熊谷直孝(京都市下京区・大雲院)
鳩居堂主人。家は筆墨香具師を営む豪商。人となり剛毅で義を好んだ。父直恭は慈善を好み救貧に力を尽くし、また種痘所設けて種痘法の普及を計った。直孝はその志を継ぎ、また、京都に集まる勤王の士と交わり、その運動の資金を与えて支援した。梁川星巌・藤本鉄石・平野國臣・武市瑞山・田宮如雲・桂小五郎(木戸孝允)・松本奎堂らととくに深交があった。元治元(1864)年7月禁門の変の際には長州勢に食糧を贈り、また戦災を蒙った市民の救済を行った。慶応三(1867)年12月、侍従鷲尾隆聚らが高野山に義兵を挙げるに当って300両の軍資金を贈った。新政府が成立すると、召されて朝廷に出入りし、金1000両余を献納したほか種々の内密の命を受けて奔走した。明治初年には、京都の小学校設置に協力し、庶民救護に資金を供出、明治二(1869)年3月積年の功で行政官から終身三人扶持を与えられた。のち京都府権大属となった。明治七(1874)年4月病をもって官を辞した。平素、書を貫名海屋に、画を山本梅逸に学ぶ。家は熊谷鳩居堂として栄えた。明治八(1875)年2月8日没。享年59歳。
本木昌造(長崎県長崎市・大光寺)
蘭通詞、技術・事業家。嘉永六(1853)年小通詞過人に昇進し、下田でペリーやプチャーチンの通訳に当り、安政二(1855)年和蘭条約書を翻訳した。下田出役中に露艦建造に関係して海軍伝習掛となり、万延(1860)元年10月長崎飽ノ浦製鉄所御用掛、ついで取締役となり、同時に同所輸入蒸気船船長として江戸との間の客貨を輸送した。明治元(1868)年製鉄所頭取となり、我が国最初の鉄橋を架設し、グラバーの小菅ドックを購入して長崎造船所の基礎を築いた。また嘉永元(1848)年輸入の植字判一式による洋書の復刻販売を建白し、安政三(1856)年より開業、明治元年官板の新聞『崎陽雑報』を発兌、翌年からガンブルを雇って製鉄所付属の活版伝習所を設け、本格的な活字の鋳造と改良を行い、その業は陽其二・平野富二により横浜・東京で開花した。その他新街私塾、長崎新聞、天草アンチモニーの試掘はみなその手になる。明治八 (1875) 年9月3日死去。享年52歳。
実は本木さんも探査対象じゃありませんでした。失礼な話ですが、その日の探査を終えてお迎えを待ってるときにたまたま時間があったので寄ってみたお寺にあった御墓だったんです。ただ山門のところにあった解説を読んで、これはお迎えしなければという義務感だけで墓所へ御邪魔した次第です。実は凄い方だったんですね。これからは日本のグーテンベルクと呼ばせていただきます(もう呼ばれてるのかな?)。

もへい様寄贈
佐々倉桐太郎(東京都文京区・浄心寺)
幕臣。結城家に生まれたが、浦賀奉行組与力佐々倉家の養子となる。嘉永六(1853)年6月米使ペリー提督来航の折は応接方となって、中島三郎助と共に米艦に赴いた。安政二(1855)年8月第一回海軍伝習生として長崎に留学、安政四(1857)年江戸に帰り、4月築地の軍艦操練所教授方となった。万延(1860)元年遣米使節に随行、咸臨丸に教授方として乗船、運用方を担当して活躍した。帰朝後は引き続き操練所に勤務したが、肺患のために文久三(1863)年から慶応元(1865)年の間勤務を辞し、閑地で療養した。この間、長崎や大坂にしばしば船で旅行した。その後江戸に移り、浜御殿内で海軍伝習の事に従った。慶応四(1868)年正月軍艦役となったが、幕府瓦解後は浦賀に戻り、さらに徳川氏の静岡移封に従った。静岡では権少参事となり水利路程ぼことを担当した。この間長男松太郎は榎本軍に加わった。明治四(1871)年12月兵部省出仕、海軍兵学校の兵学助の任に就き、明治五(1872)年兵学寮監長を兼務、明治六(1873)年3月兵学権頭となったが、明治八(1875)年暮れ病のため辞職、12月17日没した。享年46歳。
明治八年