秋月悌次郎(東京都港区・青山墓地)
会津藩士。幼にして藩校日新館に学び秀才の誉れ高く、19歳の時選ばれて江戸に上り昌平黌に学び、のち舎長となった。帰藩後日新館の教授となり、また藩命で関西各藩を歴遊して報告の書17巻を呈した。文久二(1862)年藩主松平容保が京都守護職になると、これに従って京に上り機務に参画した。慶応元(1865)年会津の蝦夷地代官に転じたが、慶応三(1867)年3月命によって再び京に上った。明治元(1868)年鳥羽伏見の戦いとなり、、会津に帰って越後に転戦し、のち城に入って副軍事奉行となった。開場には参画最も努めたが、戦後は首謀者と認められ終身禁固に処せられた。明治五(1872)年特赦に会い、その後太政官に仕え、また東京大学・各高等学校の教授を歴任した。熊本高等学校教授時代同僚の小泉八雲と親交があり、また当時熊本師団長だった北白川宮能久親王に経書を進講した。明治二十八(1895)年官を辞して東京に住し、明治三十三(1900)年1月5日病に没した。享年77歳。
会津藩公用方として文久三年八月十八日の政変をの仕掛け人とも言うべき方ですね。もう一人の仕掛け人の高崎正風さんの御墓も青山にあるはずなんですが、第一次調査では辿り着けませんでした(広いんですよ、あそこは)…。個人的に秋月さんはあの「白虎隊」で露口茂さん(参謀役なら天下一!)が演じてたために殊更印象深い存在となっています。
品川弥次郎(京都・霊山墓地)
長州藩士。安政四年松下村塾に入って吉田松陰に学んだ。文久二年(1862)4月上洛して寺田屋事変に関係。また、江戸に行き、高杉晋作らと英国公使襲撃計画、御楯組の血盟に参加した。禁門の変には八幡隊隊長として戦ったが、敗れて帰国。慶応三(1867)年10月大久保一蔵(利通)と岩倉具視に会い錦旗調製のことを託される。明治元(1868)年10月整武隊参謀として奥羽に出陣、翌年7月山口に凱旋した。以後政府要職を歴任。明治三十三(1900)年2月26日肺炎のため病死した。享年58歳。
品川さんのお墓は霊山にありますが、霊山墓地から行くことはできません。護国神社の隣側から入らなければならないのです。そのためかここには誰も来ず、何か寂しい感じがしました。しかし、この上に伊藤さんの碑があるのです。

もへい様寄贈
伊丹重賢(東京都港区・青山墓地)
青蓮院宮家臣。梅田雲濱の門に学び、青蓮院宮尊融親王(朝彦親王)に仕えて国事に奔走し、親王に雲濱・橋本左内・山本貞一郎らの入説を斡旋仲介するところがあったが、安政五(1858)年の大獄に座して就縛、安政六(1859)年10月中追放に処せられた。文久二(1862)年12月追放を許されたが、この間万延(1860)元年3月近江流浪中彦根藩に一時拘留され、また文久三(1863)年6月親王の命を受けて湊川の楠木正成碑代拝の途次、薩摩に赴くとの嫌疑により再び幕吏に捕縛された。慶応三(1867)年6月右京大進に任じ、従六位下に叙せらる。慶応四(1868)年4月徴士・内国事務局権判事に登用せられ、5月大阪府権判事に任じ、7月同判事に進み、明治二(1869)年8月刑部大判事に、明治四(1871)年7月司法中判事、11月司法少輔となり、明治五(1872)年5月左院中議官に転じ、のち判事等を歴任の後、明治十一(1878)年8月元老院議官に任ぜられ、日本海令草按審査委員・高等法院陪席裁判官等を務めた。明治三十三(1900)年7月15日没。享年71歳。
黒田清隆(東京都港区・青山墓地)
薩摩藩士。文久三(1863)年の薩英戦争のとき初めて実戦に参加し、その年の暮れに江戸の江川塾に入門して砲術を学んだ。翌元治元(1864)年の禁門の変にも参加した。西郷隆盛・大久保利通の元で薩長連合には長州との連絡に当たり、以後大政奉還・王政復古政変にも活動した。明治元(1868)年鳥羽伏見の戦いに参加、ついで奥羽征討越後口参謀となり、長岡城攻撃には長州藩の山県有朋と共に苦戦し、ついで庄内藩の処理に当たった。(1869)年2月青森口総督府参謀に任ぜられ、蝦夷地に拠った榎本武揚軍の追討の参謀となって五稜郭攻撃を行い、敵将榎本から「海律全書」を託された。功により永世禄700石を賜った。なお清隆は榎本の助命を頑強に主張し遂にそれを実現した。凱旋後外務権大丞兵部大丞となり、明治三(1870)年開拓次官、明治七(1870)年6月に屯田兵を創設し、陸軍中将兼開拓次官に任じ、屯田憲兵事務総理を仰せ付けられ、8月参議兼開拓長官に昇った。樺太に出張してその事情を見て、樺太を放棄しても北海道経営に重点を置くことを有利として本衙を札幌に設け、ケプロン(開拓顧問)・クラーク(札幌農学校教頭)らの外国人を招き、北海道開拓と教育の基礎作りを行った。江華島事件の処理のため特命全権弁理大臣を命じられ、明治九(1876)年日朝修好条規を締結して日朝問題を解決した。西南戦争には征討参謀となり、八代口から進んで薩軍の背後を突き、熊本城と連絡して政府軍勝利の基をつくる戦功を立てた。また明治十四(1881)年の開拓使官有物払下事件に世論の攻撃を受けて、政変の原因を作った。その後薩摩出身の長老として明治二十一(1888)年内閣総理大臣となり、明治二十八(1895)年には枢密院議長に任ぜられ、また臨時総理大臣を務めたこともあるが、政治的には長州出身の伊藤博文の政治力に及ばなかった。明治三十三(1900)年8月23日没。享年61歳。
黒田清隆さんと言えば長州の山田顕義さんと共に蝦夷征討軍参謀として函館を攻めた際、榎本武揚さんから「海律全書」を贈られ、その榎本さんの実力を惜しんで五稜郭陥落後は助命のために頭を丸めたなど人材を惜しむような行動をとるかと思ったら、その一方で酔って寿司屋とけんかしたり妻を惨殺したりと酒で豹変する一面も残しています。酒は飲んでも飲まれるな…ってことでしょうかね。
明治三十三年