津崎矩子(京都市右京区・直指庵)
幼い頃から近衛家に仕え、村岡局と称した。安政の末期、条約勅許問題と将軍継嗣問題が相錯綜して時局の紛糾した折、主人左大臣忠?は朝政の要枢を預かり、朝権回復のために最も活躍したが、その側近にあって在野の諸志士との連絡・周旋に努めた。安政五(1858)年一橋慶喜の将軍継嗣擁立に関して、清水寺成就院僧忍向(月照)と共に薩摩藩士西郷吉之助(隆盛)、水戸藩京都留守居鵜飼吉左衛門・幸吉父子と通じてその入説を忠?に周旋し、水戸藩に対する勅諚の下賜に関与したこと等の嫌疑により、12月京都町奉行所に喚問され、安政六(1859)年2月関東に送られ、8月押込三十日に処せられた。文久三(1863)年尊皇攘夷の運動がますます活発になると、幕府の嫌疑を受けて再び捕らえられ、糾問されたが、数月にして釈放された。明治維新に際して多年王事周旋の功により賞典録二十石を下賜され、爾来嵯峨の山荘直指庵に籠って自適の生活を送った。明治六(1873)年8月23日没。享年88歳。
ゴールデンウィークの京都はとにかく人が多い…個人的には見るにしても撮るにしても人が少ないに越したことは無いです。そんなわけで今回は郊外を狙う名付けて「第一次右京区墓碑制圧作戦」!。現時点で判明している右京区所在者は13人。そのうち佐久間象山先生はすでに訪れていますので、12人を調査しようというわけです。そこで最初に行ったのは三条実万卿や鷹司家ら6人がおられる二尊院でした。が…拝観料500円取られるということがわかって敢え無く退散しました。何せニ尊院に眠るのが最終的に何人になるかわからないので泣く泣くスルーです。そこで次に行ったのが直指庵でした。来るとき通った天竜寺や大覚寺とは比較にならない静寂さ、狭いながらも庵全体がマイナスイオンに包まれているようなところでした。ここは村岡局様以外におられないことがわかっていたので拝観料500円払って中に入りました。あとあとの予定が無かったらゆっくりとしたかったです。
沢宣嘉(東京都文京区・伝通院)
堂上公家。嘉永五(1852)年10月叙爵、嘉永六(1853)年正月備前介、12月主水正に任ぜられ、安政三(1856)年正月従五位上に昇叙せられた。安政五(1858)年3月外交処置に関する勅裁案の修正を請うて廷臣八十八卿が列参した際、父為量と共にこれに加わった。早くより三条実美や天下の志士と交わって攘夷説を唱え、文久二(1862)年5月国事御用書記を命ぜられるや、他の書記と連署して攘夷貫徹に関する叡旨を候し、文久三(1863)年2月橋本実麗らと共に書を鷹司輔?らに呈して庶政刷新・攘夷決定を建言した。同月国事寄人となり、7月東園基敬らと連署して攘夷親征を建言するなど、攘夷実行の機運を醸成する力があった。しかし八月十八日の政変により参朝を停められたが、三条実美ら同志の公卿6人と共に長州藩を頼って海路三田尻に赴き招賢閣に入った。このため官位を奪われて宣と改名した。時に筑前の志士平野国臣らが兵を挙げて大和の天誅組に呼応せんとするや、宣嘉はこの挙に賛して招賢閣を脱出、10月国臣らと共に但馬国生野に挙兵した。この時の変名が姉小路五郎丸である。しかし機なお熟せずして敗れ、宣嘉は漸く重囲を脱して讃岐・伊予を経て長州へ帰り、大井浦に在ったが、同藩俗論党の目を避けるために海島に匿れた。したがって他の六卿とは別々になった。元治元(1864)年8月一族より義絶されたが、慶応三(1867)年12月王政復古とともに位階を復せられ、義絶も許された。慶応四(1868)年正月長州より帰洛すると同時に参与に挙げられ、九州鎮撫総督兼外国事務総督を仰せ付けられ、2月長崎裁判所総督となり、閏4月参与を免じ、従四位下右衛門権佐に叙任され、5月長崎府知事となり、明治二(1869)年3月再び参与となり、5月外国官知事、7月従三位に昇り外務卿に任ぜられ、9月維新の功績により賞典禄八〇〇石を永世下賜された。明治四(1871)年7月免官の上、、麝香間祗候を仰せ付けられ、8月盛岡県知事に任ぜられたが、すぐこれを辞した。明治六(1873)年2月露国駐在特命全権公使に任ぜられたが、病のため赴任するに至らず9月27日薨じた。享年39歳。
明治六年