玉松操(京都・清浄華院)
侍従山本公弘の子。8歳のとき醍醐の無量寿院に入って出家得度、法名を猶海と改め苦学修行して大僧都法印に任ぜられたが、僧律改革を唱えて意見合わず、30歳で下山還俗して山本毅軒と改め、さらに玉松操と称した。嘉永・安政年問は泉州に文久・元治年問は江州坂本に私塾を開き、読書三昧の傍ら子弟に国学を講じて勤王の大義を説いた。慶応三(1867)年門人三上兵部の紹介で蟄居中の岩倉具視に会い、忽ち意気投合して腹心となり謀議に参与した。同年12月9目小御所会議の席上、岩倉の示した王政復古詔勅案は操の草案で、その文章のすばらしさは列座の諸公侯を感嘆させた。王政復古の大業を画策するにあたって、官職や制度は神武創業に基づき、公武を超越した郡県一統の大帝国建設を根本方針とすべきことを具視に献策した。また早晩徳川との一戦を予想して作製した錦旗の図式は、のちに日月二流の「錦の御旗」として政府軍の士気を鼓舞した。明治二(1869)年徴士内国事務局権判事、翌三(1870)年3月大学中博士をもって侍講を兼ねたが、新政府の方針と相容れないものがあり、四(1871)年正月退官。明治五(1872)年2月不遇のうちに病没した。
ごめんなさい! 知りませんでした。姉小路さんの御墓捜索の時に初めてこちらにあることを発見して、ありゃりゃ?って状況でした。背景の家紋も迷ったのですが、実際出自は朝廷に関連していると言うことで菊花紋にしました。まぁそれにしても不思議な巡り合わせです。

もへい様寄贈
青山忠敏(東京都品川区・東海寺玄性院)
篠山藩主。文久二(1862)年2月襲封、文久三(1863)年八月十八日の政変に際し二条城を警備し、浪士・長州兵の逮捕に当り、また同年10月の生野義挙には鎮圧のため出兵し、元治元(1864)年7月禁門の変では幕軍に属して禁裏の護衛に当った。慶応元(1865)年正月奏者番となった。明治二(1869)年6月版籍を奉還して篠山藩知事となり、明治四(1871)年7月廃藩後は東京に移住し、明治六(1872)年3月21日没。享年40歳。
川上吉太郎(滋賀県彦根市・天寧寺)
彦根藩士。12歳の時に父を失い、苦学力行して数理・易理に精しかった。藩命により江川太郎左衛門につき砲術を学ぶ。弘化四(1847)年相模警備に際に用いた加農砲・臼砲は全て江川の縁で調達し、装備は一新するに至った。安政元(1854)年大砲組創設の時はその主役となり、西洋砲の鋳造、地雷火の考案、ついで線条砲の鋳造に功があり、文久三(1863)年在勤中士分に列し、明治二(1869)年新知百石となり、藩庁政治館社寺長兼民政長として藩政にも貢献した。なお彼は藩の勤王派至誠組の一員でもあった。明治五(1872)年4月7日没。享年60歳。

もへい様寄贈
佐藤泰然(東京都台東区・天王寺墓地)
医師。泰然は天保元(1830)年、医に志して足立長雋に入門し、天保六(1835)年長崎に赴き商館長ニーマンについて医学を学んだ。天保九(1838)年江戸に帰り薬研掘に開業したが、事情があって天保十四(1843)年8月堀田正睦の城下である佐倉に移り、日本最初の私立病院順天堂および順天塾を開いた。初めは客分であったが、嘉永六(1853)年2月から給人医師上座として堀田氏に禄仕した。医術のほかに藩主正睦の外交に関するブレーンの一人であった。安政六(1859)年4月隠居して安政六(1859)年4月隠居して養嗣の舜海(尚中)があとを継いだ。明治五(1872)年4月10日没。享年69歳。
小原鉄心(岐阜県大垣市・全昌寺)
大垣藩士。大垣藩は天保の飢饉以降揖斐川の氾濫等に災いされて上下困乏疲弊の極に達した。鉄心は天保十三(1842)年家督を継ぎ、嘉永三(1850)年改革の御用向を命ぜられ、身をもってこれに当った。改革の草案「矯弊私記」を宮津侯の臣中山晦三に示して教えを乞うた。「矯弊私記」付録を作り、租法を改め、冗費を省いて財政を釐革した。嘉永・安政時のペリー来航には、幕命を受けて藩兵を率い浦賀奉行戸田氏栄を助けて警備に当った。慶応四(1868)年正月参与に選ばれて新政府に仕えたが、たまたま鳥羽伏見の戦いに大垣藩は旧幕軍に属し、子兵部は鳥羽街道の先駆を命ぜられ淀に向った。鉄心は兵部に大義名分を説き、先駆を辞退させようとしたが時遅く、大垣藩は一時朝敵の汚名を受けた。父は政府軍、子は旧幕軍の悲嘆にあい、急ぎ大垣に帰り、天に二日なく地に二王なしの意をもって藩論を統一し、大垣藩は東山道軍の先鋒となり功を立て、汚名をそそいだ。その後鉄心は会計官判事。江戸府判事兼帯を歴任し、明治二(1869)年6月藩主戸田氏共が大垣藩知事となると、大垣藩大参事に任ぜられた。詩文を能くした。交遊は広く、梁川星巌・佐久間象山・藤村弘庵・高島秋帆・大槻磐渓らと親しく、老梅数百株を別荘に移植して無可有荘と名付け、諸名士と交遊した。明治五(1872)年4月15日没。享年56歳。

もへい様寄贈
長岡兼吉(東京都港区・増上寺安養院)
医者・海援隊士。河田小龍の門下で江戸・大坂に遊学して医学・詩文を学んだ。家が代々医家であったので、安政年中長崎に赴き、シーボルトに入門したが、シーボルト事件の嫌疑を受け、帰国後追放となり、長岡郡鹿児村に蟄居した。のち釈放されて長崎に出て、坂本龍馬の配下となり、海援隊の書記として活躍した。いろは丸沈没事件では龍馬と共に交渉に当り、竜馬と死を共にした下僕藤吉を龍馬に紹介したのも彼であった。海援隊の往復文書はほとんど彼の手になり、慶応三(1867)年龍馬が後藤象二郎に与えた「船中八策」は、竜馬の意を受けて起草したものである。同年長崎浦上地方のキリスト教再燃の様子を見て、「閑愁録」を著して海援隊から出版した。慶応四(1868)年戊辰戦争にあたり、高松・松山藩に対し、正月11日土佐藩に征討令が発せられたとき、情報を得た兼吉は高松に赴き、旧知の藤沢南岳を説いて藩主の恭順をすすめて成功し、同志と塩飽島の動揺を鎮撫するなど功を立てた。4月12日京都において藩の大監察小南五郎右衛門から海援隊長に新任されたが、18日には新政府に海軍創立案を提出するなど、龍馬のあとをうけて活動し、6月9日には三河県知事に就任し、ついで大津県・大蔵省・工部省に出仕し、明治五(1872)年6月11日東京で病死した。享年39歳。
山内容堂(東京都品川区・下総山墓地)
土佐藩主。弘化三(1846)年3月父豊著隠居後、蔵知千五百石を受けて分家南屋敷山内家を相続した。嘉永元(1848)年9月十四代藩主山内豊惇病死、実弟豊範幼少のためその養嗣、12月本家を相続して土佐藩第十五代の藩主の座を占め、吉田東洋を起用して藩政改革を推進、その才学と気鋭を認められた。将軍世嗣問題の起るに及び、松平春嶽・伊達宗城・島津斉彬らと結んで水戸斉昭の子一橋慶喜を推し、紀伊の徳川慶福(のち家茂)を擁する大老井伊直弼と対抗した。同時に条約勅許問題にも関与して、縁戚三条実万と結び、京都朝廷に通謀したという理由で、安政六(1859)年2月井伊大老に迫られて隠居、家督を養嗣豊範に譲った。同年10月には上記の理由によって幕譴を受け、府下品川鮫洲の別邸に謹慎となったが、藩祖一豊以来山内氏の受けた徳川家の恩顧を忘れず、公武合体をもって政治の理想とした。文久二(1862)年4月謹慎を解かれると、一橋慶喜・松平春嶽に協力して朝旨を遵奉、幕府の政治改革に周旋し公武融和に奔走した。他面土佐藩内における保守・急進派の駕御に苦しみながら時勢への注視を怠らず、幕府の衰退を洞察して、慶応三(1867)年10月将軍徳川慶喜に政権奉還を建白し、公議政体による平和改革を建策した。慶喜はこれを採用したが、薩長勢力は佐幕勢力への圧力を緩めず、12月9日政変による王政復古令を発表した。豊信は同夜小御所の会議でその非を鳴らし、岩倉具視と激論したが用いられず、その後も松平春嶽・徳川慶勝と協力して慶喜救解に全力を尽したが、ついに鳥羽伏見の開戦となった。王政復古と同時に議定に任ぜられ、慶応四(1868)年正月内国事務局総督となり、閏4月刑法官知事に転じ、12月学校知事を兼ね、明治二(1869)年6月戊辰の戦功により豊範と共に賞典禄四万石を賜わり、さらに9月復古の功によって五千石を終身下賜され、橋場の別荘に隠居。明治五(1872)年10月9日、詩酒の間に自適の生涯を終えた。享年46歳。
容堂公は龍馬人気もあってどちらかといえば敵役的な印象が持たれているようですが、実際は挫折の連続みたいな感じで、「もう呑まなきゃやってらんない!」っていうような厭世観を持っていたのかもしれませんね。青年藩主として勇躍幕政改革に臨もうと張り切っていたら、大老井伊直弼らに潰されてたちまち隠居…。公武合体を目指して頑張ろうと思ったら土佐勤王党によるクーデター…。禁門の変で攘夷勢力が弱ったのでやっと土佐勤王党を粛清したと思ったら世の中は倒幕へと急速に流れて行き…小御所会議で最後の抵抗を試みるも薩長の壁の前に敢え無く沈没…。呑まなきゃやってられない!
明治五年