もへい様寄贈
中山忠能(東京都文京区・豊島岡墓地)
堂上公家。文政四(1821)年左近衛権少将に任ぜられ、天保十一(1840)年参議、弘化元(1844)年権中納言、弘化四(1847)年権大納言に進み、翌嘉永元(1848)年に正二位に叙された。嘉永六(1853)年米国使節ペリーの来航にあたり、内大臣三条実万の諮問に答えて上下協力して夷賊の要求をしりぞけるべしと建言した。安政五(1858)年議奏加勢を命ぜられ、さらに議奏となったが、時に条約勅許問題によって朝議が紛糾するに及び、権中納言正親町三条実愛ら6人と共に連署して幕府並びに関白九条尚忠の専断を非難し、条約勅許は猶予すべしと建言し、さらに廷臣八八卿の首に立って列参陳情し、朝議の変改を迫った。しかし安政の大獄を経て公武合体の議が朝幕の大勢を占め、幕府が和宮の降嫁を奏請するや、岩倉具視らと共にその議にあずかり、和宮御縁組御用掛を拝命し、文久元(1861)年和宮に扈従して東下した。そのため尊攘派の激しい弾劾を受け、文久二(1862)年8月差控に処せられたが、同年12月国事御用掛の新設にあたり、またこれに加えられ、朝議にあずかることとなった。元治元(1864)年7月長州藩士が大挙上京するや、極力長州藩のために尽力したので、禁門の変後出仕並びに他人面会を禁ぜられた。慶応二(1866)年12月外孫明治天皇が践祚するに及び、程なく処分を解かれ、岩倉具視・正親町三条実愛らと王政復古の策をめぐらし、ついに慶応三(1867)年10月討幕の密勅と毛利敬親父子の謝免の御沙汰を奏請し、薩長2藩にこれを下した。同年12月王政復古に際して議定に任ぜられ、翌慶応四(1868)年2月輔弼となり、明治二(1869)年5月神祇官知事、7月神祇伯、10月宣教長官等を歴任し、その間従一位に昇り、准大臣となり、賞典禄一五〇〇石を永世下賜された。明治二十一(1888)年6月12日没。享年80歳。
山岡鉄舟(東京都台東区・全生庵)
幕臣・大目付。10歳のとき父が飛騨郡代となり飛騨に移ったがその地で父母を失い、嘉永五(1852)年江戸に帰り、安政二(1855)年槍の師である山岡家を継いだ。安政三(1856)年講武所に入り千葉周作の推薦により世話役を勤めた。文久二(1862)年幕府が浪士募集(新徴組)を行った際に浪士取締役を命ぜられた。慶応四(1868)年3月精鋭隊頭を拝命、翌4月大目付を兼ねたが、これより先3月討幕軍参謀西郷隆盛を駿府に訪い、徳川家救解と江戸開城への道を開いた。ついで翌月彰義隊の解散慰撫に尽力したが、実を結ばなかった。維新後は、明治二(1869)年9月静岡藩権大参事として新政府に出仕、明治四(1871)年11月茨城県参事、同12月伊万里県令を経て、明治五(1872)年6月侍従となり明治天皇の側近に仕えた。明治八(1875)年4月宮内少丞から宮内大丞に進み、明治十(1877)年8月庶務内定課長に転じ、明治十四(1881)年5月宮内少輔となり、明治十八(1885)年子爵を授けられた。幼少より剣・書に親しみ、剣は千葉周作の門に入って真影流を極め、無刀流を案出して春風館を開き、書は一楽斎と号して有名であった。また禅寺禅生庵を創建している。明治二十一(1888)年7月19日没。享年53歳。
明治二十一年