種田政明(熊本県熊本市・花岡山官軍墓地)
薩摩藩士。熊本鎮台司令長官。文久二(1862)年8月京都において中川宮付の守衛となり、かたわら諸藩の志士と交わる。慶応四(1868)年正月の戊辰戦争には本堂付を命ぜられ、宇都宮において薩摩藩六番隊長となり白河・会津等に転戦して功があった。明治二(1869)年藩の常備隊二番大隊長、、明治四(1871)年兵部省出仕、翌年陸軍少丞に任ぜられた。ついで明治六(1873)年陸軍少将、東京鎮台司令長官に任ぜられ、翌明治七(1874)年天長節諸隊分裂式天覧の折、総指揮官を命ぜられた。明治八(1875)年12月特命全権弁理大臣黒田清隆の韓国派遣に随行。のち熊本鎮台司令長官となり、在任中、明治九(1876)年10月27日敬神党の乱が起こり、居宅を襲われて死んだ。享年40歳。
 
安岡良亮(熊本県熊本市・花岡山官軍墓地)
土佐藩士。熊本県令。壮年時には弓術・馬術・刀槍・砲術・文学・古学等を学んだ。文久・元治の頃樋口真吉に従って国事に奔走し、慶応三(1867)年薩土密約の締結に参画した。慶応四(1868)年戊辰戦争に出征し、捕縛された近藤勇を斬罪に処したのは有名。新政府に仕え、明治二(1869)年弾正少忠・同大忠、明治三(1870)年集議員判官、明治四(1871)年民部少丞を歴任し、同年8月以降高崎県大参事・群馬県権参事・同参事・度会県参事を経て、明治六(1873)年白川県(のち熊本県と改称)権令となり、明治八(1875)年県令に進んだ。ときに太田黒伴雄ら神風連の人々の人心調和に努め、佐賀の乱に際しては熊本士族の動揺を鎮めるなど良政を施したが、明治九(1876)年10月27日神風連の挙兵に当り害にあった。享年52歳。
太田黒伴雄(熊本県熊本市・桜山神社)
熊本藩歩卒。幼少にして父を失い、11歳のとき大野家に引き取られ大野姓を名乗る。文久三(1863)年大野家の義弟が成長したので自ら出て、のち飽託郡内田村の新開大神宮祠官太田黒伊勢の養子となった。彼は初め朱子学を学び、次に陽明学の書を愛読したが、林桜園に師事してから神道に熱中した。明治二(1869)年7月藩主細川韶邦から召されて桜園が登場した際、随伴して有栖川宮や岩倉具視と桜園との会見にも陪席した。しかし桜園の神道万能の政策は当時の時勢の上に反映することは不可能であり、失意のまま熊本に帰ってきた桜園を彼は懸命に看護したが、高齢の桜園は死亡した。師亡き後、彼は推され同志(神風連)の頭首になった。明治九(1876)年3月廃刀令が出、さらに県令安岡良亮により熊本県下の諸学校生徒の断髪令が下された。同年10月24日神風連は決起し、熊本鎮台司令官種田政明を倒し、安岡県令を傷つけ、砲兵営を破ったが歩兵営で苦戦に陥り、彼はそこで重傷を受け、退いて法華坂の民家で死んだ。享年43歳。
加屋霽堅(熊本県熊本市・小峰墓地/熊本県熊本市・桜山神社)
熊本藩士。16歳の時、父熊助は事に座して自刃したので弟妹2人と共に母の里、中村直方にたより窮乏の中に育った。のち国家老溝口蔵人の食客になった。彼は文武に苦学し、武は四天流の奥義に達し、文は林桜園の原道館に入り国学・神道を学び、上野在方・太田黒伴雄らと共に桜園門下三豪の一人となった。万延元(1860)年家名再興を許され昇組となり三人扶持を給された。文久二(1862)年公子長岡護美の状況に際し、これの衛士の一人として宮部鼎蔵らと共に上洛して天下の志士と交わる。文久三(1863)年学習院録事にあげられたが、八月十八日の政変で同志と共に逆境に立ち、元治元(1864)年から慶応三(1867)年まで4年の間、熊本の牢獄に?がれた。明治元(1868)年釈放されて長崎にあり、熊本藩のために諸藩と折衝の任に当った。明治四(1871)年大楽源太郎の乱に連なって河上彦斎らと共に捕えられた。明治七(1874)年県政から実学党は退けられ、彼は加藤社の神官に任ぜられた。明治九(1876)年神風連の乱に当たって大田黒と共にその総裁となり、熊本鎮台に突入、歩兵営にて戦死した。享年41歳。
熊本で起った神風連(敬神道)の乱は、熊本藩三大閥(藩校閥である学校党、横井小楠を中心とした学問実践主義の実学党、そして林桜園門下を中心とした勤王党)のうち、勤王党の中で政府に不満を持つ士族にらによって結成された敬神道が引き起こした反乱でした。
明治政府が断行してきた数々の外交政策や内政の多くは敬神道にとって不満の多いものでした。徴兵令や廃刀令、断髪令など急速な富国強兵政策・欧化政策が彼らの導火線に火をつけたってとこですね。
明治九(1876)年10月24日深夜、敬神道約180名はそれぞれ任務を分担して決起します。高津運記隊は熊本鎮台司令官種田政明少将を斬殺。吉村義節隊は熊本県令安岡良亮邸を襲撃して、とどめこそ刺せなかったものの重傷を負わせました。そして太田黒伴雄・加屋霽堅らは熊本鎮台の置かれている熊本城を襲撃しますが、激しい反撃を受けて太田黒・加屋さんら幹部も続々倒れていき、結果神風連の乱は一日で鎮圧されました。

で、2005年の夏にその史跡を追ったんですが、田原坂方面の探査に予想外の時間を食ってしまい桜山神社に着いた頃はもう資料館まで周るゆとりがありませんでしたよ。墓所の方には神風連の乱殉難者124名の御墓がずら〜っと並んでおり、その奥に林桜園さんを中心に宮部鼎蔵さんや松田重助さんら肥後勤王党殉難者の墓碑がありました。しかし季節柄蚊が多い…。

さらに2010年、花岡山の官軍墓地で犠牲者側の御二人にも邂逅。この地は西南戦争で薩軍が熊本城砲撃のために砲台を据えた場所だけに眺めがいいです。
明治九年 神風連の乱