玉木文之進(山口県萩市・護国山墓地)
萩藩士。文政三(1820)年11歳の時、玉木十右衛門正路の跡を継いだ。天保十三(1842)年初めて松下村塾を開き人材の育成に努めた。とくに吉田松陰・杉民治・宍戸?・久保断三らはその逸材である。その後、藩学明倫館の都講、異船防禦掛等を勤め、また進んで諸郡(小郡・吉田・船木・上関・奥阿武・山代等)の代官を歴任して民政に力を尽くし、郡奉行をも勤めた。明治二(1869)年に隠退して再び松下村塾を興し、教育に専念したが、明治九(1876)年萩の前原一誠の乱に師弟数人が一味したことの不徳を自責し、11月6日先塋の側で切腹した。享年67歳。
玉木さんのスパルタ教育は有名で、どんな文献を採ってもその峻烈さが描かれています。吉田松陰さんも、そして後に日露戦争で第三軍司令官として旅順攻略に当たる乃木希典大将もその薫陶を受けています。今の日本に武士が育たない理由もわかる気がしますね。
奥平謙輔(山口県萩市・大照院)
萩藩士。藩校明倫館に入り、安政六(1859)年その居寮生となった。文久三(1863)年8月選鋒隊士として下関外船砲撃に参加し、元治元(1864)年7月世子上京に従ったが、禁門の変に途中から帰国、慶応元(1865)年4月に長兄数馬の養嗣子となった。慶応二(1866)年5月干城隊に入り、慶応三(1867)年同隊引立掛として討幕軍に加わり、慶応四(1868)年越後・会津に転戦した。明治二(1869)年4月越後府権判事として佐渡を治め、8月辞職して萩に帰った。明治三(1870)年脱退暴動に干城隊を率いて山口藩邸を守衛したが、明治九(1876)年前原一誠と意気相投じ、10月萩の乱を起こして敗れ、11月出雲宇竜港で捕えられ、12月3日ついに萩で斬首された。享年36歳。
前原一誠(山口県萩市・弘法寺/山口県下関市・桜山神社)
萩藩士。天保十(1839)年父の厚狭郡船木村出役に従い移居し、武術を幡生周作に、文学を国司某・岡本栖雲に学んだ。嘉永二(1849)年福原冬嶺に従学したが、翌年帰萩のとき落馬のため長病を患い、武技を捨て再び船木に住して写本に努めた。安政四(1857)年父に従って帰萩、吉田松陰に師事し、安政六(1859)年2月長崎に遊学して英学を修め、6月帰って博習堂に学び、万延元(1860)年病気のため博習堂を退き、文久元(1861)年練兵場舎長となり、文久二(1862)年脱藩上京して長井雅楽の暗殺を謀ったが果たさず、8月江戸に行った。文久三(1863)年正月また上京、6月右筆役となり、7月攘夷監察使の東園基敬に従って時山直八と紀州に行き、八月十八日の政変に帰国して七卿の用掛となった。元治元(1864)年下関で外艦と戦い、12月高杉晋作と下関新地の会所を襲い、慶応元(1865)年正月恭順派藩庁軍と美禰郡に戦った時、諸隊総会計を勤めた。同年3月用所役右筆となり、前原姓を名乗り、干城隊頭取を兼ね、5月国政方に転じ、慶応二(1866)年2月下関越荷方となり、6月幕長戦に小倉口の参謀心得として小倉藩降伏に尽くした慶応三(1867)年12月小姓筆頭となり海軍頭取を兼ね、明治元(1868)年6月北越出兵の干城隊副督となり、蔵元役と兼ね、萩から越後柏崎に上陸、7月越後口総督の参謀となって長岡城攻略に尽くした。明治二(1869)年2月越後府判事となり、6月戊辰戦争の功により永世禄600石を賜り、7月参議に任じ、12月兵部大輔となり、明治三(1870)年9月辞職し、10月病気静養のためと称して萩に帰った。明治九(1876)年10月奥平謙輔・横山俊彦らと党を集め、天皇に訴えて朝廷の奸臣を掃うための東上軍を起こしたが、事敗れて11月島根県宇龍港で捕らえられ、ついで萩で12月3日斬首された。享年43歳。
いわゆる萩の乱で散った悲運の将という感じを個人的には持っています。弘法寺の奥に眠っておられますが、この弘法寺がやや見つけにくく、通り過ぎたりして難儀しました。それでなくてもまだ回らなくてはならない場所がたくさんあるため時間がなくて焦ってましたからもうちょっとで諦めなければならないところでした。この第二次萩調査では事前準備の不足から多くの探査が未了という状況の中での数少ない成果でした。

時は過ぎて2010年。北越戦争の編纂のために写真を撮り直すべく下関の桜山神社を5年ぶりに訪れたところ、熱心に墓碑を眺めておられる御方がおられました。とりあえず邪魔をしないようしばし墓地の周囲を眺めておりましたところ、見たことの無い奇妙なものが墓地の奥の土手に立ってたのです。何だろうと近づいて確認すると・・・「前原一誠大人命」って・・・。その後熱心に墓地を眺めておられた御方・・・山笑様と知遇を得まして、このことを話した上で相談しましたよ。「これは・・・墓碑と認定してもいいですよねぇ・・・」って。おそらく没後130年を記念して、かつての仲間だった奇兵隊士らの傍らにお連れしたのではないかと愚考してますが、確証は無いです。
明治九年 萩の乱