大楽源太郎(福岡県久留米市・遍照院)
長州藩士。幼時に吉敷郡台道村の旦に移住し、天保十四(1843)年12歳の時、同地の大楽家を継いだ。ついで玖珂郡遠崎の海防僧月性の薫陶を受け、安政二(1855)年24歳で豊後国日田の広瀬淡窓塾に入った。翌年淡窓病死後帰国して佐波郡右田の太田稲香に学んだが、間もなく上京し頼三樹三郎・梅田雲濱らと交わり、水戸に行き同藩の志士と交わりを結んだ。安政の大獄に嫌疑を受けて一時萩に幽閉され、許されてまた京都に上り、高杉晋作らと尊攘の事に奔走した。元治元(1864)年禁門の変には淀藩との交渉に当り、慶応元(1865)年高杉の下関挙兵に呼応して佐波郡宮市に忠憤隊を組織した。慶応二(1866)年台道に私塾西山書屋を開き諸隊志士の養成に努め、藩府の招きにも応ぜず、ついに明治二(1869)年山口脱退騒動の首謀者となった。また大村益次郎暗殺計画者の疑をも受け、明治三(1870)年3月脱走して豊後姫島に入り、ついで久留米藩の応変隊にかくまわれたが、明治四(1871)年官兵の探索にかくまい切れず、同藩人のために筑後川河畔に暗殺された。享年40歳。
小野新(福岡県久留米市・遍照院)
長州人。大楽源太郎の門弟。明治四(1871)年3月16日夜、筑後川豆津浜で大楽と共に久留米藩士に殺害された。享年不明。
村上要吉(福岡県久留米市・遍照院)
大楽源太郎の僕。明治四(1871)年3月16日大楽の死を知り久留米津福墓地で自殺。享年不明。
山形源吾(福岡県久留米市・遍照院)
長州藩児玉若狭家来。大楽源太郎の弟。第二奇兵隊書記。兄と行を共にし明治四(1871)年3月16日久留米豆津浦で共に斬殺された。享年不明。
小河吉右衛門(福岡県久留米市・遍照院)
久留米藩士。明治元(1868)年1月佐幕派参政不破美作を同志と暗殺。明治三(1870)年応変隊参謀。明治四(1871)年12月3日大楽源太郎事件に座して東京で斬。享年25歳。
阿部琢磨(福岡県久留米市・遍照院)
久留米藩士。大楽源太郎事件に座し、明治四(1871)年12月3日東京で斬。享年42歳。
楠本勘兵衛(福岡県久留米市・遍照院)
久留米藩士。大楽源太郎事件に座し、明治四(1871)年12月22日東京で斬。享年67歳。
楠本省吾(福岡県久留米市・遍照院)
久留米藩士。大楽源太郎事件に座し、明治四(1871)年12月22日斬。享年20歳。
矢野寿助(福岡県久留米市・遍照院)
久留米藩士。明治四(1871)年12月22日東京で斬。享年44歳。
念のために申し上げますが、「久留米藩・難事件」ではなく、「久留米・藩難事件」です。前者だと何かの2時間サスペンスか推理小説のタイトルみたいになっちゃいますんで…。それで、この事件は元々明治二(1869)年に大村益次郎が暗殺された事件の実行犯の一人である神代直人さんが大楽さんの門下であったことから大楽さんまで疑われてしまい、その上奇兵隊を初めとする諸隊解散令に反発して一部隊士らが暴動を起こしましたが、その件も大楽さんが裏で糸引いてたんじゃないかって疑いかけられたりしてその身が危うくなり、長州から逃亡したことに端を発しています。まぁ普段から倒幕の志士だった仲間が官僚ととして栄達する姿に苦言を呈してたから、政府に睨まれる素地はあったんですけどね。そんな意味ではこの方も根っからの尊攘派ですね。
折りしも久留米では小河さんらがやはり同様の理由で新政府の転覆を企んでましたから、この2つの勢力が結びつくのは必然かもしれません。

大楽さんらの御墓は「耿介(こうがい)四士の墓」と呼ばれています。「耿介」とは「節操を守ることが堅くて世俗と合わない様」ということで、そのものズバリの言葉だと思います。
この御墓を明治二十六(1893)年に建てたのは大楽さんを暗殺した久留米藩士のうち川島澄之助さん・松村雄之進さん・柳瀬三郎さんの3人で、この御墓の横に彼らの御墓も建っています。
小河さんらの御墓は「辛未遭難志士之墓」と呼ばれ、こちらは明治二十八(1895)年に建てられています。
明治四年 久留米藩難事件