木戸孝允〔桂小五郎〕・松子夫妻(京都・霊山墓地)
長州藩士。嘉永二(1849)年吉田松陰の門に入り、嘉永五(1852)年江戸の剣客斎藤弥九郎に入門、さらに下田奉行与力中島三郎助に造船術を、また長州藩士手塚律蔵、美濃の人神田孝平について蘭学を修めた。万延元(1860)年水戸藩士西村帯刀らと丙辰丸条約を結び尊王攘夷運動に参加、文久二(1862)年5月には藩命によって京都で、公卿・他藩との折衝に当った。元治元(1864)年池田屋の変には身をもって逃れ、禁門の変で長州藩敗退後、但馬出石に潜伏、慶応元(1865)年4月帰藩、対幕抗戦の藩論決定に活躍した。慶応二(1866)年正月、京都薩摩藩邸において、坂本龍馬らの斡旋で薩摩藩士小松帯刀・西郷隆盛らと薩長同盟密約を結んだ。王政復古後、慶応四(1868)年正月太政官に出仕して徴士となり、五箇条御誓文の草案作成に関与、閏4月参与となる。明治二(1869)年正月の薩・長・土・肥四藩主の版籍奉還の実現には中心的役割を演じたが、この前後、国家統一の政略として征韓論を主張した。明治三(1870)年6月参議に就任、明治四(1871)年7月の廃藩置県にも西郷隆盛とならぶ参議として重責を担った。ついで同年11月の岩倉大使欧米巡回には全権副使として加わり、明治六(1873)年7月帰朝、憲法制定を建言した。西郷らの征韓論には岩倉具視・大久保利通らと共に反対した。明治七(1874)年正月文部卿を兼任、2月の征台の役に反対し5月参議を辞し宮内省出仕となり、明治天皇の側近にあって補佐した。明治八(1875)年2月大久保と板垣退助の間を斡旋する大阪会議を開き、漸次立憲制を布くとの方針を定めた。同年3月参議に戻り、6月の第1回地方官会議の議長となり、また元老院章程草案作成に参加した。明治九(1876)年3月参議を免ぜられ内閣顧問となり、6月奥羽巡幸に供奉、8月宮内省出仕、明治十(1877)年西南戦争には、京都の行在所にあって事変処理に当ったが、健康がすぐれず5月26日病死した。享年45歳。

松子は小浜藩の木咲市兵衛の娘で、嘉永四(1851)年父死亡のため、母は松子と弟を連れて京都御幸町松原下ルの提灯屋に再嫁した。のち三本木吉田屋の芸妓竹中かのの妹分として貰われ、9歳で舞妓となり、14歳のとき姉の名を襲名して二代目幾松を名乗った。文久元(1861)年桂小五郎と知り合い、以後彼のために献身的に尽くし、新撰組の追及より度々救った。維新後は木戸夫人となり、明治十(1877)年木戸死亡後は木屋町別邸に帰り、剃髪して翠香院と号し亡夫の冥福を祈った。明治十九(1886)年4月10日没。享年44歳。
長州藩のリーダーです。リーダーだから霊山の一番高い所に御墓があるのかと思ったら、その上に品川弥次郎くんがあったりするので関係はなさそうです。とはいえ幕末には高杉晋作、維新後は大久保利通という存在が、どうも木戸さんの影を薄くしている気がしてならないのは気のせいでしょうか。。隣には幾松さんの御墓があり仲むつまじく並んでおります。
寺田屋お登勢(京都市伏見区・宗玄寺)
伏見南浜町の船宿寺田屋伊助の妻。18歳で嫁し、気むずかしい姑によく仕え、放蕩者の夫が35歳で死亡してからも後家で家業を営んだ。唯一の道楽は人の世話をすることで、特に勤王の志士を献身的に援助し引っ切り無しに頼ってくる人達を一度も謝絶することなく、時には体を張ってまで彼らを庇護した。坂本龍馬の隠れ家となったころより奉行所の監視が特に厳しくなり、危うく入牢の身となるのを助かった。女将を死ぬまで続け明治十(1877)年9月7日没。享年48歳。
寺田屋といえば幕末好きには伏見の聖地と言えるでしょう。それにしても白石さんと言いこのお登勢さんと言い人助けが趣味と言うのは何というかすごいとしか言いようがありません。寺田屋から北に少し離れた所に宗玄寺(松林院)はあります。道路を挟んで向かい側には寺田屋事件の有馬さんたちが眠る大黒寺もあったりします。春彼岸でのお参りの方も多くいて何か入るのが躊躇われるのはいつものことですが、ここは敷地が狭いのでなおさらでした。御墓の隣には歴代寺田屋伊助さんの御墓がありましたが、どれが6代目のものかはわかりませんでした。

もへい様寄贈
中根雪江(東京都港区・海晏寺)
福井藩士。天保七(1836)年福井に来遊した国学者橘尚平の説に感服し、天保九(1838)年には平田篤胤の門に入った。天保弘化年間には藩政改革、ことに藩財政の建て直しに奔走し、ペリー来航以後幕末政局において藩主松平慶永の謀臣として活躍した。安政元(1854)年2月慶永の命により藤田東湖を訪ね、その外交意見を聴取する一方、慶永の意を体し、老中阿部正弘、熊本藩長岡是容らとの折衝に当った。この間橋本左内の意見を支持し、舎密術(化学)の振興を主張する。安政四(1857)年・安政五(1858)年には将軍継嗣問題、条約勅許問題において一橋派の慶永を助け、安島帯刀・西郷隆盛・橋本左内・平岡円四郎・永井尚志らと折衝した。一橋派敗北の後福井に帰り、安政六(1859)年、翌万延元(1860)年には「昨夢紀事」の執筆に従事する。文久二(1862)年以降慶永の政治活動再び活発化するや、再度惟幄に参じ、公武合体派として活躍する。文久二(1862)年の島津久光周旋に際しては久光の謀臣伊地知貞馨、幕臣岡部長常、大久保一翁らと折衝した。また福井藩との連合を策する長州藩の桂小五郎(木戸孝允)らとも協議し、過激尊攘派を抑え、公武合体の推進に努め、同年六月には藩老分裂の責により一時蟄居を命じられる。八月十八日の政変以後参預会議を成功させることに努め、また幕政改革に尽力し、さらに慶永の京都守護職辞任問題の解決に当った。その後対立を深める幕府と薩摩藩との間に立つ慶永を助け、老中小笠原長行・永井尚志・原市之進、薩摩藩小松帯刀・大久保利通らの間を奔走し、長州再征の不可を論じた。大政奉還後は幕府・会津藩に対し幕権の維持すべからざることを説き、土佐藩等と結び公儀政体の実現に努力する。王政復古直後の小御所会議に出席、参与に任ぜられ、慶喜の辞官納地問題において公議政体派として活躍し、慶応四(1868)年正月の鳥羽伏見の戦い後も徳川氏救解に努めた。同閏四月参与を辞任し、8月福井藩による新政府是正活動に関連して嫌疑を受け、政治活動から退隠し、以後著述に携わった。明治十(1877)年10月3日没。享年71歳。
今井太郎右衛門(京都市左京区・金戒光明寺)
萩藩御用商人。少年の頃より吉田松陰に私淑し、24,、5歳の時、京の親戚今井家に迎えられて大黒屋の跡を継ぎ、長州藩の御倉番をする傍ら諸国の志士と親交を結び、高倉竹屋町の離れ座敷をその謀議の場所とした。桂小五郎(木戸孝允)が三条大橋下に潜伏中毎日下婢に食事を運ばせ、また文書の往復には采配の紙を利用して用を弁じた。元治元(1864)年7月禁門の変には軍資兵站の補給に活躍したが、自宅も焼き払われ文書類は北野社横の酒造家「此の花」に預けたまま長州に亡命した。維新後木戸の要請にもかかわらず任官を固辞して長州藩邸の一角に居を構え、西隣に古聖堂を建設して勤王志士先賢の遺芳を集め、悠々自適の生活を送った。明治十(1877)年12月5日病没。享年54歳。
明治十年