小河一敏(東京都豊島区・染井墓地)
岡藩士。角田九華に朱子学を学び、のち陽明学・仏典を渉り、国学を究め、さらに易経・国乗・兵法の三科を専らにし、弓馬・槍剣・詩歌・点茶・挿花にも免許を得た。幼時父を失い、11歳で家督を継ぎ、24歳のとき会計元締役・家老と新政を布いた。天保十一(1840)年俗論党に憎まれ蟄居を命ぜられ、目を宇内の大勢に転じた。皇室の式徴を嘆き毎月6回読書会を開き、尊王の志気を興し、京都中山家と通じた。嘉永六(1853)年米艦の来航を知り、ひそかに出て両肥・両筑を遊説し、真木和泉・平野国臣らと結び尊王攘夷を鼓吹し、安政元(1854)年閉門。許されるや長崎より渡航せんとして失敗、謹慎に処せられたが、天下の志士と通じ、文久二(1862)年広瀬重武と出奔、真木和泉の幽居に赴き大勢を知り帰藩した。文久三(1863)年田近陽一郎ら16人と上京の途上下関に西郷隆盛と国事を談じ、上坂して薩邸に入り、志士と共に島津久光を盟主とし、孝明天皇の大詔渙発を請わんとしたが、有馬新七らは寺田屋に闘死し、真木和泉は捕らえられて失敗した。一敏は免れて京摂にあり、岩倉具視・大原重徳の諸卿が天皇の内旨を奉じて一敏に問われたので一書を献じ叡覧を賜り、久光を経て天皇より感状を賜ったが、帰藩後禁固せられた。ついで許されて同志と共に上京、帰藩してまた禁固された。明治元(1868)年内国事務権判事などから堺県知事に任ぜられたが、在職中の専断の処置を咎められ、明治三(1870)年免官・謹慎に処せられた。のち宮内大丞に任ぜられ、明治四(1871)年嫌疑をもって鳥取に幽閉され、、明治六(1873)年許されて教部省・太政官・宮内省に出仕し、明治十四(1881)年宮内省御用掛に任ぜられた。明治十九(1886)年1月31日没。享年74歳。

もへい様寄贈
伊地知正治(東京都港区・青山墓地)
薩摩藩士。目と脚が不自由であったが、生まれつき豪邁かつ胆略があった。薩藩独特の合伝流の兵学を法亢宇佐衛門に学んで奥義を極め、西郷従道・三島通庸・高崎五六・淵辺高照らはその門人であった。はじめ藩校造士館の教官となり、万延元(1860)年軍賦役に任ぜられた。文久二(1862)年島津久光が上京するに当って軍師としての手腕を認められ軍奉行となった。ついで薩英戦争・禁門の変・鳥羽伏見の戦い等において軍役奉行として藩兵を指揮して戦功をたてた。慶応四(1868)年2月東山道先鋒総督府参謀を命ぜられ、宇都宮・白川口に転戦し、ついで土佐藩参謀板垣退助と協力して会津若松城を落城させ、その功により金三百両と永世禄一〇〇〇石を賜った。明治三(1870)年薩摩藩権大参事となったが、明治四(1871)年上京の命をうけ左院の中議官・大議官兼教部省御用掛、明治五(1872)年左院副議長、明治六(1873)年制度取調御用兼務となり、明治七(1874)年左院議長、ついで参議権議長に任ぜられた。明治八(1875)年一等侍講・修史局副総裁を経て修史館総裁となる。明治十二(1879)年宮内省御用掛、明治十九(1886)年宮中顧問官に任ぜられた。西南戦争後鹿児島に帰り、渡辺千秋知事にすすめ、戦後県民の匡救策として殖産興業を奨励せしめた。明治十九(1886)年5月23日没。享年59歳。
五辻高仲(京都市左京区・金戒光明寺)
公家。文政四(1821)年4月右馬権頭に任じ、文政十(1827)年左兵衛佐となった。安政五(1858)年3月幕府の条約勅許奏請に対する勅裁案に関し、中山忠能はじめ廷臣八八卿列参、上書してその変改を請うた際、それに名を列ねた。また神楽舞人として石清水・賀茂臨時祭にしばしば参向した。慶応三(1867)年12月王政復古の後、書記御用掛となり、翌慶応四(1868)年2月参与・内国事務局判事加勢に任じ、ついで同権弁事などを歴任、同年明治天皇の東京行幸ならびに京都還幸に御道筋御先着を仰せ付けられ、翌明治二(1869)年3月再幸に供奉を命ぜられ、6月には招魂社に勅使として参向し、7月少弁に任じた。ついで明治六(1873)年神楽御人数を免ぜられ、積年神楽道励精且老年迄神楽奉仕の賞として白羽二重二匹を下賜された。明治十九(1886)年2月正二位に叙せられた。明治十九(1886)年6月5日没。享年80歳。

JUNE様寄贈
谷万太郎(大阪市北区兎我野・本伝寺)
新撰組隊士。三十郎の弟、周平の兄。槍術師範。安政三(1856)年頃、兄三十郎の失策による家の断絶に伴い、大坂に出て、医師岩田文硯の食客となったという。その後南堀江に酒屋の納屋を改造して、剣術と槍術の道場を開く。元治元(1864)年の池田屋事件では、近藤勇らとともに屋内に斬り込み、報奨金20両を受けているが、この時まで在隊の記録はない。12月の編成では、伊東甲子太郎の二番組に所属しているものの、慶応元(1865)年1月のぜんざい屋事件は、2人の門弟とともに踏み込むなど一般隊士とは別行動をとっていた事をうかがわせる。7月頃の隊士名簿に名を残すが、慶応三(1867)年6月の幕臣取り立て名簿には記載されていないため、慶応二(1866)年4月の兄三十郎の志望後に離隊したものと思われる。維新後大坂釣鐘町で道場を開くが失敗し、明治十九(1886)年6月30日病没した。享年51歳。
豊岡随資(京都市左京区・真如堂)
公家。文政元(1818)年正月叙爵、累進して天保五(1834)年12月中務少輔となり、弘化四(1847)年12月正三位に叙せられ、安政六(1859)年9月大蔵卿に任ぜられる。安政五(1858)年3月幕府の日米通商条約勅許を奏請した際、外交措置幕府委員の勅答を下すことに反対して、中山忠能以下有志公家八八卿の列参に加わり、ついで文久二(1862)年8月広幡忠礼その他と共に久我建通・岩倉具視らを弾劾してこれを失脚せしめた。翌文久三(1863)年2月正親町実徳その他有志公家と共に庶政一新・攘夷国是決定のことを建議し、また国事参政に加えられて三条実美らと共に攘夷親征・大和行幸を策謀し、これを決定させた。しかし八月十八日の政変によって失敗に帰し、参内・面会・他行を禁じられ、ついで実美ら七卿は長州に下向したが、随資はこれに反対して残留し、差控えの処分を受けた。この後慶応三(1867)年正月赦免されたが、同年12月王政復古の令が発せられた際には公武合体派として参朝を停止された。維新後明治二(1869)年8月大学少監に任ぜられ、明治三(1870)年これを辞す。明治十六(1883)年9月従二位に叙せられる。明治十九(1886)年9月12日没。享年73歳。
明治十九年