もへい様寄贈
黒田長溥(東京都港区・青山墓地/和歌山県高野町・金剛峯寺)
福岡藩主。文政五(1822)年12月福岡藩主黒田斉清の養嗣子となり、名を長溥と改め、官兵衛と称し、文政八(1825)年元服、将軍の偏諱を受けて斉溥と改め、美濃守と称した。天保五(1834)年11月筑前五十二万石を襲封、藩政改革を行い、殖産興業を奨励した。嘉永六(1853)年アメリカの使節ペリーの来航に際し、攘夷を排斥して開国を主張した。つとに父の島津重豪の風を受けて蘭学を好み、藩士に西洋砲術・航海術などを学ばせ、弘化三(1846)年博多に精錬所を設けて硝子製造を始め、、文久二(1862)年には福岡に医学校養成館を設立し、蘭方医学を学ばせた。同年朝命により国事周旋を命ぜられ上京し、勅書を携えて江戸に下り、公武間の周旋を行った。文久三(1863)年には孝明天皇の石清水八幡行幸に際して警備を命ぜられた。同年八月十八日の政変後は世子長知を上京させて公武合体に努め、元治元(1864)年第一次長州征伐に際しては幕府と長州藩との斡旋の労をとった。慶応元(1865)年春三条実美ら五卿が長州から筑前太宰府へ移るや、厚くこれを遇した。こののち藩内の勤王藩士の動きが活発となったが、同年10月幕府大目付塚原昌義の来福を機に、加藤司書・月形洗蔵・鷹取養巴・早川養敬ら勤王派藩士の大弾圧を行った(乙丑の獄)。明治二(1869)年2月世子長知に家督を譲って致仕し、名を長溥に復した。明治十(1877)年の西南戦争には勅使柳原前光に従って鹿児島に至り、島津久光父子と会って周旋し、明治十四(1881)年麝香間祗候を仰せ付けられた。孫長成は明治十七(1884)年侯爵を授けられた。明治二十(1887)年3月7日没。享年77歳。
もへい様寄贈
岡部長寛(千葉県野田市・海福寺)
岸和田藩主。文化六(1809)年3月13日、岸和田城にて生まれる。幼名は第二郎。第10代藩主・岡部長和の弟で、第11代藩主・岡部長発の兄に当たる。長兄がいたため、本家の家督を継ぐことはできず、天保二(1831)年12月27日に分家の岡部長貞の養嗣子となる。しかし安政二(1855)年に本家の家督を継いでいた弟の長発が若死し、長発の子である岡部長職も幼少だったため、本家の家督を継ぐこととなった。幕末の動乱の中で、藩政においては軍政改革や藩校・講習館の増築を行なって修武館と改名するなどしている。佐幕派として行動していたが、戊辰戦争が起こると新政府側に与した。そして明治元(1868)年12月28日、岡部長職に家督を譲って隠居した。明治二十(1887)年2月3日、79歳で死去した。享年79歳。
島津久光(鹿児島県鹿児島市・旧福昌寺)
薩摩藩重富領主・左大臣。斉彬の異母弟。はじめ一門島津忠公の養嗣となり、大隅国重富1万4千石を領した。嘉永四(1851)年斉彬が藩主となるや藩治外交について久光の意見を聴き、安政五(1858)年7月斉彬没するに臨み、遺命によって久光の長子茂久(のち忠義)を後嗣とし、久光を後見たらしめた。文久元(1861)年久光は重富家を出て宗家に復帰し、「国父」の尊称を受け藩政の実権を握った。久光は大久保利通ら藩内有志の脱藩事件を契機として、かれらを「誠忠士」と称し、挙藩一致国難に当らせるのに成功した。文久二(1862)年4月久光は1000余の藩兵を率いて入京、国事周旋に当り、激派有馬新七らの伏見寺田屋事変を抑え、挙藩一致の方向を堅持した。ついで勅使大原重徳を擁して東下し、幕政改革を命じて公武合体運動の中心人物となった。江戸よりの帰途生麦村において行列横断の英人を殺傷した生麦事件を起こし、その結果文久三(1863)年7月の薩英戦争となった。文久二(1862)年後半から文久三(1863)年の前半においては長州藩の激派勢力に押されたが、文久三(1863)年八月十八日の政変後再び上京して雄藩による公武合体派連合をはかったが実現しなかった。以後の禁門の変、征長の役、薩長同盟へと進む公武合体を乗り越えた倒幕運動の政局には西郷隆盛・大久保利通らの指導が強化された。王政復古後は政府の開明政策に不満で藩地に留まることが多かったが、征韓論の分裂による明治政府の弱体化に備え、明治六(1873)年勅使派遣により上京し、内閣顧問から明治七(1874)年左大臣に任ぜられた。久光は政府の欧化政策に反対でたびたび建言したが容れられないので明治八(1875)年ついに官を辞して帰国し、以後政治の舞台から全く遠ざかって修史の業に従い、「通俗国史」(86冊)を編纂させ、また「薩摩藩国事鞅掌史料」等を集録させた。明治十(1877)年の西南戦争には中立を守り、休戦を建議したが容れられなかった。のち公爵を授けられ、明治二十(1887)年12月6日没。享年71歳。没するに当り国葬を賜わった。
久光公はどうも斉彬候の英邁さが際立つためか、どうしても保守の印象が強くなります。加えて2度にわたる西郷さんへの遠島などまるで意地悪な舅みたいなイメージがこびりついてます。とはいえ維新後も髷を落とさず、欧化政策をひたすら嫌っていましたから、ある意味純粋な国粋主義者だったんでしょうね。ただ西郷さんとの確執は単にソリが合うかどうかみたいですね。その溝の深さを示す史料の一端を紹介しましょう。明治十一(1878)年11月27日付の新潟新聞の記事です。
「昨年九月二十四日、薩州鹿児島城山の露と消えたる西郷隆盛が墓の建替を企たる士族輩が、右の碑文を旧主の島津君(館長注:当然久光公のことです)へ願ひし所、『不忠之墓』といふ四字の篆額を小篆にて染筆したるを与へられたるに、士族輩は望みを失ひ書直しを願出たるよし。又書直しになりし上は、一同より出金して建替る積りなりとぞ。」
まぁこの記事がホントかどうかを検証する術はありませんが、事実にせよ捏造にせよ歪曲にせよ、このような記事が出回るということはそれ相応の確執が一般にさえ知られていたからだと言えるのではないでしょうか。
明治二十年