勝海舟(東京都大田区洗足)
幕臣。貧しい旗本の家に生まれ、7歳のとき12代将軍家慶五男初之丞のお相手として出仕したが、数年でやめ、13歳頃から島田虎之助について剣術を修めた。天保九(1838)年16歳で家督を継いだが、弘化二(1845)年頃から筑前黒田藩の永井青崖について蘭学を学び始めた。島田の勧めによるという。貧窮の裡にありながら蘭学に専心し、その間苦心して大部の辞書ヅーフハルマを書写した話は有名である。嘉永三(1850)年には私塾を開いて蘭学を講じ、次第に頭角を現わした。ペリー来航に際しては安政元(1854)年九月海防意見書を提出し、またよく安政二(1855)年には蕃所翻訳御用を命ぜられ蕃所調所創設の議に参与し、時局とともに彼の生活舞台が開けた。同年幕府の海軍伝習生監督として長崎の海軍伝習に参加し、以来安政六(1859)年までオランダ海郡の士官に従学しつぶさに海軍の学術科を学んだ。翌万延元(1860)年には自ら咸臨丸を指揮して太平洋を横断して米国を訪問したことは有名である。それ以後次第に立身して文久二(1862)年には軍艦奉行並、ついで同奉行等を歴任して幕府の枢機にも参与し政治的にも活動するようになった。すなわち海軍の育成に当るとともに、征長役の始末や幕府瓦解時に際して徳川家の保全、慶喜の除名、江戸城の無血引渡しなどに縦横の活躍を示し、維新政局の収集に尽した役割はきわめて大きい。明治元(1868)年徳川氏に従って駿府に赴いたが翌明治二(1869)年新政府に登用され、以来外務大丞・兵部大丞・海軍大輔・参議兼海軍卿・元老院議官などの高官に任ぜられた。しかし多くは直ちに辞して勤務せず、明治八(1875)年以降野にあって自適するとともに政治・社会を論じ著述に努め、また旧幕の故老を招いて資料の編纂に努力し「吹塵録」「海軍歴史」「陸軍歴史」「開国起源」等を著わした。明治二十一(1888)年には枢密顧問官に任ぜられた。明治三十二(1899)年1月19日死去。享年77歳。
この洗足池のほとりには元々勝さんの別邸・洗足軒が建っていたそうです。晩年の9年間をここで過ごし、亡くなったときにこの洗足軒の裏の丘に御墓を建てさせたってことです。銘は徳川慶喜公の手になるものらしいですね。民子夫人は勝さんと一緒の御墓は真っ平御免だということで青山霊園に葬られたのですが、結局移葬してしまいました。
しかしこの場所に来るためにどれだけ苦労したことやら…ホントは2005年7月20日に来るはずだったんですが、その前日まで会津で3日間探査活動してただでさえ疲れてるのに、3時間程度の睡眠しか取れない状況のまま東京に来たため疲労困憊で敢え無くギブアップ…。次いで23日に再びチャレンジ、洗足まで辿り着いたのに関東で発生した地震のおかげで交通機関が麻痺…とても調査できる状況じゃなくなってしまい、またギブアップ…結局24日の最終日に無理やり押しかけました。勝さんは私のこと嫌いなんでしょうかね?

もへい様寄贈
師岡正胤(東京都台東区・多宝院)
国学者。江戸の人。節斎ともいう。京都に行き、大国正隆に学び、ついで嘉永三(1850)年に3月江戸で平田銕胤門に入る。その後尊攘運動に挺身、皇室の衰頽を慷慨、文久三(1863)年2月22日夜等持院の足利三代木像梟首事件をひきおこし、京都守護職に逮捕され上田藩預けとなる。6年後維新で大赦。その後徴士となって刑法官出仕、監察司知事・弾正台大巡察・宣教権中博士・松尾神社大宮司兼権少教正・神道事務局教授・宮内省文学御用掛歴任。晩年神道につくす。明治三十二(1899)年1月23日没。享年71歳。
大木喬任(東京都港区・青山墓地)
佐賀藩士。藩校弘道館に学び、嘉永六(1853)年義祭同盟に参加し佐賀藩勤王派として活躍した。明治元(1868)年閏4月徴士として政府に招かれ、参与・外国事務局判事となり、さらに京都府判事・軍務官判事などえお歴任した。これより先、江藤新兵らと計り、江戸遷都を佐賀藩論として岩倉具視に建議した。同年9月議事体裁取調御用を仰せ付けられ、12月東京府知事を兼務、明治二年(1869)7月東京府大参事、11月東京府権知事を経て、明治三(1870)年7月に民部大輔となり、翌明治四(1871)年7月制度取調専務、のち民部卿。民部省廃止後は初代文部卿となり、教部卿を兼任して明治六(1873)年4月参議となる。同年10月司法卿を兼務、萩の乱・神風連の乱後、特命をうけて現地に飛び処刑のことを担当した。明治十四(1881)年から十六(1883)年まで、再び司法卿、その後引続き文部卿に再任された。明治十八(1885)年元老院議長となり、明治二十三(1890)年山県内閣の司法大臣、明治二十四(1891)年松方内閣の文部大臣などを勤めた。のち再び枢密院議長となったが、寡言・公明正大・慎重堅実な態度であった。明治三十二(1899)年9月26日死去。享年68歳。
佐賀七賢人の一人ですが、それ以外よく知らないというのが実情です…。しかし江藤さん(初代司法卿)といい佐賀は法律関係に抜擢されやすいんですかね?…とりあえず御墓は立派でした。
明治三十二年