前田慶寧(石川県金沢市・野田山前田家墓所)
加賀藩主。世子のころ側近に勤王の士集まり、親長的傾向が強かった。元治元(1864)年父に代わって上洛、御所警固の命を受けたが、長州藩のためにしきりに斡旋した。しかし事ならず、ついに禁門の変起るや病と称して退京したため、帰藩後謹慎・幽居を命ぜられたが、彼をめぐる勤王の士は一網打尽に逮捕され、処刑された。やがて慶応二(1866)年父斉泰退老により藩主となり種々改革を行ったが、藩内の勤王派が一掃されていたため側近に具眼の士乏しく、慶応四(1868)年鳥羽伏見の戦にあたっては、前将軍徳川慶喜との親交関係から、あえて援軍を出さんとした。幸い出兵は途中で止められたが、このため、藩は一時苦境に立たねばならなかった。のち北越戦争に出兵、明治二(1869)年には金沢藩知事に任じ、明治四(1871)年廃藩によって東京に移住したが、明治七(1874)年5月18日病で没した。享年45歳。
もへい様寄贈
唐橋在光(東京都新宿区・常円寺)
堂上公家。家業の紀伝道を継ぎ、弘化元(1844)年12月東宮学士に任ぜられ、弘化四(1847)年12月大内記となり、嘉永六(1853)年正月文章博士を兼ね、12月少納言に任ぜられ、安政三(1856)年12月従三位に叙せられた。安政五(1858)年3月条約勅許問題の起きた際、外交措置を幕府に委任するという勅裁案の変更を要請して八八卿列参に加わった。安政六(1859)年10月式部大輔となり、万延(1860)元年正月正三位に昇叙せられた。なお同年9月には祐宮(明治天皇)の親王宣下に当って、名(睦仁)を勧進した。明治七(1874)年6月9日没。享年48歳。

もへい様寄贈
池田徳太郎(東京都台東区・谷中墓地)
広島藩士。15歳から19歳まで九州に遊学し、広瀬淡窓や筑前の亀井華卿らに学んだ。のち江戸に遊学したが、尊攘論が盛んになってから清河八郎らと尊攘派として行動し、一時幕府の獄に?がれた。放免されてから新徴組の隊士になっていたが、元治元(1864)年9月広島藩士に登用され、五人扶持で勘定所支配下に内密用向を勤め、船越衛らと国事に奔走、薩長芸三藩会盟にも参与した。慶応四(1868)年7月徴士軍務官権判事に挙げられ、東北遊撃軍将副参謀、ついで参謀となって各地に転戦した。明治二(1869)年7月若森県権知事、さらに新治・島根両県令を経て明治六(1873)年岩手県参事、明治七(1874)年には青森県令になったが、9月12日没。享年44歳。
明治七年