大場一真斎(京都市左京区・長楽寺/茨城県水戸市・常磐共有墓地)
水戸藩家老。天保二(1831)年家督を継ぎ、大番頭・若年寄を経て弘化元(1844)年大寄合頭に進み、安政五(1858)年致仕した。内外多事に際して再び挙げられて執政となり、武田耕雲斎・岡田徳至らと並んで水戸の三隠大夫と呼ばれ、激派の間に隠然たる勢力があった。安政五(1858)年8月水戸藩に密勅が降下するや、やがて返納・不返納の両論に分かれたが、一真斎は終始返納不可の立場をとった。万延(1860)元年2月藩論ようやく返納に傾き、長岡屯集勢へ討手派遣が決したが、これを長岡勢へ内通して解散させたことが露見して城中に留め置かれ、同月25日をもって勅書返納の大任を命ぜられた。しかし斎藤留次郎の自刃により返納は中止された。文久元(1861)年6月東禅寺事件が発生し、岡田・武田と共に参政を免ぜられ、謹慎に処せられたが、同年執政に復し、文久三(1863)年春には藩主徳川慶篤に従って上京し、京都守衛に任じた。慶応三(1867)年12月12日前将軍慶喜の京を去るに際して二条城の留守を命ぜられた。慶応四(1868)年正月藩政改革の勅命を辞して京都に留まり、余生を送った。明治四(1871)年1月15日没。享年69歳。
森山多吉郎(東京都豊島区・本妙寺)
オランダ通詞。蘭・英語に通じ、嘉永元(1848)年西吉兵衛と共に蘭通詞に諸外国語を教授、嘉永四(1851)年よりエゲレス語和解の編修に従い、プチャーチンおよびペリー再来に際して通訳、江戸でも家塾を開いた。文久二(1862)年竹内保徳ら遣欧使節に外国奉行調役兼通詞方として加わり、英露を歴訪、樺太国境問題で北緯50度説をオランダ版地図により決定した。帰国後通弁役頭取、外国奉行支配調役、兵庫奉行付組頭を歴任したが、維新により下野し、明治四(1871)年3月16日東京で没した。享年52歳。
毛利敬親(山口県山口市・香山園)
第13代長州藩藩主。天保八(1837)年4月萩藩主毛利斉広跡の家督を継いだ。天保十(1839)年・天保十一(1840)年質素節倹と流弊の改正を企て、村田清風らを登庸して財政整理と文武の興隆に着手し、天保十二(1841)年・天保十三(1842)年江戸に文武修行の有備館を建て、藩内の淫祠解除・町村実態調査、天保十四(1843)年の萩羽賀台の大操練を行うなどの具体策を実施し、また嘉永二(1849)年藩校明倫館の革新を行った。嘉永六(1853)年6月米艦渡来に大森を、11月相模を護衛、安政五(1858)年6月兵庫警衛に転じ、また8月密勅降下して尊王に尽力することとなった。文久元(1861)年3月長井雅楽の航海遠略策をもって朝幕間の周旋に努めたが失敗し、文久二(1862)年7月攘夷実行方針でのぞむこととし、文久三(1863)年4月萩城を出て山口に移鎮し、5月朝命を奉じて下関で外船を砲撃した。しかし八月十八日の政変によって入京を禁じられ、元治元(1864)年7月禁門の変を引起したため征長令が出されて、8月官位を削られ、恭順を表して10月萩に謹慎した。慶応元(1865)年3月藩内恭順派は高杉晋作らの革新派に敗れて藩是一定し、5月倒幕方針を藩内に示した。慶応二(1866)年8月幕長戦に勝ち、慶応三(1867)年10月倒幕の密勅を受け、11月藩兵を東上せしめ、12月官位を復旧した。明治元(1868)年5月上京し、9月参内して左近衛権中将に任ぜられ、一旦帰藩した。明治二(1869)年正月薩摩・土佐・肥前の三藩主と連署して版籍の奉還を奉請し、2月上京し3月帰藩した。同年6月権大納言に進み、世子広封(元徳)とともに賞典禄10万石を下賜され、同月家督を広封に譲って隠居した。明治三(1870)年5月東京に行き参内して10月帰国し、明治四年3月朝廷へ遺表を献呈して山口藩庁内殿で27日病死した。享年53歳。
朝の大雨のおかげで山口市に着いたのは15時くらいでした。しかも朝日山招魂場で右足をまた痛めるし結構コンディションは悪くなってしまいました。元々左足が悪かったはずなのに高知遠征の最後で左を庇い過ぎて右膝を痛めて以来ずっと右に移ったままっちゅうのは一体どういうことなのよ?おかげで瑠璃光寺のなだらかな参道さえも結構苦痛に感じてしまいました。
川崎董(山口県下関市長府・正円寺)
長府藩士。嘉永四(1851)年川崎順之助の養子となり、嘉永五(1852)年家督を継いだ。嘉永六(1853)年江戸藩邸に勤め大森警備に参加し、宋藩士来原良蔵と親交をもった。ついで藩命により下曽根流の蘭式砲術銃陣を修め、業成って藩邸士卒に教授した。安政年間、相州陣営に大砲方として出張すること数回、しばしば藩主より賞せられた。文久三(1863)年帰藩し、家格を馬廻席に進め、秩禄五五石を与えられ、中間頭を命ぜられ、下関攘夷戦に奮闘した、元治元(1864)年側横目役兼軍議掛となり、慶応元(1865)年西洋流砲術の心得に厚く、門弟取立て、海岸防御の労を賞されて加増本高八〇石となり、慶応二(1866)年の幕長戦に軍監として豊前小倉口に戦い、明治二(1869)年軍政管事となったが、のち諸職を辞して家居し、ついで明治四(1871)年4月27日病死した。享年49歳。
長谷川鉄之進(京都市東山区・霊山墓地)
越後国蒲原軍粟生津村の庄屋の子。はじめ鈴木文台に師事し、弘化四(1847)年江戸に出て朝川善庵の門に入った。善庵没後、常毛の間に経史を講じていたが、尊攘の論起るや塾を閉じ、各地を周遊して京に上り、文久三(1863)年七卿落ちに従って周防三田尻に下り、忠勇隊の幹部として元治元(1864)年禁門の変・下関戦争に奮戦した。その後四国より奥羽を遊説して越後に入り、村松の七士らと画策していたが、また京に上り、明治元(1868)年政府軍を先導して越後に入り、同志と連絡して活躍した。戦後その功により朝廷より賞典を賜り、京都に寓居した。明治四(1871)年11月3日病没。享年50歳。

もへい様寄贈
河上彦斎(東京都大田区・本門寺〔上〕/熊本県熊本市・桜山神社〔中〕/京都市東山区・霊山墓地〔下〕)
肥後藩士。林桜園に学業を受け、同門に太田黒伴雄・加屋霽堅などの神風連の首領たちがいて親交があった。文久元年出羽の志士清河八郎の来熊により刺激をうけ、藩論に働きかけたが保守的な藩主流の学校党は容易に動かず、ついに再度の内勅によりやっと文久二年藩主名代とLて先発した長岡護美に同伴して上洛、坊主職を免ぜられ蓄髪を許された。その後も滞京して熊本藩選抜の五四人の親兵のうちに加えられた。元治元年佐久間象山が幕府の密命をうけ上洛して公武合体論・開国論を説くや、七月十一日因幡の前田伊右衛門と共に白昼三条木屋町に襲い刺殺した。ついで禁門の変で長州軍に加わり敗れて長州に逃れた。再度の長州征伐の際、長州側にあった彦斎は熊本藩が幕軍につき小倉にて長州兵と戦うのをみて噴慨し、慶応二年二月八代に潜行して松井国老に説いたが捕えられ投獄された。明治元年鳥羽伏見の戦いが起ると熊本藩も勤王に転じ、彦斎を藩庁書記・軍事掛に任命した。長岡護美は彼を伴い上洛、このころ高田源兵衛と改称した。しかし新政府の方針が開国に決するや彦斎は憤慨して帰国し、二年豊後鶴崎(熊本藩領)兵隊長を命ぜられたが、三年七月藩政改革で罷免された。この問、長州脱走の士大楽源太郎以下をかくまったり、反体制的言辞を弄したので、隠謀の嫌疑により逮捕され12月3日刑死した。
自称?「皇国忠義士」。幕末の人斬りといえば必ず出てきますが、本当のところ象山先生以後は誰も斬っていないようです。というより象山先生以外に誰を斬ったのかもよくわからず、はっきりしているのは骨の髄まで勤王だと言うことです。でもここまで信じられる道があるというのは羨ましくもあります。
明治四年