秋月登之助(福島県会津若松市・興徳寺)
会津藩士。藩主松平容保に従って上洛していたので、早くから新撰組とは接触があったものと思われる。慶応三(1867)年3月、会津藩が江戸藩邸を引き揚げるにあたって登之助は江戸に残り、藩庁の了解の下に脱藩の形式をとって幕府軍に投じ、歩兵指図役並に任じられて第七連隊付となる。その後、伝習隊に転じ、第一大隊のの隊長となって大鳥圭介の率いる幕府脱走軍と合流して宇都宮などで新政府軍と戦う。このとき土方歳三は登之助のもとで参謀を務めている。会津戦争後の消息は詳らかでない。明治十八(1885)年1月6日没。享年44歳。
会津小鉄(京都市左京区・金戒光明寺)
博奕打。浮浪女巡礼の子。東海道から大坂に行くうち、母は雪駄直しの内妻になり彼も引取られた。文久二(1862)年会津藩主松平容保が京都守護職になったのに従って上京し、藩邸の人足になったが追出され、その後は賭場荒しの博奕打として喧嘩えで賭場を広げた。顔から全身にかけて刀傷があり、右手の小指と薬指は傷で屈み、左手の指は3本失い、食指と拇指だけであった。短躯であるためはじめ会津部屋の小鉄といわれたが、のち上坂仙吉と改めた。妻は7人取替えた。慶応四(1868)年鳥羽伏見の戦いで戦死した会津・桑名両藩士の遺体を子分に命じて密かに拾わせ、これを会津墓地と称する黒谷の裏の墓地に埋めた上、毎日子分を3人ずつやって掃除させ、月に1、2度は自らも出かけて菩提を弔い、死ぬまでこれを欠かさなかった。維新後も京都に住し、明治十八(1885)年3月19日洛外白川で没した。享年41歳。
冷泉為理(京都市左京区・真如堂)
公家。弘化二(1845)年左近衛権少将に任じ、嘉永二(1849)年中将に進み、さらに同年従三位に昇り、安政三(1856)年参議となる。安政五(1858)年日米通商条約の勅許問題が起こり、朝議がわきかえるや、現任の大・中納言、参議の一員として外交処置につき勅問にあずかった。安政六(1859)年権中納言に進み、慶応元(1865)年正二位に叙せられた。慶応四(1868)年の即位の大礼に際して宣命使の大役をおい、新儀によって声高に即位の詔を宣読したが、これは大政復古の真義を天下に周知せしめる趣旨より出でるものであった。その後多病のため、明治八(1875)年家督を二男為紀に譲った。明治十八(1885)年4月25日没。享年62歳。
 
千葉重太郎(東京都豊島区・雑司ヶ谷墓地)
北辰一刀流師範。鳥取藩士。万延元(1860)年鳥取藩江戸屋敷の剣術指南となる。道場に入門した坂本龍馬とは師弟を越えた友誼を結び、文久二(1862)年共に勝海舟邸を訪れて暗殺を謀りかけたこともあったという。慶応四(1868)年の戊辰戦争では鳥取藩士として出陣し、維新後は官吏となった。明治十八(1885)年5月7日没。享年60歳。

もへい様寄贈
柳原光愛(東京都目黒区・祐天寺)
堂上公家。嘉永五(1852)年10月蔵人頭に補せられ、安政四(1857)年5月参議・左大弁に昇り、明治六(1873)年12月右衛門督を兼ね、文久三(1863)年2月権中納言に、慶応元(1865)年12月権大納言となった。この間安政五(1858)年3月外交措置幕府委任の勅答案に反対して関白九条尚忠邸に列参し、また文久二(1862)年7月有志公家と共に上書して久我建通を弾劾するなど硬派公家として行動し、12月には国事御用掛を命ぜられて時務に参与した。文久三(1863)年2月神宮に攘夷御祈願の宣命使を奉仕し、また八月十八日の政変に鷹司輔?邸屯集の長州兵の慰撫に当たったが、政変後は議奏に任ぜられ、中川宮朝彦親王らと結んで公武合体派として時局の収集に努め、元治元(1864)年7月の禁門の兵には長州藩兵の撤退を求めて同藩有志との折衝に努めた。なお文久二(1862)年10月には山陵修補御用掛を命ぜられ、山陵の修築に尽力するところがあった。こののち慶応三(1867)年4月議奏を免ぜられ、12月王政復古に際して一時参朝停止の処分を受けた。維新後皇子女の養育を奉仕し、また維新以前諸儀取調御用を命ぜられる。明治十八(1885)年5月従一位勲二等に叙せられた。明治十八(1885)年6月28日没。享年68歳。
五代友厚(大阪市阿倍野区・天王寺墓地)
薩摩藩士・政商。13歳のときに世界地図を模写して藩主島津斉彬に献じ、また地球儀を作って世界各国の位置を究め、密かに自奮の念を起こした。19歳のとき初めて郡方書役となった。安政四(1857)年選抜されて長崎の幕府の海軍伝習所に入って、オランダ士官から航海・砲術・測量・数学などを学んだ。文久二(1862)年藩命によって幕府貿易使節船千歳丸に便乗して上海に渡航し、ドイツ汽船を購入して長崎に回航し天祐丸と命名、その船長となり、船奉行副役に進んだ。文久三(1863)年の薩英戦争には松木弘安(のち寺島宗則)と共に船奉行添役として天祐丸等の藩船の避難に当っていたが、英艦に捕らえられた。横浜において英艦を脱し、一時武蔵国熊谷在に身を隠した。ついで長崎に出て藩当局に開国貿易・海外留学生派遣の必要な事を説いた。その意見が容れられ、慶応元(1865)年新納久修・松木弘安らと留学生14名を率いて渡英し、その後ヨーロッパ諸国を視察し、また新納と共にベルギー人モンブランと合弁の貿易商社の設立に関し協議して契約を結んだ。慶応二(1866)年帰朝、御納戸奉行格御用人席外国掛を命ぜられ、藩の通商貿易の発展に努めた。明治元(1868)年には参与兼外国事務掛・外国事務局判事に任ぜられて大坂在勤となり、備前兵争闘事件・土佐藩士堺事件・パークス襲撃事件などの外交事件を処理した。また外国事務局・大坂造幣寮の設置、大阪為替会社・通商会社の設立に尽力したが、鹿児島の武断派の攻撃にあい、明治二(1869)年会計官権判事として横浜に転勤となったのを機会に辞職して下野した。その後大阪に在って金銀分析所を開き、各地の鉱山、特に半田銀山などを経営し、明治十一(1878)年には大阪商法会議所を創設し会頭となり、大阪株式取引所・大阪商業講習所(大阪商科大学・現大阪市立大学の前身)を設立、大阪製銅・関西貿易社・阪堺鉄道・神戸桟橋等の諸会社の設立に関与し、関西の財界に活躍し、大阪商工業の近代化に努め大阪の恩人といわれた。また明治八(1875)年の大阪会議においては大久保利通を助けて政治的にも働いた。明治十八(1885)年9月25日没。享年51歳。
商都大阪の基礎を一人で築いたかのようなその経歴ですが、実際その通りのようですね。その割に御墓は天王寺の霊園内のど真ん中でひっそりとたっています。もうすっかり大阪に根付いたような方ですね。でも鹿児島の泉公園には銅像も建ってまして、顕彰しています。
もへい様寄贈
岡本健三郎(東京都台東区・谷中墓地)
土佐藩士・海援隊士。軽格に属し下横目を勤務、坂本龍馬と親しみ慶応三(1867)年10月越前福井に同行して三岡八郎(由利公正)に会見した。維新後大阪府に勤めて土木頭・治河司となり、のち太政官権判事から大蔵大丞に昇進、明治五(1872)年には博覧会用務を持ってオーストリアに出張、明治六(1873)年征韓論で辞職、明治十(1877)年西南戦争では立志社挙兵計画に参画して禁獄2年の刑を受けた。晩年実業界に投じ、日本郵船会社の重役となる。明治十八(1885)年12月26日没。享年44歳。
明治十八年