豊岡健資(京都市左京区・真如堂)
公家。嘉永二(1849)年11月叙爵、幼時児として宮中に出仕、勘解由次官・右兵衛佐を経て、万延(1860)元年正月中務権大輔に任ぜられる。文久元(1861)年10月議奏加勢に補し、和宮に随行東下した岩倉具視の大津の宿舎に勅使として赴き、鷹司政通らの復飾出仕その他を幕府に命ずべきことを伝達し、文久三(1863)年2月国事参政に挙げられたが、八月十八日の政変により謹慎を命ぜられた。ついで元治元(1864)年7月の禁門の変の勃発に当たり、洛外屯集の長州藩士討伐の不可を建言して同藩のために斡旋するところがあった。維新後明治二(1869)年8月大学少監、明治三(1870)年11月次侍従に任ぜられたが、明治四(1871)年辞して福沢諭吉の塾に学び、次いで明治六(1873)年教部大講義を奉職した。明治二十五(1892)年3月19日没。享年48歳。

もへい様寄贈
小路敬直(東京都港区・青山墓地)
公家。嘉永元(1848)年児(ちご)として出仕、嘉永六(1853)年元服と同時に近習となり、かつ御内儀に日々祗候を命ぜられた。安政元(1854)年左馬権頭に、安政五(1858)年12月中務大輔に任ぜられ、文久二(1862)年正月従四位上に叙せられた。文久元(1861)年和宮降嫁の問題の起きた時、降嫁に賛成して久我建通・千種有文・岩倉具視らと共に朝廷・幕府の間に周旋し、また宮の東下にも扈従したが、その後尊攘派の激徒から幕府に通謀する君側の奸と目され、いわゆる四奸両嬪の一人として執拗な排斥と威嚇を受け、このため文久二(1862)年8月蟄居を命ぜられ、辞官・落飾して敲雲と号し、翌月さらに洛中居住を禁ぜられて洛北一乗寺村に有居した。慶応三(1867)年正月孝明天皇の大喪により洛中居住を許され、12月赦免されて近臣として出仕し、明治二(1869)年3月右京太夫に、8月侍従に任ぜられた。明治三(1870)年正月権大宣教師師を兼任し、ついで兼官の職務をもって一時長崎に出張したが、明治四(1871)年8月兼官を免ぜられ、爾後終身侍従の職を奉じた。明治二十五(1892)年10月病気危篤に際し、正三位勲四等に叙せられる。10月28日没。享年51歳。

もへい様寄贈
 
山田顕義(東京都文京区・護国寺)
長州藩士。安政五(1858)年萩の松下村塾に入って吉田松陰に師事し、文久二(1862)年攘夷の血盟に加わり、京摂の間に奔走。翌年帰国して狙撃隊を編成し、自ら隊長となった。元治元(1864)年上京して7月の禁門の変に奮戦したが、利あらず帰国し、8月下関で英米仏蘭四国連合艦隊と戦った。その後、藩論は恭順派に傾いたが、革新派諸隊中の御楯隊司令として、慶応元(1865)年正月美禰郡内で恭順派の萩軍を破って藩論を回復した。慶応二(1866)年6月幕朝戦に高杉晋作と共に幕艦を撃破し、また諸所で戦功を挙げた。ついで整武隊総督となり、慶応四(1868)年の戊辰戦争には征討総督仁和寺宮副参謀、7月海軍参謀、11月青森口陸軍参謀として東北諸藩及び箱館五稜郭を降した。明治二(1869)年兵部大丞に任ぜられ、また永世禄六百石を下賜され、明治三(1870)年大阪に兵学校をを設けて教授に当り、明治四(1871)年陸軍少将兼兵部大丞となり、10月特命全権大使岩倉具視に従い、理事官として欧米各国を視察、明治六(1873)年6月帰朝した。ついで東京鎮台司令長官・清国公使・司法大輔を勤め、明治十(1877)年西南戦争に政府軍の別軍を率いて八代から上陸して鎮定に功あり、明治十一(1878)年陸軍中将に進んだ。明治十二(1879)年参議兼工部卿、明治十六(1883)年司法卿、明治十八(1885)年司法大臣となり、明治二十四(1891)年6月病気のため辞職したが、なお枢密顧問官・議定官の重責にあった。明治二十五(1892)年療養のため帰国し、ついで帰京の途中、11月14日生野銀山にて急死した。享年49歳。
 大村益次郎さんも一目置く軍略家として戊辰戦争・西南戦争などを潜り抜けているのですが、生野銀山では坑道に転落というあまりにあっけない死に方だったためか、暗殺ではないかという疑念も付きまとったようです。近年遺骨を調べたところ、確かに頭蓋骨にそのときの傷と思しき痕跡があったようですが、それが直ちに事故と結びつくかどうか…。
伊達宗城(東京都台東区・谷中墓地)
宇和島藩主。父直勝が宇和島藩主宗紀の従弟に当り、伊達家との血縁が近い山口家の出であるという理由から、文政十二(1829)年宗紀の養子に迎えられた。弘化元(1844)年宗紀の藩政改革のあとをうけて襲封すると、藩政の重点を富国強兵策に置き、殖産興業策をとって藩内物産をさかんにし、蝋の専売をしく一方、高野長英や大村益次郎を招いて西洋兵学を研究し、藩兵の洋式訓練を実施するなどの政策を採って、藩権力を強化することに成功した。これをバックに幕政に大きな発言力をもった彼は、安政五(1858)年の将軍継嗣問題に当っては、松平慶永・島津斉彬・山内豊信の諸侯と共に、慶喜を擁立して幕政改革を志す一橋派の有力メンバーとなって活躍。失敗して安政の大獄を機に、封を嗣子宗徳に譲って隠居せねばならなかったが、隠居後も中央政界においてなお有力な存在であった。文久二(1862)年島津久光を中心とする公武合体運動の際、上京して活躍したのをはじめ、慶応二(1866)年英公使パークスおよびサトウらの宇和島訪問をうけ、天皇を中心とする雄藩連合政権樹立の彼の構想を明らかにした。同年末、王政復古後議定に任ぜられ、明治元(1868)年外国事務総督を兼ね、ついで外国知官事となり、参議に任ぜられ、明治二(1869)年民部卿兼大蔵卿となり、英国に対し鉄道借款について交渉し、明治四(1871)年欽差大臣として清国に派遣され、条約締結に努めるなど、維新当初の多事多難の外交の局に当って、明治新政に貢献することが大きかった。明治二十五(1892)年12月20日没。享年75歳。
四賢候の一人として英邁を謳われた宗城候ですが、維新後は外交畑を歩むという何か先見性のあるという点で妥当なんでしょうけど不思議な感じがあります。さしずめ殿様外交官っていうところでしょうかね。
山本覚馬(京都市東山区・若王子同志社墓地)
会津藩士。9歳で藩校日新館に入り、24歳のころ弓馬槍刀の薀奥を究めた。嘉永六(1853)年江戸に出て蘭学を大木衷城に、砲術を佐久間象山に学び、みずから着発銃を発明した。のち日新館教授・軍事取調役兼大砲頭取を歴任した。元治元(1864)年京都守護職に任ぜられた藩主松平容保に随行して上洛、禁門の変に殊功を立て、また洋学所を設けて藩士の教育に力を尽した。明治元(1868)年正月鳥羽伏見の戦い後捕えられて入獄したが、「管見録」一筆を薩摩藩主に提出してその識見を認められ釈放されて知遇を受けた。明治三(1870)年京都府顧問となり府政に尽瘁し、諸藩の事業を創設して面目を一新し、明治十二(1879)年初代府会議長、さらに商工会議所会頭となり、新島襄と共に同志社の創立にも尽力した。彼の門下から京都経済界の人材が群出した。明治二十五(1892)年12月28日死去。享年65歳。
明治になってからの活躍は会津藩時代と比べて目立たないかもしれませんが、新島襄に相談を受けて自らの土地を提供し、学校を創立して「同志社」と名付けるなど、むしろそっちの活躍が現在に直結した壮挙といえるかもしれません。
 
明治二十五年