もへい様寄贈
大原重徳(東京都台東区・谷中墓地)
堂上公家。文化二(1879)年4月叙爵し、文化十二(1815)年12月元服して昇殿許され、大和権介に任ぜられ、従五位上に叙された。以後佐間頭・侍従を経て、天保元(1830)年4月右近衛権少将に任じ、天保二(1831)年9月右近衛権中将に進み、従三位に叙せられた。孝明天皇即位後重用され、安政元(1854)年4月勅命により、内裏炎上後の造営を督した。安政五(1858)年3月日米修好通商条約の勅許問題が起るや、中山忠能ら有志諸公八八卿の列参に加わり、外交措置を幕府に委任するとの勅裁案に反対し、その改刪を関白九条尚忠に迫った。文久二(1862)年島津久光が上京して公武合体の立場から朝廷に建策し、幕府に五大老の設置等三事の幕政改革を迫ることに決すると、5月その勅使を命ぜられ、家格前例を破って左衛門督に任じて東下、6月10日江戸城に臨んで勅諭を伝達し、これの奉承を諭告すること数次、ついに革政遵行を奉答させた。閏8月帰京・復命し、その功により特旨をもって直衣を許され、12月国事御用掛に補されたが、文久三(1863)年2月東行中に薩長両藩の軋轢を避ける窮余の一策として勅書を改鼠した罪を譴責されて辞官・落飾を命ぜられた。元治元(1864)年正月赦免、復飾・出仕し、慶応二(1866)年8月同志の公卿二十一人と共に列参して大いに時局に対する意見を建言し、これがため10月結党建言の故をもって閉門を仰せ付けられた。慶応三(1867)年3月許され、9月参議に任じ、従二位に叙された。同年12月王政復古に際して参与を仰せ付けられ、翌明治元(1868)年2月権中納言に昇任し、4月笠松裁判所総督、閏4月刑法官知事に任じ、5月議定に任じ、いくばくもなく上局議長を仰せ付けられ、9月集議院長官に任じ、同月維新の功業により賞典禄一〇〇〇石を永世下賜された。明治三(1870)年閏10月退官、麝香間祇候を仰せ付けられた。明治十二(1879)年4月1日薨去。享年79歳。
川路利良(東京都港区・青山墓地)
薩摩藩士。鹿児島の近郊吉野村比志島の与力の出身、嘉永三(1850)年一家は鹿児島城下に移った。薩英戦争・禁門の変に勇戦し、西郷隆盛に認められ、ついで江戸に出て洋式練兵を学び、また千葉周作に剣を学んだ。明治元(1868)年の戊辰戦争には比志島隊を率い兵具方一番隊(足軽隊)長として鳥羽・伏見から白河・会津若松まで従軍し、凱旋後その功によって兵具奉行となった。明治四(1871)年親兵と共に上京、東京府大属となり、鹿児島から邏卒一〇〇〇人の募集に当った。明治五年邏卒総長となり、次いで警保助兼大警視に任ぜられ、同年警察制度調査のため渡欧、明治六(1873)年9月帰朝した。復命として警察制度改革の建白書を提出、翌明治七(1874)年東京警視庁が置かれると大警視となり、我が国警察行政の確立に当った。明治十(1877)年鹿児島県出身の警察官を帰郷させて私学校党の離間を図ったのが西南戦争の勃発の原因の一つとなった。とくに陸軍少将に任ぜられ、警視庁巡査隊の別働第四旅団を率い、八代に上陸して背後を突き、熊本城を救い鹿児島に入った。明治十二(1879)年再び警察制度調査のため渡欧したが病気となり、帰国後の10月13日病没した。享年46歳。
川路さんといえば明治九(1876)年に鹿児島に警視庁の密偵を送り込み、西郷さん暗殺を企んだということがものすごくダークなイメージを植えつけています。しかし日本警察の礎を築き、大久保さんと共に近代日本の創生に尽力したという点がもっとクローズアップされればその評価も違ったものになるんじゃないかと思います。
 
千葉定吉(東京都豊島区・雑司ヶ谷墓地)
北辰一刀流師範。鳥取藩士。北辰一刀流開祖千葉周作の弟。兄と共に神田お玉ヶ池の玄武館で弟子を指導し、のち桶町に自分の道場を構え、坂本龍馬ら多くの弟子を育てた。また鳥取藩江戸屋敷の剣術指南役として召し抱えられた。明治十二(1879)年12月5日没。享年不明。
 
明治十二年