横井小楠(京都・霊山墓地〔上〕/京都市左京区・天授庵〔中〕/熊本県熊本市・小楠公園〔下〕)
肥後藩士。8歳で熊本藩校時習館に入学し、25歳で居寮生、29歳で居寮長を命じられたが、その教育方針に飽き足らず、実践を重んずる大塚退野、更に進んで朝鮮の李退谿、ついで朱子本来の教えを求め、天保十(1839)年の江戸遊学では藤田東湖らと交わり水戸学からも影響を受けた。翌年酒失の罪で帰国を命ぜられ、兄の家で謹慎した。天保十二(1841)年「時務策」を草し藩政を厳しく批判、このころ長岡監物・下津休也・萩昌国・元田永孚らと実学党を結成した。安政元(1854)年兄の死により家督を相続、安政二(1855)年実学党の上士層長岡監物らと対立し、下士層豪農層の立場に立つこととなる。また水戸学に心酔していた彼も嘉永六(1853)年頃からその攘夷論に疑問を持ち、安政二(1855)年にはついに開国論に踏み切っている。安政五(1858)年から文久三(1863)年にかけて4回にわたり越前藩に招かれてその理想の実現に努力した。同藩の由利公正と協力して殖産貿易事業を推進、文久二(1862)年松平慶永が幕府政治総裁になると慶永を助けて幕政にも大きな影響を与えた。文久三(1863)年帰国したが、藩は前年江戸で刺客に襲われた際の彼の行為を士道忘却として知行を奪った。明治元(1868)年閏4月岩倉具視の懇願により藩の反対にもかかわらず新政府の参与となったが、明治二(1869)年1月5日京都で暗殺された。享年61歳。
楠木正成を崇拝するのだから強烈な尊王思想の持ち主かと思うと、合理主義的な面を持つワンマン宰相的な方で、とにかく頑固一徹、職人肌の方だと理解しているのですが、新政府では力を発揮する間が無かったのは惜しむところです。きっと今の政治家のような馴れ合いも派閥もはねつけそうです。

京都市右京区京北町
山国護国神社
北小路万之助 鳥取藩付属。山国隊士。明治二(1869)年1月19日京都在営中病死。享年不明。
萱野権兵衛(福島県会津若松市・天寧寺/福島県会津若松市・阿弥陀寺)
会津藩家老。文久三(1863)年父の隠居で家督を継ぎ、翌元治元(1864)年重役になり、慶応元(1865)年権兵衛を襲名、36歳で家老となった。時に権兵衛は藩主松平容保に従って京都におり重役の一人として活動していた。慶応四(1868)年の戊辰戦争が起ると家老の首班として常に君側にあって重務を果たし、のち若松城が攻囲されるや、城外にあって藩政を掌り、食糧を城内に給した。同年9月若松城落ちるや、他の家老と連署して嘆願書を政府軍に上り、容保父子に代わり己らが厳刑に処せられんことを請うた。ついで自ら進んで戦乱の首謀者となって罪を負い、東京に送られて久留米藩邸に禁固され、翌明治二(1869)年5月残在に決定し、飯野藩保科家の広尾別邸に移され、5月18日自刃した。享年40歳。
もへい様寄贈
鵜殿長鋭(東京都品川区・長応寺)
幕臣。文化十四(1817)年鵜殿長快の養子となり、文政二(1819)年家を継ぐ。文政八(1825)年小納戸となり、文政十二(1829)年西丸小納戸、天保八(1837)年再び本丸小納戸となる。平生砲術の研究に励んだ。嘉永元(1848)年目付、嘉永五(1852)年諸大夫に列し、民部少輔と称した。嘉永六(1853)年ペリー来航当時は海防掛の目付として米国国書の受領不可、国交拒絶を主張したが、安政元(1854)年ペリー再来に際し米使応接掛に選ばれ、日米和親条約・下田追加条約の成立に努力し、調印した。以後幕政の改革に尽力し、同年7月軍制改正用掛となり、安政四(1857)年ハリス上府用掛となった。将軍継嗣問題では、一橋派として井伊直弼の大老就任に反対し、松平慶永の起用を説くなど、画策するところあったため、安政五(1858)年5月駿府奉行に遷され、安政六(1859)年9月免職・差控・隠居に処せられた。その間安政五(1858)年2月に蘭国理事官参府用掛となり、日蘭通商条約の締結に当った。万延(1860)元年剃髪し、名を鳩翁と改めた。その後、文久三(1863)年将軍上洛の前後、浪士の取締りを命ぜられ、浪士組を組織したが、清川八郎らの跳梁に悩み、4月職を辞し、以後再び仕えなかった。明治元(1868)年静岡に移り、明治二(1869)年6月6日病没した。享年62歳。
安達幸之助(京都市東山区・霊山墓地)
加賀藩士。足軽出身ながら秀才で、安政三(1856)年江戸に出て大村益次郎に学びその塾頭になる。万延元(1860)年幕府に聘せられて講武所に西洋兵学を講じたが、翌年帰藩、壮猶館の教師となり、大砲鋳造に関与した。明治元(1868)年上洛、大村の推薦で伏見兵学校の教師となり、兵学・英書を講じた。たまたま明治二(1869)年9月4日京都三条木屋町の旅舎で大村と会談中、刺客に襲われ、ともに斃された。享年46歳。
山田善次郎(京都市東山区・霊山墓地)
長府藩の人。大村益次郎の若党。明治二(1869)年9月4日、大村が京都木屋町三条上ルの旅宿で遭難したとき刺客と戦って死す。享年不詳。
今中柳吉(京都市東山区・霊山墓地)
十津川郷士。御親兵として上京。明治二(1869)年9月5日病死。享年不詳。
橿平兵夫(京都市東山区・霊山墓地)
十津川郷士。御親兵として上京。明治二(1869)年9月5日病死。享年不詳。
高岡夢堂(岐阜県大垣市・全昌寺)
大垣藩士。軍学は山鹿素水、漢学を菱田穀斎に学ぶ。「日本外史」を愛読し勤王の志が厚かった。嘉永年間藩の会計理財の事務に当り、藩政の改革を推進した。また敬教堂の督学として、学制を改め学事の振興をはかった。慶応四(1868)年藩内は勤王・佐幕と紛擾したが、小原鉄心・戸田三弥と共に藩主を助け、藩論を勤王に決着させた。ついで東征出兵に副総督として従事し、その難に処した。明治二(1869)年徴士太政官弁事となる。辞して、大垣藩大参事となった。10月11日没。享年53歳。

もへい様寄贈
新見正興(東京都中野区・願正寺)
幕臣、外国奉行。文政十二(1829)年新見正路の養子となる。天保十(1839)年小姓として出仕、ついで中奥小姓、嘉永元(1848)年家督を継ぎ、安政元(1854)年8月小普請組支配、安政三(1856)年小姓組番頭を経て、安政六(1859)年7月外国奉行となる。同年8月神奈川奉行兼帯を命ぜられ、9月日米通商条約批准交換のための米国派遣正使に任ぜられ、わが国最初の遣外使節たるの重責を負った。副使村垣範正・目付小栗忠順と共に万延元(1860)年正月米艦ポーハタンで出帆、ハワイ・サンフランシスコ・パナマを経てワシントンで批准交換の使命を果し、5月米艦ナイアガラで帰国の途につき、大西洋・インド洋と世界一周して9月帰国した。その功により三〇〇石加増されたが、攘夷運動激化し、検分したところを充分に述べ得ずに終わった。同年10月外国奉行専任となり、文久二(1862)年6月側衆に転じ、伊勢守を称したが、元治元(1864)年9月免職。慶応二(1866)年12月隠居後は名を閑水と改め、維新後上総へ帰農したが、明治二(1869)年10月18日病没した。享年48歳。
大村益次郎〔村田蔵六〕(山口県山口市鋳銭司町〔上〕/京都・霊山墓地〔中〕/大阪市北区・龍海禅寺〔下〕
長州藩士。村田を氏とし、家は世々医を営んだ。父と共に吉敷郡秋穂村に移った。天保十三(1842)年防府官市の梅田幽斎に医学と蘭学を学び、翌年豊後の広瀬淡窓の門に入り、弘化三(1846)年大坂の緒方洪庵に学び塾頭に進んだ。嘉永三(1850)年帰郷して四辻で医業を開いたが、六(1853)年伊予宇和島藩に招かれて蘭学・兵学を教授し、安政三(1856)年江戸に赴いて鳩居堂を開塾、また幕府の蕃書調所教授方手伝となり、翌年講武所教授に任ぜられた。万延元(1860)年萩藩に抱えられ、藩の蘭学に貢献し、文久二(1862)年帰国し、西洋学兵学教授となって山口普門寺塾で兵学を教えた。ついで藩の兵制を改革し、元治元(1864)年下関外艦和議の応接掛を勤め、慶応元(1865)年軍務掛となり、二(1866)年の幕長戦に石州口の総参謀として連勝ののち、山口明倫館兵学寮に帰り、兵学の教授に当った。明治元(1867)年討幕軍進発に世子に従って出兵上京し、2月太政官から軍防事務局判事加勢を命ぜられて軍政改革に尽力、親兵を編成し、東北平定のため江戸へ進軍、5月江戸府判事を兼任した。ついで上野の彰義隊を討伐、さらに奥羽・北越の平定に尽し、10月軍務官副知事とたり、二(1868)年箱館を鎮定して6月永世禄1500石を賜わった。同年7月兵部省新置の時、兵部大輔に任ぜられ、兵制の大改革を企て、東京を発して大坂・兵庫を巡回し、9月京都の三条木屋町の旅宿で暴徒に襲われ重傷を負い、10月大坂鈴木町の病院に入院したが、療養中の11月15日死亡した。享年46歳。
「花神」こと村田先生です。思想が先行していたこの時期の長州藩にとって、合理的な判断のできるこの方がいたというのは幸運でもあり、奇跡的にも思えます。村田さんが暗殺されること無く建軍に携わっていたならば陸軍は精神第一主義にはならなかったと思います。にしても鋳銭司では生誕地と墓所があまりに離れているので結構探す羽目になっちゃいました。でも途中で見つけたカクイわたのねんねこバージョンは感動モノってここでは関係ないか…。大阪のは埋骨墓ですので本墓といえるかもしれません。もともと大村さんの遺言で緒方洪庵先生のそばに立っております。
千種有文(京都市左京区・金戒光明寺)
天保五(1834)年12月従五位下に叙せられ、翌年正月元服・昇殿。嘉永四(1851)年5月侍従となり、安政三(1856)年10月左近衛権少将に任ぜられた。安政五(1858)年3月八八卿列参に加わって関白九条尚忠の専断に抗議、勅諚案の改刪を要求したが、安政六(1859)年正月には所司代の依頼を容れて水戸藩に勅諚の返納を命ずる勅書の奏請を周旋し、万延元(1860)年和宮降嫁問題が起こるや、孝明天皇の信任を得て、久我建通・岩倉具視らと共に降嫁の実現に努め、また和宮の東下に随従して江戸に赴き、具視と共に廃帝説について幕府に詰問し、将軍をして誓書を奉呈せしめるなど、公武一和を名として朝幕間の周旋に勤めた。このため尊攘派の公家・志士によりいわゆる四奸二嬪の一人に目されて排斥・脅迫を受け、文久二(1862)年8月蟄居・辞官・落飾を命ぜられ、翌月さらに洛中居住禁止の命を受け、剃髪して自観と称して紫竹村に閉居するに至った。この後文久三(1863)年正月重慎を命ぜられたが、慶応三(1867)年12月王政復古に際して赦免され還俗した。維新後、明治元(1868)年3月親政大坂行幸に供奉し、5月権弁事として新政府に出仕、明治二(1869)年2月従三位に叙せられ、ついで4月内弁事に、7月宮内大丞に任ぜられた。同年11月3日没。享年55歳。
元々千種さんの御墓は、黒谷にあるということはわかっていましたけど金戒光明寺なのかどうかは不明でした。たまたま別件で探査していたときに、たまたま発見したという次第です…。「四奸」の一人に数えられたほどの人物の割には…目立たないです…多分簡単には見つけられないんじゃないでしょうか…って考えたらすごくラッキーだったと思います。やはり「神」の御導きかな?
小宮四郎左衛門(福岡県北九州市・開善寺)
小倉藩家老。天保十一(1840)年小宮家を相続、嘉永六(1853)年家老になり、藩財政の確立に尽くし、また農兵隊を設けた。功により加増され民部の名を賜った。慶応元(1865)年9月藩主小笠原忠幹の死後、幼君豊千代丸を護り難局に当たった。長州再征の戦闘中、総督小笠原長行および応援の諸藩が小倉を去ったため、慶応二(1866)年8月1日小倉城を自焼して藩庁を田川郡香春に移し、守備陣地を後方の天嶮に布いた。小倉城自焼の責を負い、明治二(1869)年11月29日、自刃した。享年47歳。
開善寺は福聚寺の裏手にあり、とってもきつい坂を登らなければなりません。第二次調査の初日朝6時半、いきなりの大雨で萩に行くことを断念して本来3日目くらいに予定していたここと福聚寺を急遽繰り上げ調査することにしました。到着したのは8時頃でしたが雨もやみ始めたため、またまた予定を変更。福聚寺を回ってから2日目の調査予定地だった山口市へと向かったのです。で、小宮さんですが、墓地自体は御墓の数も多くなかったので小宮家の墓所は割りと楽に見つけられましたが、墓石の状態が悪く、おまけに戒名による表記でその文字すら判読し辛い状態だったために特定に時間がかかりました(決め手は側面の没年月日)。御墓の前面には福知山、貫山といった山を背景に企救郡をはじめとした長倉戦争の古戦場が一望できます。
明治二年