春日潜庵(京都市右京区・法蔵寺)
久我家諸大夫。久我家諸大夫として、内大臣久我通明・建通父子に仕え、従五位下讃岐守に叙任される。初め朱子学を修めたが、のち五十嵐君山・鈴木恕平らの門に学んで陽明学を修め、広く東西の儒者と交を結んだ。また久我家の家政を整理して功があったが、同僚の中傷によって屏居すること一年、のち再出仕してさらに尽すところがあった。安政四・五年のころ外交問題の起るや、梁川星巌の攘夷決行の意見を建通に紹介し、また将軍継嗣・水戸賜勅などについて星巌・西郷隆盛らと策謀するところがあり、京都における尊攘派の中心の一人として活躍した。このため安政の大獄に座し、安政五(1858)年12月就縛、安政六(1859)年10月永押込に処せられ、洛北雲林院村の別宅に幽閉されたが、文久二(1862)年11月和宮降嫁後の特赦で許され、旧官職に復した。維新後、明治元(1868)年2月その主久我通久が大和鎮撫総督に任ぜられるや、参謀としてこれに従い、5月奈良県の置かれるに及んで同県知事に任命されたが、事に座して7月官仕を罷め、爾後学を講じた。門人に末広鉄腸・戸田石水らがある。明治十一(1878)年3月23日没。享年68歳。

もへい様寄贈
大槻磐渓(東京都港区・東禅寺)
仙台藩儒。昌平黌に10年学び、のち長崎・畿内等に遊学。儒学者として32歳のとき仙台藩に抜擢された。江戸藩邸の侍講として嘉永六(1853)年ペリー来航に当っては浦賀に行き、海防・西洋砲術の研究に当った。親露開国論を唱え、文久二(1862)年仙台に移り藩校養賢堂学頭となって多大の影響を与えた。その佐幕の立場は奥羽越列藩同盟の思想的主柱となり、明治二(1869)年入獄を命ぜられた。のち赦に会い東京にあって文趣の生活を送った。明治十一(1878)年6月13日没。享年78歳。
鷹司輔?(京都市右京区・二尊院)
堂上公家(摂家)。文化十四(1817)年2月元服・叙爵、文政元(1817)年5月従三位に叙せられ、累進して嘉永元(1848)年3月内大臣となり、嘉永二(1849)年正月従一位に叙せられ、安政四(1857)年2月右大臣に転じた。安政五(1858)年日米通商条約の勅許奏請、将軍継嗣問題を巡って朝幕間の対立を見た際、条約勅許に賛成せず、また水戸・福井藩士らの入説を受けて一橋慶喜の将軍継嗣擁立に賛同して周旋・画策し、さらに近衛忠?・三条実万と共に水戸賜勅のことを献策して叡旨の貫徹と時局の匡救を図った。このため大獄の起るや、幕府の内請によって安政六(1859)年3月辞官のやむなきに至り、5月落飾(法名随楽)・慎を命ぜられた。文久二(1862)年4月慎を解き、5月還俗を命ぜられ、12月新設の国事御用掛に補せられて再び朝政に参与し、文久三(1863)年正月近衛忠?の後を受けて関白となった。時に攘夷運動の激化に伴って朝廷は三条実美ら急進攘夷派の制圧するところとなり、関白在職の間に賀茂・石清水両社行幸あり、ついで大和行幸・攘夷親政の朝議決定を見、また幕府は攘夷期日の決定を余儀なくせしめられ、長州藩では外艦を砲撃して攘夷を断行するに至った。しかし同年八月十八日の政変によって形勢は一変して急進派堂上・長州藩は失脚し、朝廷は公武合体派の占めるところとなった。輔?は実美らの勢力に左右されることが多かったため、この政変の謀議から除外され、のち政変の責を負って一時差控を命ぜられ、さらに島津久光の建言によって、12月関白を免ぜられるに至った。元治元(1864)年禁門の変に際し、鷹司邸は長州兵の拠る所となり、ついに幕軍の砲火のために焼失したが、輔?自身も長州藩と気脈を通じて策動したとの建議によって慎を命ぜられた。この後慶応三(1867)年正月孝明天皇の大喪により赦免され、同年12月王政復古の政変に際して一時参朝を止められたが、翌慶応四(1868)年正月これを解かれ、2月議定となり、制度事務局督を兼ね、閏4月神祇官知事に転じ、9月議定に再任、翌明治二(1869)年5月留守長官に任ぜられ、8月これを免ぜられ、10月麝香間祗候を仰せ付けられた。明治五(1872)年8月隠居す。明治十一(1878)年7月9日没。享年72歳。
二条斉敬(京都市右京区・二尊院)
堂上公家(摂家)。文政七(1824)年5月元服、従五位上に叙せられ、文政八(1825)年正月従三位に進み、文政十一(1828)年2月権中納言、天保二(1831)年6月権大納言に昇進。安政の大獄に座して安政六(1859)年2月幕府の奏請により謹慎を命ぜられたが、同年3月内大臣に、文久二(1862)年正月右大臣に任ぜられ、同年9月従一位に推叙せられ、12月国事御用掛を命ぜられた。文久三(1863)年前関白近衛忠?らと共に攘夷親政に反対して尊攘急進派の堂上と対立し、同年八月十八日の政変には中川宮・忠?らと相議して朝廷から尊攘派勢力を一掃し、公武合体派公家による朝権掌握に参画した。ついで同年12月23日左大臣に転じ、関白となったが、事後関白在職の間も専ら公武合体の立場に立って孝明天皇を輔佐し、長州処分問題、条約勅許問題、一橋慶喜の徳川家相続問題などの重要政務の処理に当たった。このため王政復古派の廷臣と幕府要路の間に立って両者の調整に苦心せざるを得なかったが、慶応二(1866)年8月中御門経之・大原重徳ら王政復古派の廷臣21名が結党列参して調整改革を奏議し、斉敬および中川宮の引退を求めたため斉敬は9月国事扶助の任に堪えないことを理由に辞表を提出したが、天皇の信任は変らず、辞意は認められなかった。同年12月天皇崩御し、慶応三(1867)年正月明治天皇践祚するや、摂政に任ぜられ、依然として国政に当った。しかし同年12月9日王政復古と共に摂政関白は廃職となり、斉敬は公武合体派公家と共にしばらく参朝を停止され、慶応四(1868)年8月これを解かれたが、政治に参与することはなかった。明治二(1869)年麝香間祗候を命ぜられた。明治十一(1878)年12月5日没。享年63歳。
明治十一年