島村志津摩(福岡県北九州市・福聚寺)
小倉藩家老。天保十三年家を継ぎ、格式中老・家老席詰を経て、嘉永五年家老となる。殖産興業.武備増強に腐心、佐幕・撰夷論老であった。特に呼野金山を開き、田川の石炭採掘を奨励し、一方郡代河野四郎と共に新地の開墾、大庄屋.庄屋の帳面調査を行い、諸政を改新した。攘夷論に対し理解を示していたが藩に受け入れられず、慶応三(1866)年の第二次長州征伐の折には一番備として出兵。味方となるべき他藩までが傍観の立場をとり、小倉藩・肥後藩のみが奮闘する中、不信感から肥後藩が撤兵、次いで総司令官たる老中小笠原長行が脱出。さらに将軍家茂薨去による諸藩撤兵で小倉藩のみが洋式化された長州奇兵隊・報国隊らと戦うことになり、また知らぬうちに小倉城自焼が決められるなどの不利な状況下で作戦を展開、長州軍を苦しめる。講和後藩政の中心として活躍するも、維新後は一切の公職から離れ、明治九(1876)年8月18日、名将の誉れ高くも機会に恵まれず、不遇の内に病死した。
下関、小月、萩縦断行軍の翌日、乏しい資料をもとに福聚寺に行くと、墓・墓・墓・一面墓! 墓の都市帝国!! その墓の山から探し出すの・・・!? さんざん苦労した挙句、猛暑にバテてしまい、いったん麓の酒屋まで下りて休憩&コーラ500ml一気飲みする破目になりました。気を取り直して捜索を始めてようやくお会いできました。翌日金辺峠で蝮の奇襲攻撃に備えつつ碑を訪ね小倉城に遊び、更に次の日は唐人墓から赤坂峠、大里と流れ、藤松の古戦場で志津摩橋を渡り、最終日に狸山と将に志津摩ウィークになってしまいました。しかし金辺峠の石碑…少しはあの周辺を公園として整備しようという気にならないんでしょうかね?あれはかなりきてると思うんですけど。おまけに近くの旧金辺トンネル…私でさえも霊気を感じるんだから結構凄まじいんじゃないかな…
村山可寿江(京都市左京区・円光寺〔上〕/金福寺〔下〕)
幼少より美人の誉高く踊・音曲を好み祇園の芸妓となったが、金閣寺住職に落籍され一子多田帯刀を生む。のち同寺代官多田源左衛門の妻となったが、離縁となり、彦根に帰って埋木舎の井伊直弼の寵を受け、長野主膳義言と相識り、爾来その謀者となって帯刀と共に志士の動静探索に力を尽した。文久二(1862)年11月14日の夜、洛西一貫町の隠れ家で薩長両藩の志士に襲われて三条大橋の橋柱に縛され、生晒の辱めを受けた。その時尼僧に助けられ彦根の清涼寺で剃髪して尼僧となり、さらに洛北金福寺に移りここで明治九(1876)年9月30日、数奇な生涯を閉じた。享年67歳。
円光寺も金福寺も左京区のほとんど同じ場所にありましたので一気に回ってきました。最初は金福寺に行き、一子多田帯刀の御墓を探ったのですが、これがどうしても見つからないんです。その代わりというか村山さんの供養墓が設置されておりまして、その上方には俳人与謝蕪村の御墓が君臨している感じでしたね。方丈内では村山さんの位牌や肖像画、遺墨や遺品が展示されており、たまたま誰もいなかったのをいいことに一人で堪能した挙句、見本に置いてあった本まで読破させていただきました♪円光寺では宝物殿に日本最古の活版印刷用の活字がありましてしばし眺めてました。村山さんの御墓はこちらが本墓ですが、墓地の奥手の方でひっそりと立っていました。
もへい様寄贈
細川韶邦(熊本県熊本市・泰勝寺/東京都品川区・東海寺)
第十三代熊本藩主。万延元(1860)年7月相続、文久二(1862)年10月勅旨下向王事に尽くせよとの詔をうけ、弟護美を上京せしめたが、この前後から肥後勤王党穏・激二派に分かれたから、元治元(1864)年9月藩議は公武合体になる旨、勤王党をはじめ家臣一同に論示した。慶応二(1866)年2月長州兵が小倉兵を攻めたとき、熊本兵はこれを援けて破るも、他藩来援せず、幕軍も傍観するのみで九州軍総指揮小笠原壱岐守長行も小倉を離れ、熊本藩のみ死傷者を出す有様であった。慶応四(1868)年正月幕府廃止となってはじめて、藩議勤王一途のの旨を在京重臣に示している。このころ在京の護美らの提案した洋兵式採用も藩内反対の色濃く、同年6月軍制改革は断行されたが、それを以って実学党(横井小楠一派)の作動とみなして藩内動揺をきたした。この年慶順を韶邦と改名しているのも、徳川家の賜字を返上した意味であろう。明治二(1869)年6月熊本藩の初代知事となる。明治三(1870)年五月病のため隠居し、護久に家督を譲った。このときから熊本藩の藩政改革が始まった。明治九(1876)年10月23日没。享年42歳。
小倉戦争の頃、殿様だったんですよねぇ…。別に他意はありませんが…。
田原坂から熊本市までゼルで一気に走って最初にやってきたのがここでした。最初に出迎えてくださったのは、藤孝さん、忠興さん、ガラシャさん、そして宮本武蔵さんでした。なんか凄いメンバーばかりで自分がVIPになったような気分でしたよ。
戸田氏正(岐阜県大垣市・円通寺)
大垣藩主。天保十二(1841)年第九代大垣藩主となり、大垣十万石を継ぎ、幕領六万九千石を預けられた。西洋文明の摂取に尽くし、藩士を高島秋帆・佐久間象山・江川坦庵(太郎左衛門)・勝海舟の門に送って洋学・洋式砲術を研究させ、銃砲・大砲を鋳造して兵制を改革した。尊王の念厚く、徳川斉昭・慶勝と親しく交わり国事を論じた。斉昭・慶勝の謹慎処分にともない、致仕して長子氏彬に封を継がせた。明治九(1876)年6月28日没。享年64歳。
明治九年