もへい様寄贈
松平慶永(東京都品川区・海晏寺)
福井藩主。天保九(1838)年9月11歳のとき、将軍家慶の命によって越前十五代藩主斉善の養嗣となり、まもなく三十二万石の藩主となる。品性は誠実・謹直・重厚で、年とともに時勢を見るに明敏。中根雪江・鈴木主税・村田氏寿・橋本左内らの賢才を登用し、安政五(1858)年には熊本の横井小楠を招いて顧問とした。藩校明道館を創設し、洋書習学所を付設、種痘館の設立、西洋砲術・銃陣調練の開始、大砲小銃の大量製造など時代即応の藩政改革を行った。ペリー来航後は、海防の充実と幕政の改革を建言し、安政四(1857)年10月には藩論を進取的開国論にまとめ、文化の交流と物資の交易を緊要とし、近代国家形成を志向した。将軍継嗣問題では、一橋慶喜擁立に精魂を傾け、腹心の橋本左内を京都で暗躍させ、併せて公卿間に開国論を展開せしめた。時の大老井伊直弼思想・政策を異にし、安政条約無断調印を糾弾するために不時登城したので、隠居謹慎の処分を受け、安政大獄に先立ち31歳にして藩主の地位を失った。これより江戸霊岸島邸での五ヵ年間の幽閉中に人生の諦観をえた。桜田門外の変後、公武合体論が盛んになり、謹慎は解除され、やがて文久二(1862)年7月、勅旨によって政事総裁職に就任し、将軍後見職の慶喜と協力し、内政外交の危機に直面し朝幕間の調整に苦慮した。すでに幕藩体制の崩壊を予見したが、大政奉還の方法については慎重論者であった。総裁職の在任僅かに9ヶ月。その後も幕末四賢候の一人として、維新の大業に関係せざるはなかった。大政奉還にのぞみ、将軍慶喜に絶対服従を勧め、徳川一族の救解にも精根を尽した。明治三(1870)年一切の公職を辞し、その後20年間「逸事史補」等多くの著述に専念し、文勲の著しいものがあった。明治二十三(1890)年6月2日没。享年63歳。
薩摩の島津久光公・宇和島の伊達宗城候・土佐の山内容堂候と一気にお招きしたとき、弱ったのが福井の松平春嶽候でした。何しろまだ撮ってないんですから…。四賢候揃い踏みってやりたかったんですけどさすがに無理なのでいつか撮ったときまで先延ばしと思っていた矢先、もへい様からありがたくも寄贈していただきました♪もう、ホントにお書きになられてました文の一語一語が神々しく感じられ、感謝の極みにむせび泣きながら、ありがたく頂戴いたしました。この場を借りて厚く御礼申し上げます。
もへい様寄贈
黒川良安(東京都港区・青山墓地)
加賀藩医。家は代々豪農であったが、父は医師となり、文政十一(1828)年長崎に留学、シーボルトについて医術を学んだ。良安は同地で蘭学を学び、父母の帰国後も長崎に留まって吉雄権之助に蘭学を、シーボルトに医学を学び、天保七(1836)年帰国途中緒方洪庵を知り指導を受けた。加賀藩老青山将監に仕え、河野久太郎ら正用兵術者とも交わった。天保十二(1841)年出府し、坪井信道の日習館で頭脳の解剖を行い、弘化元(1844)年米沢藩の堀内素堂、萩藩の青木周弼とリシェランの生理学書を翻訳出版した。弘化三(1846)年将監の推挙により加賀藩主前田斉泰の侍医となり金沢に定住し、嘉永元(1848)年藩校壮猶館で蘭学教授、嘉永三(1850)年種痘に成功した。安政元(1854)年江戸在勤中、蕃所調所教授手伝を命ぜられた。慶応元(1865)年種痘所設立に努力し頭取となり、明治三(1870)年金沢医学館建設のために長崎視察、同館教授に就任、西洋医学の普及に貢献した。明治二十三(1890)年9月28日没。享年74歳。
明治二十三年