前田斉泰(石川県金沢市・野田山前田家墓所)
加賀藩主。文政五(1822)年11月襲封。彼の施政基本は門閥八家の年寄による米穀中心の保守的農政にあり、幕末には公武合体論を主張。それに反し世子前田慶寧は側近の勤王党の補導により親長的・革新的で、文久三(1863)年の政変後上洛して長幕間の周旋に努めたが、翌年元治の変が起ると斉泰は幕府への遠慮から世子に謹慎を命じ勤王党をいっせいに処刑した。慶応二(1866)年致仕して慶寧が襲封し金谷御殿に隠居。以後、大勢に順応しながら長幕間の裏面工作に専念、慶応四(1868)年倒幕が決定的になると積極的に政府軍を支援して北越戦争に参加。その功によって慶寧は明治二(1869)年知藩事に任命され、ひたすら100万石領土の安泰を願った斉泰の望みも達せられた。明治四(1871)年廃藩によって東京に移住し、明治十七(1884)年1月16日に74歳で波乱の生涯を終えた。
もへい様寄贈
間部詮勝(東京都多摩市・多磨霊園)
鯖江藩主・老中。兄詮允の養子になって文化十一(1814)年家督を継ぎ、従五位下下総守に叙任された。天保七(1836)年7月大坂城代に抜擢され、天保九(1838)年4月京都所司代となり、天保十一(1840)年老中となったが同役の水野忠邦と合わず天保十四(1843)年辞任。内外多事の際安政五(1858)年井伊直弼大老となるや再び老中に列せられ、勝手掛兼外国掛を命ぜられた。同年9月上京して日米和親条約の勅許奏請したが得られず、直弼の指示により梅田雲濱・橋本左内らの志士、鷹司政通・近衛忠?・三条実万らの公卿を処罰した。その後直弼と対立して安政六(1859)年12月職を退いた。さらに文久二(1862)年には一万石を削られ隠居・謹慎を命ぜられた。詮勝は仏典に通じ詩文を好み、書画・馬術・剣技をも極めた。明治十七(1884)年11月28日没。享年81歳。
明治十七年