河原林雄太(熊本県植木町・七本官軍墓地)
帝国陸軍少尉。小倉歩兵第十四連隊連隊旗手。明治十(1877)年2月22日、植木向坂の戦いで、連隊長の乃木希典に明治天皇より親授された連隊旗を安全な場所に移動するよう命じられたが、途中で敵と遭遇して戦死。享年不明。
東野孝之丞(熊本県植木町・薩軍戦没者の墓)
庄内藩士。明治十(1877)年2月28日、萩迫柿木台場堡塁攻防戦で戦死。享年15歳。
篠原国幹(鹿児島県鹿児島市・浄光明寺)
薩摩藩士。少年の頃から藩校造士館に学んで頭角をあらわし、句読師にあげられた。また剣を示現派薬丸半左衛門に学んだが、人となり軍略に秀で厳正にして威望があった。文久二(1862)年の寺田屋事件に参加したが、敗れて国へ送還され謹慎を命ぜられた。文久三(1863)年の薩英戦争においては沖小島砲台を守って戦いに加わった。慶応四(1868)年戊辰戦争には小銃三番隊長として鳥羽伏見に戦い、東征して彰義隊の戦いには正面黒門口に戦った。ついで奥羽白河に進み、会津攻撃には母成峠を扼する同盟軍を間道より進んで背をついて若松城下に迫り、会津若松城を攻囲した。凱旋ののち賞典禄8石を賜った。明治二(1869)年鹿児島常備隊の大隊長となり、明治四(1871)年御親兵の大隊長となって東上した。7月陸軍大佐に任じ兵部省参謀局出仕となり、明治五(1872)年7月近衛局出仕を兼ね陸軍少将に任じた。明治六(1873)年征韓論の決裂するや西郷隆盛に従って鹿児島に帰り、明治七(1874)年桐野利秋・村田新八らと私学校を設立してその監督に当り、青年子弟の養成、開墾植林の事業を行った。明治十(1877)年の西南戦争には薩軍一番大隊長となり、肥後に向かい一挙に強襲をもって熊本城を攻陥しようとの策を立てたが異議があって果たさず、転じて高瀬に戦った。吉次峠の嶮の攻防戦において陣頭に立って督戦して自ら部隊を指揮していたが、3月4日敵弾に当たって戦死した。享年42歳。
 
佐川官兵衛(大分県大分市・大分護国神社/熊本県阿蘇郡・佐川官兵衛首塚)
会津藩家老・警視庁一等大警部。佐川家は会津藩の世臣である。文久二(1862)年藩主が京都守護職になると上京し物頭となった。ついで学校奉行に転じたが再び上京し、慶応四(1868)年鳥羽伏見の戦いには軍事奉行頭取となって鬼官兵衛の名を得た。会津戦争には越後に赴き、間もなく家老に進み諸軍を指揮した。戦後幽囚も解けて若松に閑居したが、明治十(1877)年西南戦争のときに、川路利良大警視のすすめによって巡査隊を指揮し、豊後口から進んだが3月18日一の宮附近で戦死した。享年47歳。
永山弥一郎(鹿児島県鹿児島市・浄光明寺)
薩摩藩士。はじめ茶坊主として仕えた。文久二(1862)年の寺田屋事件に参加したが、年少の故をもって罪を許された。慶応四(1868)年の戊辰戦争には小銃四番隊の監軍となり、奥羽に出征し、特に白河城攻略に功をあげた。明治二(1869)年鹿児島常備隊の教導となり、明治四(1871)年陸軍少佐に任じ、ついで開拓使三等出仕に任じ北海道に赴いた。のち陸軍中佐となり屯田兵の長となったが、明治八(1875)年政府が樺太と千島を交換したことに反対し職を辞して鹿児島に帰った。明治十(1877)年の西南戦争には薩軍の三番大隊長となり、熊本城攻囲軍を指揮した。政府軍が八代に上陸し背面に迫ろうとするに及び、一隊を率いてこれに向ったが4月13日御船の戦いに敗れ民家に買い取って火を放って中で自刃した。享年40歳。
明治十年 西南戦争 熊本攻防戦