もへい様寄贈
柳原前光(東京都目黒区・祐天寺)
堂上公家。慶応三(1867)年12月国事助筆御用掛・参与助役となって初めて国事に参与し、翌慶応四(1868)年正月東海道鎮撫副総督、2月同先鋒副総督兼鎮撫使に任じ、東海道諸藩を鎮撫して江戸に至り、4月4日江戸城に入城して勅旨を伝宣し、5月東征大総督府参謀に転じ、甲州・総武地方の騒乱の鎮定に当った。明治二(1869)年正月鹿児島に使して島津久光に召命を伝える事を命ぜられ、2月東幸供奉を仰せ付けられ、6月戊辰の戦功により賞典禄三〇〇石を永世下賜された。同年10月外務省に入り、爾後外務大丞・少弁務使・代理公使等を経て、明治七(1874)年2月駐清公使に任ぜられた。この間、専ら清国との交渉の衝に当り、明治三(1870)年6月に条約締結の予備交渉のため渡清したのを初めとして、明治四(1871)年4月には全権大臣伊達宗城と共に差遣せられて修好条約を締結し、明治五(1872)年2月には同条約の修正提議のため、明治六(1873)年2月には全権大使副島種臣に随い、同条約の批准と台湾蕃地の主権問題に関する折衝のため派遣せられ、さrに明治七(1874)年には駐清公使として全権大臣大久保利通を助けて台湾事件の和平交渉に当り、北京協約の成立に尽した。明治八(1875)年7月元老院議官に任ぜられ、爾後同院の幹事・正副議長、駐露公使・賞勲局総裁・枢密顧問官・宮中顧問官等を歴任し、また明治二十一(1888)年勲一等に、明治二十六(1893)年正二位に叙せられた。その間、西南戦争に際して勅使として鹿児島に差遣せられ、また元老院において国憲その他の諸法典の調査・審議に当ったほか、皇室典範を初め皇室諸制度の制定・調査に関与するなどの功績多く、公家出身官僚の俊秀と称せられた。明治二十七(1894)年9月2日没。享年45歳。

もへい様寄贈
榊原鍵吉(東京都新宿区・西応寺)
幕臣・剣術家。幼少から剣術を好み、男谷信友の門に入って直心陰流を極めた。安政三(1856)年幕府が講武所開設するや師範役となる。維新後静岡に移住したが、明治三(1870)年に帰京し、下谷車坂に道場を開いた。維新後の風潮として武道の衰退を憂い、旧友らを集めて明治六(1873)年4月に撃剣会を浅草左衛門河岸に興行し、これが成功したので類似の興行が東京に流行し、同年7月には禁止令が出たほどである。この後にも撃剣会を再々行うほか、武具・骨董品の展示会も催した。明治十一(1878)年8月上の公園での撃剣、明治二十(1887)年11月伏見宮邸での兜験がそれぞれ明治天皇の天覧を賜わって入門者が相つぎ、武道全般の再興への途を開いた。来日外国人の入門する者も多く、ベルツ博士もその一人である。明治二十七(1894)年9月11日没。享年65歳。

もへい様寄贈
石山基正(東京都杉並区・西方寺)
公家。安政三(1856)年12月元服、昇殿を許され、安政四(1857)年5月右兵衛権佐に任ぜられた。元治元(1864)年6月一条家門流の公家38名が連署して横浜鎖港を幕府に督促することを奏請した際その一員に加わり、また同年禁門の変に際しては父基文らと共に長州藩のために斡旋し、その藩士らの処分に関して朝旨を候したが、ために朝譴を蒙り参朝停止、他人面会・他行の禁止の処分を受けた。慶応三(1867)年正月これを許され、同年12月王政復古の後三職書記御用掛に任じ、慶応四(1868)年2月参与・会計事務局権判事となり、明治二(1869)年6月弁官事候所出仕、明治三(1870)年7月宮内省出仕を仰せ付けられ、明治五(1872)年2月式部寮八等出仕となり、のち雅楽部副長兼掌典を勤めた。明治二十七(1894)年12月28日没。享年52歳。
明治二十七年