西郷隆盛(鹿児島県鹿児島市・浄光明寺)
薩摩藩士。通称吉之助。鹿児島城下下加治屋町の下級士族小姓与の家に生まれた。家が貧しく18歳のときに郡方書役助を勤めて生計を助け、また幕末期の農民の窮状に直に接した。大久保利通・有村俊斎らと「近思録」を読み、陽明学を学び、また無参禅師について禅を学んだ。安政元(1854)年藩主島津斉彬に従って江戸に出て庭方役として側近に仕え、その間水戸の藤田東湖、越前の橋本左内らの名士と国事を談ずるほどに成長した。このころペリーの渡来により国情騒然たる時期であったが、斉彬の命により京都・江戸の間を往復し、将軍継嗣に徳川慶喜擁立の運動に奔走したが、井伊直弼が大老に就任し、安政条約調印、紀州の慶福を将軍継嗣に決定して反対派弾圧のために安政の大獄を起こすに至った。このとき頼みとする斉彬が病死したので絶望感に襲われ殉死まで考えたが、僧月照を護衛して鹿児島に帰った。斉彬没後の藩当局は月照を保護しようとしなかったので、安政五(1858)年11月月照と錦江湾に身を投じた。月照は絶命し、隆盛だけ蘇生し大島に流された。三年後の文久二(1862)年許されて帰藩し、島津久光の国事周旋に随従したが久光に嫌われ、6月徳之島へ、ついでさらに南の沖永良部島に流された。二年後の元治元(1864)年2月赦され、三月上京軍賦役となり、禁門の変・第一次長州征伐において薩摩藩代表として活躍した。第二次長州征伐の起るころには土佐の坂本龍馬の斡旋により長州藩の木戸孝允らと薩長連合の盟約を結んだ。慶応三(1867)年武力倒幕の方向をとり、12月9日の王政復古の大号令、翌慶応四(1868)年正月の鳥羽伏見の戦いと幕府を追い込んだ。やがて大総督府参謀となって東下し、旧幕府方の勝海舟と折衝して江戸城の無血入城を実現した。戊辰の内乱が終ると隆盛は帰藩し、鹿児島藩大参事となって藩政改革に当たった。明治四(1871)年上京し参議となり廃藩置県の断行に当り、政府の首脳となった。ついで陸軍元帥兼近衛都督・陸軍大将となり、陸軍の中心人物となった。明治六(1873)年征韓論が起ると自ら遣韓大使たらんことを主張したが、米欧巡回から帰朝した岩倉・大久保らの反対によって敗れ、同志の参議板垣退助・江藤新平らと下野し、ただちに鹿児島に帰った。明治七(1874)年隆盛に従って帰郷した軍人・官吏らのために私学校を創設したが、政府の挑発と私学校党の暴発により明治十(1877)年の西南戦争を起こし、敗退して9月24日城山で自刃した。享年51歳。
おそらく日本史上最も親近感が持たれている感のある西郷さんですが、謀略家の一面もあり、坂本竜馬暗殺の黒幕説もあるほどです。しかしながらその絶大な人気は西郷ロシア逃亡説とか西郷星(大接近した火星)とかの伝説を派生させていきました。そんな西郷さんの御墓を訪ねて南州墓地に行ったのですが、その行程がなかなか強烈でした。まずは斉彬公を祀る照国神社に参拝したのですが、そこからなにを血迷ったか遊歩道を通って城山登山…9月1日とはいえまだ夏の陽射しそのまんまの鹿児島でこれはきつかった…。そのまま城山展望台からカゴシマシティビューに乗って西郷洞窟、さらにそこから薩摩義士碑前まで移動し、私学校跡を一周してから徒歩で南洲墓地まで行ってしまいました。来年からは遠征時に万歩計を装着しようかなぁ…。西郷さんの御墓を見たとき、季節柄ススキが供えてありました。撮影のとき、はっきり言って邪魔だなとも思ったのですが、あえて向きを変えるなどせずそのままにしておきました。
大山綱良(鹿児島県鹿児島市・浄光明寺)
薩摩藩士。鹿児島県令。通称格之助。10歳のとき藩の御数奇屋御茶道に仕えた。また示現流薬丸半左衛門に剣を学び、その高弟となった。西郷隆盛・大久保利通より年長者でもあり、薩藩誠忠組でも重んぜられていた。文久二(1862)年4月の寺田屋事変に際して島津久光の命を受けて上意打ちに当たった。文久三(1863)年の薩英戦争では桜島方面の軍賦役となり、慶応二(1866)年4月太宰府の三条実美ら五卿を警固し、10月には大久保と薩摩藩を代表して長州に赴き、倒幕出兵盟約を締結した。慶応四(1868)年の鳥羽伏見の戦いに出征し、ついで奥羽鎮撫総督府参謀となり、奥羽各地に転戦した。功により賞典禄800石を授けられた。明治四(1871)年鹿児島県大参事、翌明治七(1874)年県令となった。この年私学校ができると、私学校と結び県官にその幹部を任用した。明治十(1877)年西南戦争が起ると、官金15万円を軍資に供するなど全面的に私学校一派に協力し、その罪によって3月官位を奪われ、9月30日長崎において斬に処せられた。享年53歳。
派閥?としては久光派に属する大山さんは、云わば西郷派とは対立関係にありそうなものですが、鹿児島県令として西郷さんの私学校創設を積極的に支援したり、大久保利通さんから要請された県役人からの私学校党排除を一蹴したりと完全な西郷シンパになってます。まぁ久光公も中央政府を嫌っていた所がありますから、感覚的に中央からの独立という点で共闘する形で西郷派を支援していたのでしょうかね?
桐野利秋(鹿児島県鹿児島市・浄光明寺)
薩摩藩士。はじめ中村半次郎と称したが、明治以降本姓に復して桐野利秋と改めた。鹿児島城下に近い吉野村実方の微禄の家に生まれ、天資豪邁で胆略があり武芸に長じた。文久二(1862)年島津久光に従って入京し中川宮付の守衛となり、元治元(1864)年禁門の変には大いに戦い、これにより西郷隆盛に認められるようになった。慶応四(1868)年の戊辰戦争には、小頭見習として鳥羽伏見の戦いに従軍し、ついで東海道先鋒として江戸に入った。奥羽の戦いには会津征討軍軍監として会津若松城受取の任務を果たし、賞典禄200石を賜った。明治二(1869)年鹿児島常備隊の大隊長となり、明治四(1871)年親兵の大隊長となって上京し、陸軍少将に任ぜられた。明治五(1872)年熊本鎮台司令長官、明治六(1873)年陸軍裁判所長に転じた。征韓論が起ると西郷隆盛に従い官を辞して帰国し、篠原国幹・村田新八らと私学校の幹部となり、明治十(1877)年西南戦争が勃発すると、四番大隊長となって熊本城に向かい総指揮長となって軍事を指揮したが、人吉敗戦後、宮崎に転戦、西郷と共に鹿児島に帰り、城山の岩崎谷で戦死した。享年40歳。
「人斬り半次郎」として有名です。墓碑を見ると「野」が「埜」に変えられ、さらに「秋」の字が奇妙です…。よく見るとへんとつくりが逆になってる…。これについて桐野さんのお孫さんに当たる桐野富美子さんが祖母(つまり桐野さんの妻ヒサさん)から聞かれた話として「島津の殿様が書いてくださったのよ。支那字だってねえ。おじいさんはハデ好きだったので喜んでくださるでしょう」とあります。
村田新八(鹿児島県鹿児島市・浄光明寺)
薩摩藩士。幼時村田経典の嗣となりその姓を名乗った。幼少時代から西郷隆盛に兄事し、文久二(1862)年西郷が島津久光の怒りに触れて徳之島に流されたとき、村田も連座して鬼界ヶ島に流された。慶応四(1868)年の戊辰戦争の際に薩軍二番隊の監軍となり、奥羽に出征して功あり、明治二(1869)年鹿児島常備隊砲兵隊長となった。明治四(1871)年宮内大丞に任ぜられ、ついで岩倉具視全権大使の一行に加わり、欧米を巡回して明治七(1874)年帰国したが、西郷に従って辞職して帰国した。桐野利秋・篠原国幹らと共にし学校の創立に与り、砲隊学校の監督となった。明治十(1877)年西南戦争の際薩軍の二番大隊長となり、本陣を木留に置き、田原坂・吉次・植木方面の諸隊を指揮し、しばしば政府軍を破った。4月15日薩軍熊本城の守を解くに及び、西郷と共に人吉に退き、都城陥落ののち佐土原・宮崎・高鍋・美々津・延岡方面に転戦し、8月17日西郷と共に可愛岳を突出し、9月1日鹿児島に入って城山に籠り、9月24日岩崎谷で戦死した。享年42歳。
別府晋介(鹿児島県鹿児島市・浄光明寺)
薩摩藩士。慶応四(1868)年の戊辰戦争に薩摩隊に属して分隊長となり、奥羽に転戦、明治二(1869)年鹿児島常備隊小隊長となった。明治四(1871)年上京して近衛陸軍大尉となり、ついで少佐に進む。明治五(1872)年征韓論が起こると西郷隆盛の密命を受けて朝鮮に行き、情勢を視察して帰朝復命した。明治六(1873)年征韓論決裂し職を辞して西郷に従って帰郷、加治木で他4ヶ郷の区長となり、私学校創立のために力を尽してその幹部になった。明治十(1877)年の西南戦争には加治木・国分・帖佐・重富・山田・溝辺各郷の兵を募り、二個大隊を組織してその連合大隊長となり、熊本城を包囲した。4月辺見十郎太らと鹿児島に帰り、壮丁を募って八代の政府軍を攻撃し、重傷を負うて人吉に退いた。のち振武・行進諸隊を指揮し、薩隅日の間に転戦、8月17日西郷と共に可愛岳の重囲を突破して9月1日鹿児島に入り、24日は城山岩崎谷に自刃した。享年31歳。
西郷さんを介錯したことで知られる別府さんですが、4月に八代で右足に銃創を負い、9月24日の時点でも山駕籠に乗って移動するほどだったので、体を支えられない状態で果たして介錯できたのか?という疑問が従来から挙がっています。代わって辺見十郎太説(太股を撃たれて重傷を負った西郷さんを辺見さん介錯したと西郷さんの従者が告白した話として熊本新聞が9月28日に報道)や桐野利秋説(新撰旅団の小隊長が記した『西南出張日記』に午前5時頃になって各隊が城山に攻め入り、西郷さんや桐野さんらが穴から出て逃げようとしたが、「西郷だ」の声で兵士達が一気に進みだしたのを見て桐野さんが西郷さんの首を落とした…というようなことが書かれています。さらに強烈なのは、別府さんの従僕だった城川金右衛門なる方の目撃談で、西郷さんが投降する意思である事を察知した桐野さんが、西郷さんの背後で黙礼すると、持っていた銃で射殺したというのもあります)。まぁ今のところ通説を覆すまではいってませんが、それぞれに筋の通るところはあるんですよね。
池上四郎(鹿児島県鹿児島市・浄光明寺)
薩摩藩士。慶応四(1868)年鳥羽伏見の戦いに従軍、ついで東山道先鋒総督府の本営付として転戦し、白河口攻撃で負傷した。明治二(1869)年鹿児島常備隊の教佐となり、明治四(1871)年御親兵四大隊の一部を率いて上京し近衛陸軍少佐に任ぜられた。明治五(1872)年征韓問題が起ると外務省十等出仕に補せられ、西郷隆盛の命で満州地方を視察して復命した。明治六(1873)年西郷に従って職を辞し鹿児島に帰り、私学校の創立に力を尽した。明治十(1877)年西南戦争には薩軍の五番大隊長となり、熊本城攻囲軍を指揮した。のち薩軍の編成改正により大隊長をやめて本営にあって軍議に参加した。8月西郷に従って可愛岳を突破し、9月24日城山において戦死した。享年36歳。
高城七之丞(鹿児島県鹿児島市・浄光明寺)
薩摩藩士。慶応四(1868)年の戊辰戦争では奥羽に転戦、賞典禄8石を賜る。のち東京府出仕。この頃、旧幕臣大久保一翁と勝海舟について学び、私学校にあっても断然頭角をあらわす。中原尚雄ら警視庁少警部の鹿児島潜入を深知し、谷口登太らに策を授けて捕縛のきっかけを作った。明治十(1877)年の西南戦争では三番大隊三番小隊長として熊本城攻略戦に参加、政府軍が八代方面に上陸して薩軍の背後を脅かすや、三番中隊長となってこれを迎え撃った。のち正義隊大隊長河野主一郎のあとを継いで大隊長となり、日向・大隈の各地に転戦した。西郷とともに可愛岳を突破して鹿児島に入り、城山で戦死。享年30歳。
平野正介(鹿児島県鹿児島市・浄光明寺)
薩摩藩士。慶応四(1868)年の戊辰戦争では奥羽に転戦。明治二(1869)年鹿児島常備隊小隊長、明治四(1871)年近衛陸軍少佐に任ぜられる。明治六(1873)年に帰郷後は吉野で開墾に従事した。明治十(1877)年の西南戦争では熊本城攻略戦で先頭に立って奮戦し、のち部隊の改編に際して常山隊大隊長に転じ、人吉方面を守り、転じて延岡方面を守り、西郷と共に可愛岳を突破して鹿児島に入った。城山総攻撃の前夜、炊出し所で白布を求め、これで白旗をつくり、病院ごとに立てて回ったという。9月24日兄2人と共に城山で戦死。享年33歳。
桂久武(鹿児島県鹿児島市・浄光明寺)
薩摩藩家老。安政四(1857)年はじめて詰衆となり、ついで造士館演武館掛に任じ、文久二(1862)年大島警衛の命を奉じ、藩士20名を従えて大島に行き、また大島銅山経営掛を兼ねた。元治元(1864)年大目付、ついで家老加判役となり役料高1000石となった。慶応元(1865)年12月上京し、たまたま薩長連合のため薩摩藩邸に来着した桂小五郎を厚遇した。慶応二(1866)年藩庁が四局を置くと会計方掛となり、専ら出納および勧農・海陸等を掌った。慶応三(1867)年6月討幕挙兵を決意した大久保利通が藩地に軍艦と藩兵の派遣を要求したとき、門閥保守派はこれに反対したが、家老中の最有力者であった久武の同意決断によって出兵に一決した。明治二(1869)年に薩摩藩参政として藩政改革に当り、明治三(1870)年盟友西郷隆盛と共に藩の権大参事にあげられた。明治四年都城県参事、ついで明治六(1873)年豊岡県県令に任ぜられたが病のため辞した。明治十(1877)年の西南戦争では西郷の求めに応じ、大小荷駄隊長として金殻募兵に当り、また横川弾薬製造所を専ら監督したが、9月24日城山で戦死した。享年48歳。
辺見十郎太(鹿児島県鹿児島市・浄光明寺)
薩摩藩士。西郷の崇拝者で慶応四(1868)年の戊辰戦役には薩藩小隊長として奥羽方面に転戦した。明治二(1869)年鹿児島常備隊小隊長となり、明治四(1871)年上京して近衛陸軍大尉に任ぜられた。明治六(1873)年征韓論決裂後は西郷に従って帰国。私学校のために尽すと共に宮之城区長となった。明治十(1877)年の西南戦争では薩軍小隊長として出陣し、熊本城の攻撃に勇戦、一時別府晋介らと帰国して兵を募り、八代方面の政府軍を攻撃した。ついで雷撃隊大隊長を拝命、各地に奮戦したが戦勢ふるわず、可愛岳を突破して鹿児島に帰り、9月24日城山で壮烈な戦死を遂げた。享年28歳。
島津啓次郎(鹿児島県鹿児島市・浄光明寺)
佐土原藩主島津忠寛の第三子。明治元(1868)年勝海舟の門下となり、海舟の勧めで明治三(1870)年にアメリカに留学、アナポリス海軍兵学校に籍を置き、ニューハーベン、グリンブルドで英仏語を中心に文学、数学を学んだ。明治九(1876)年帰国。西郷の心酔者で、つとにその人格に傾倒し、明治十(1877)年に西南戦争が起きるや周囲の反対を押し切って一隊を編成、本営を宮崎に置いて豊後路で政府軍に抗した。佐土原隊は区長鮫島元の提唱になるもので、7個小隊500人。最初は熊本方面の戦闘に参加したが、戦い破れて一旦帰国、隊の再建をはかった。その間、旧藩主側近筋からたびたび暴挙を思い留まるよう勧告されたが、頑として応ぜず、鮫島らの勧めにより再び出征した。かくて豊後方面の戦闘に加わったが、頽勢はいかんともしがたく、一部は佐土原で、残りは長井村で投降した。啓次郎は9月24日従者の三島貢之・中村道晴・有村武英と共に城山で戦死した。享年21歳。
貴島清(鹿児島県鹿児島市・浄光明寺)
薩摩藩士。慶応四(1868)年の戊辰戦争では征討軍として、東北方面に転戦した。西郷を畏敬すること神のごときものがあり、明治十(1877)年西南戦争が勃発するや藩地で同士を糾合、別撰大隊を組織して3月14日、熊本に駆けつけた。以後各地に転戦、4月の隊再編成で中島健彦率いる振武隊の監事となり、相良五左衛門の行進隊とともに鹿児島分遣隊を拝命、同方面の政府軍と戦った。6月下旬都城に帰り、可愛岳突破に際して後衛部隊を指揮、鹿児島城下突入では先頭に立って奮戦した。9月4日、政府軍の兵糧貯蔵庫襲撃で敵弾に当たって戦死。享年35歳。
増田宋太郎(鹿児島県鹿児島市・浄光明寺)
中津藩士。醇乎たる復古主義者で、決起に際し「上は以て歴世皇恩の万一に報答し、下は人民天賦の権利を回復し、国威を海外万国に拡張し、独立帝国の面目を改新せんことを企望す」とうたっている。明治十(1877)年3月下旬には、兵を率いて中津の支庁を襲い支庁長を軍陣の血祭りにあげた。次いで大分県庁を襲ったが、警視隊の警備が厳重で成功するにはいたらなかった。かくて4月上旬、数十名からなる一隊を率いて熊本に入り、薩軍に投じた。以来、肥後の各地に転戦したが、敗色が濃くなるや延岡方面に転進して奮戦した。同隊は長い村で一部投降し、増田は9月3日、貴島清と共に鹿児島の米倉を襲い戦死した。享年27歳。
明治十年 西南戦争 城山攻防戦