西村均平(京都市東山区・霊山墓地)
水口藩士。明治三(1870)年2月14日死去。他詳細不明。
鍋島直正(佐賀県大和町・春日山御廟所)
佐賀藩第十代藩主。天保元(1829)年2月家督相続。藩財政の窮乏を改革しようとし古賀穀堂を用い、勤倹励行・殖産興業をはかり備荒救荒、杜会的施設に意をそそいだ。年来の大任、長崎警備を重視して軍用金を蓄え、兵器を製造改良し、砲台を築きとくに反射炉の設立、大砲の鋳造では全国的に有名。長崎警備のかたわら、海外文明の移殖に努め、蘭学・英学を奨励し、医術を究め学老を優遇した。種痘の施行なども自らの子女にこれを試みて奨励した。嘉永六(1853)年アメリカのペリーが浦賀に、ロシアのプチャーチソが長崎にそれぞれ軍艦4隻ずつを率いて来着したとき、幕府がアメリカの国書について諸大名の意見を求めたが、直正は断乎として攘夷を主張した。安政五(1858)年オランダ人に晨風丸を製造させ、電流丸を購入した。翌六(1859)年長崎警備の功により左近衛権中将に任ぜられ、文久元(1861)年隠居して名を閑叟と改め家督を直大に譲った。同二(1862)年閏8月、朝廷より内命があり公武合体の周旋につとめるように命ぜられた。しかし病気養生のため江戸藩邸より一旦帰国し、慶応三(1867)年7月上京をうながされ入京参内し、翌明治元(1868)年2月議定となり軍防事務局補・制度事務局補を命ぜられた。二(1869)年5月上院議長・蝦夷開拓督務を兼任、のち開拓使長官となり大納言に任ずる。三(1870)年4月病を発し、伊豆熱海で保養したり、オランダ医ボードインの診療をうけたりしたが、効なく没した。享年58歳。
ここに辿り着くまで大変でした。島さんのおられる来迎寺から歩いてきたのですが、途中でジュースを飲み尽くしてしまい補給のために自販機を探したのですが全然無いんです。暑い最中汗が出まくったおかげで体は水分を求めてくるのにぜーんぜん無い。やっと自販機を見つけたときは地獄に仏でした。乏しい小銭から張り切って500円玉を入れると…返却されました…。仏は一転してオニ〜ッ!!になりました・・・。またしばらく渇きに耐えながら歩くと今度は2台登場!今度こそはと再び500円を入れると…返却されました…。さすがにこのときは「まさか変造硬貨では!?」と500円を調べましたが間違いなく新造500円玉でした。それでもう1台のほうに投入したら…返却されました。なぜじゃ〜と心中叫びながら次に1000円札を入れると…受け入れてくれました!もう嬉しいの何の…早速コーラを買っておつりを見るとニッケル製旧500円玉…まさか…。ここからは私の推測ですが、この辺りの自販機はまだ新造500円硬貨に対応していないのでは…。恐るべし大和町!
宮川助五郎(京都市東山区・霊山墓地)
土佐藩士。慷慨の士で勤王心に厚く、馬廻格の上士であったが、下士の志士と交わり、文久二(1862)年五十人組の総組頭として山内容堂護衛のため江戸へ出た。爾来京都と郷国との間を往来して国事に努めたが、慶応二(1866)年9月13日の夜、三条橋畔の幕府の制札を除くため出かけ、新撰組に襲われ重傷を受けて人事不省となり、壬生の屯所に収容された。のち土佐藩への引渡しとなったが、脱走して各地に潜伏した。中岡慎太郎の遭難は、宮川引取りの意見を聞くため中岡が坂本龍馬を訪問したために起った。維新後赦免され、明治元(1868)年の戊辰戦争に軍曹に召出され、明治二(1869)年小監察として函館辺海に出張した。明治三(1870)年6月東京で死去。享年27歳。

もへい様寄贈
横山安武(鹿児島県鹿児島市・旧福昌寺境内/東京都杉並区・大円寺)
薩摩藩士。15歳で薩摩藩儒横山安容の後を継ぐ。このころから小姓として藩主の側近に仕え、やがて島津久光第五子悦之助(忠経)の輔傳となる。慶応三(1867)年春、久光に従い上京して側近にあった。久光の信任を得、公子の藩外遊学をすすめ、ともに佐賀・山口に赴く。明治二(1869)年末、山口の諸隊事件報告のため独断帰国したのが久光の怒りにふれ役を免ぜられて野に下る。のち陽明学に心をよせ、京都に出て同郷折田要蔵の食客となり、伝習録を読む。その影響から時の政府大官警告のため、明治三(1870)年6月東京に出て時弊一〇条を掲げた建白書、折からの征韓論義反対論を草し、7月26日夜、集議院門前に竹頭にはさんで掲げて割腹諫死した。享年28歳。これは当時の政府に多大の衝撃を与えた。西郷隆盛はその碑銘を書き、折田要蔵が「横山安武死諫始末」を草している。
旧福昌寺にある西郷さん揮毫の碑ですが、まだ「隆永」を用いていた頃に書かれたものです。それが改名されたために無理やり上から「盛」の字を刻んでいます。
高林貞助(京都市東山区・霊山墓地)
水戸の人。御親兵として東幸供奉。箱館で戦う。明治三(1870)年9月10日東京で死去。享年23歳。
林桜園(熊本県熊本市・桜山祠殿)
熊本藩士、国学者。長瀬真幸に師事して国典を究め、19歳のとき独自の神道的生死感を述べた「昇天秘説」を著した。彼の学は和・漢・仏を始め蘭学・天文・兵学など広い視野を持ち、のち原道館を千葉城付近に開き門弟を育成した。横井小楠・大村益次郎・吉田松陰・真木和泉を始め1400余人が師事した。幕末肥後勤王党の諸士はほとんど門下生で、とくに神風連の思想的根拠は彼に負うところが多い。一生娶らず、明治三(1870)年10月28日門弟太田黒伴雄(神風連首領)宅で没した。享年74歳。
いわば西日本の尊王攘夷思想の柱を作った大先生というところでしょうか。門下は他にも宮部鼎蔵さんや河上彦斎さん、錚々たるメンバーですしね。言い出せば長州や久留米に孫弟子がわんさかいるってことになります。しかし久留米とお膝元の肥後熊本藩は維新を迎えるときにはすでに人材が尽きていました。それをどんな気持ちで見ていたのか聞いてみたいところです。
雲井龍雄(東京都荒川区・回向院)
米沢藩士。少年時代には天才的詩人との評判が高かった。15歳で藩校興譲館付設の有于堂に学んだが、形式的な校風になじめず、出席率が悪かったので退学処分になった。18歳のときに同藩の小島才助の養子となり、20歳で家督を継ぐ。そのころ米沢信夫町の藩士の女よし子と結婚した。慶応元(1865)年正月、22歳のときに江戸警衛に派遣され、任期後も儒者安井息軒の門に入って多くの俊秀と交わり、多難なる世情に対して情熱を燃やした。一年余りで米沢に帰った龍雄は、正しい情勢認識の上に藩論を決すべきであることを説き、自ら藩命を受けて京都に潜行した。慶応四(1868)年薩長軍が討幕戦争を開始し、封建制度を横奪する野望に憤激した。薩長軍の東北進撃を粉砕するため、関東に潜入して反薩長の同志を集め、東北諸藩の奥羽列藩同盟の背後にあってはなばなしい活動をした。奥羽列藩同盟の正当性を主張した檄文は有名である。政治的立場は幕藩体制擁護の強い保守主義であった。明治二(1869)年上京して集議院の寄宿生となったが、間もなく退院を命ぜられ、爾来芝二本榎の上行寺および円真寺に「帰順部曲点検所」なる標札を掲げ、旧幕臣や脱藩浪士を救済すると称して同士を糾合、密議をこらしていたが、明治三(1870)年4月事が発覚して捕縛され、12月28日政府転覆陰謀事件を理由に梟首され、同志の斗南藩士原直鉄ら11人は斬首された。享年27歳。
新政府が成立早々藩閥により腐敗していく様を間近にして愛想を尽かして反体制派になった硬骨漢です。相当の人物で、本来ならば明治建国の柱石にもなれる方だったのでしょうが、あまりにも薩長の方々には厄介な存在だったのでしょう。ろくな裁判もせずに斬首というのは後年佐賀の乱で斬首された江藤新平さんと酷似しています。政府に対して批判的であったり、まして反乱起こすなどという輩は全てこうなるとでも言いたかったのでしょうか。
明治三年