨丸提督として品川出帆、非常な辛酸を嘗めた後、2月サンフランシスコ着、大歓迎を受け、閏3月同港初、途中ハワイに寄り5月帰朝した。その功により二十人口を賜わった。以後、海軍の拡充に努め、文久元(1861)年5月海陸備向並に軍制取調の命を受け、文久三(1863)年9月海軍拡張の急務を建白したが容れられず辞職。元治元(1864)年4月開成所頭取、11月父退隠に伴い家督を継ぎ、12月目付再任、即日外国御用立合いおよび御備向掛となり、兵庫頭と改称した。慶応元(1865)年4月将軍進発御用取扱および扈従を命ぜられ、11月外国貿易取締りの不可を申立てたが容れられず辞職。慶応二(1866)年7月再度軍艦奉行並となり上坂、慶応三(1867)年6月本職に進んだ。慶応四(1868)年2月海軍所頭取、3月勘定奉行となったが、7月致仕、芥舟と号した。その後、明治政府より聘せられたが応ぜず、詩文を事とし悠々自適、明治三十四(1901)年12月9日特旨をもって正五位に叙せられ、同日没した。享年72歳。
明治三十四年