森有礼(東京都港区・青山墓地)
薩摩藩士。12歳の時、藩校造士館に入り、ついで上野景範に英学を学ぶ。元治元(1864)年新設の開成所に入り、翌慶応元(1865)年藩命によってイギリスに留学、翌年ロシアに赴く。慶応三(1867)年8月アメリカに渡りハリス教団に入る。翌年帰朝して直ちに新政府の徴士・外国官権判事・公議所議長心得などとなる。廃刀論で一度免官となったが、明治三(1870)年小弁務使となってアメリカに駐在し、明治六(1873)年帰朝、外務大丞・同少輔・清国公使・外務大輔などになった。また明六社を結成し、東京学士会院会員となり、啓蒙運動に活躍、結婚改良のため契約結婚を唱え、自らこれを実行した。明治十二(1879)年イギリス公使として駐英、明治十七(1884)年帰朝、参議院議官・文部省御用掛兼勤となった。ついで明治十八(1885)年12月伊藤博文内閣の初代文部大臣となり、翌年学校制度全般の改正を行い、帝国大学令・師範学校令・中学校令・小学校令などを公布した。帝国大学令の第1条には、とくに「国家ニ枢要ナル」の条項を加えた。これはのちの教育勅語と共に日本教育の国家主義化を規定したもので、明治初年の自由主義的教育制度は影を潜めた。特に師範学校においては全校寄宿舎制をとって全生徒を収容し、兵式体操を採用した。また私財を投じて商法講習所(のちの一橋大)を設立した。彼は非常に開明的な性格を持っていたが、同時にまた国家主義的であった。その一面が誤解されて明治二十二(1889)年2月21日、大日本帝国憲法発布式典の当日、国粋主義者西野文太郎によって刺され、翌日没した。享年43歳。
もへい様寄贈
板倉勝静(東京都文京区・吉祥寺)
備中松山藩主。天保十三(1842)年備中松山藩主板倉勝職の養子となり、弘化二(1845)年12月従五位下左近将監に叙任、嘉永二(1849)年閏4月襲封、周防守と称した。姿勢温良にして恭謙、力を治民に尽くし、藩祖勝重ならびに外祖父松平定信の遺風を継ぎ、文武共に興し政績があらわれた。硯儒山田方谷を民間より抜擢して藩校有終館を起し、川田剛・三島中洲らを会い前後して要路ににすえた。安政四(1857)年8月寺社奉行となり、安政の大獄に五手掛に任命されたが、その酷烈なる処刑方針に反対し、安政六(1859)年2月寺社奉行を免職された。文久元(1861)年2月前職に復し、、奏者番を兼ね、文久二(1862)年3月老中に進み、外交事務を主管し、生麦事件・攘夷奉勅問題などを処理した。元治元(1864)年6月退職したが、慶応元(1865)年10月再任して伊賀守と称し、慶応二(1866)年長州再征に従い、同年7月将軍家茂卒するや、一橋慶喜の宗家相続と将軍就職に尽力し、ついで慶喜の幕政改革を補佐し、慶応三(1867)年10月大政奉還のことあるや、麾下士を慰諭し、12月慶喜に従って二条城より大坂城に退去した。慶応四(1868)年正月鳥羽伏見の戦い後、慶喜に従って東帰し、朝廷より官位剥奪、京都藩邸を没収された。同月老中を辞し、家督を世子勝全に譲り、勝全と共に日光南照院に入って恭順の意を表していたが、4月政府軍の来攻に会って降伏、宇都宮英厳寺に幽閉されたが、大鳥圭介に救われて会津に逃れ、10月仙台にて榎本武揚の率いる脱走艦隊に投じ箱館に拠った。板倉氏は父祖累代徳川氏と親縁があり、勝静の東走も事情やむなきものがあったといえよう。なお、居城松山においては士民みな勝静の真意を体し、山田方谷・三島中洲らの処理よろしきを得て恭順を表してあえて臣節を失わなかった。明治二(1869)年4月五稜郭の開城に先立って勝静は箱館を脱走、東京に出て罪を待ったが8月朝議により勝静・勝全親子父子は安中藩に禁固され、封三万石を削られ、勝静に後嗣を奏請すべき命が下った。明治五(1872)年正月許されて帰国し、これより閑居して世事を絶ち、みずから松叟と号した。明治九(1876)年東照宮祠官となった。明治二十二(1889)年4月6日病没。享年67歳。
杉田玄端(東京都港区・青山霊園)
小浜藩藩医。尾州藩の医師幡頭信aの子として江戸に生まれる。天保五(1834)年17歳で初めて酒井若州侯の藩医で幕府の拝謁医である杉田立卿の門に入り、蘭学医術を修めた。天保九(1838)年杉田家の懇請により猶子となり、弘化三(1846)年宗家杉田玄白の家を継いだ。藩医として用いられたが、以後幕府の認めるところとなり、安政五(1858)年蕃書調所教授手伝、文久二(1862)年開成所教授に、慶応元(1865)年外国奉行支配翻訳御用頭取などに登用され、明治維新後駿河国に移住した。明治十三(1880)年学士会員に列した。明治二十二(1889)年7月19日死去。享年72歳。
江戸中期の蘭学者として世に有名で「解体新書」や「蘭学事始」を著した杉田玄白の宗家を継いだということだけしかピンとこないという情けない私です…。青山霊園の中では比較的見つかりやすい位置にあったのですんなりお迎えすることができました。もっともこのあとの捜査の方がきつかった気がします。
沢為量(東京都豊島区・雑司ヶ谷霊園)
堂上公家。嘉永元(1848)年10月従三位、安政二(1855)年正月正三位に昇叙された。安政五(1858)年3月外交処置に関する勅裁案の修正を請うて廷臣88名が列参した際、嗣子宣嘉と共にこれに加わり、また文久三(1863)年3月竹屋光有ら67人の廷臣と連署して憂国の情を陳じ、外患に関する廟議を示されん事を請うた。王政復古以後、戊辰戦争勃発するや、慶応四(1868)年2月奥羽鎮撫総督に挙げられ、ついで九条道孝の総督就任と共に副総督となって出陣、奥羽各地を転戦して10月凱旋し、明治二(1869)年6月軍功により賞典禄二〇〇石を永世下賜された。同年8月宮内権大丞に任ぜられたが、明治三(1870)年12月退官して家督をを宣嘉に譲った。しかし明治六(1873)年9月宣嘉の薨去により再び家を継ぎ、明治十六(1883)年9月特旨をもって従二位に叙せられ、明治二十二(1889)年8月薨去に先立ち特に正二位に昇叙された。8月9日薨去。享年78歳。
 
品川省吾(山口県下関市・功山寺)
長府藩士。慶応元(1865)年2月報国隊軍監。維新後、歩兵第十旅団長、陸軍少将。明治二十二(1889)年9月6日没。享年45歳。
明治二十二年