山県友右衛門(京都市東山区・霊山墓地)
長州藩兵。徳山中隊。慶応四(1868)年1月23日京都河原町(大坂とも)屯営で病死。享年不詳。
小野昇造(京都市東山区・霊山墓地)
膳所藩士。勤王の志厚く、安政の初め岩倉具視に仕え信任厚かった。具視の幕府より譴を蒙り幽居中密かに忍んで具視の一身を守護した。その間帷幕に参じ、斡旋大いに努めて功があった。維新の業なりその宿志を達したとき、病に冒され慶応四(1868)年1月26日没した。享年49歳。具視の室槇子は昇造の妹。
秋山徳太郎(京都市東山区・霊山墓地)
岩国藩士。他詳細不明。慶応四(1868)年2月3日死去。享年20歳。
黒瀬市郎助(京都市東山区・霊山墓地)
熊本藩士。安政以来の情勢に、文久二(1862)年江戸藩邸を脱走し国事に奔走せんとした。そのため食禄没収・家名断絶になったが、母は一郎助ら二子を激励した。同年12月19日横井小楠の暗殺を企て、堤松左衛門・安田喜助らと三人で江戸檜物町の旗亭で熊本藩士都築四郎・吉田平之助と別離の宴を挙げていた小楠らを襲撃し、平之助を斃したのみで失敗した。文久三(1863)年下関で外船と戦い、元治元(1864)年長州軍に加わり蛤御門で戦い、慶応元(1865)年長州の内乱では鴻城軍に与して銃隊長となった。慶応三(1867)年松山藩の手で小楠襲撃犯人として捕えられ、慶応四(1868)年2月3日、吉田の子弟の手で鶴崎で仇討された。享年33歳。
上杉周平(京都市東山区・霊山墓地)
十津川郷士。御親兵として上京。慶応四(1868)年2月20日病死。享年不詳。
橿平照之助(京都市東山区・霊山墓地)
十津川郷士。御親兵として上京慶応四(1868)年2月20日病死。享年不詳。
中垣栄吉(京都市東山区・霊山墓地)
十津川郷士。御親兵として上京。慶応四(1868)年2月29日病死。享年不詳。
朱雀操(京都市東山区・霊山墓地)
洛西桂の人。元小堀右膳家来。鷲尾隆聚の高野山隊に参加。慶応元(1865)年1月京都御親兵。2月30日三枝蓊と共に英公使パークスの参内行列を祇園に襲い、警衛の後藤家二郎らと戦い死す。首は粟田口に梟。享年不詳。
相楽総三(東京都港区・青山霊園)
下総郷士。国学と兵学に長じ、私塾を開いて子弟を教えていたが、文久元(1861)年父より5000両を得て上州・信州・秋田方面を遊歴して同志を糾合、文久三(1863)年秋慷慨組の赤城山挙兵を企てたが失敗した。ついで元治元(1864)年4月水戸藩天狗党の筑波挙兵に参加したが、藩内の党争にあきたらず江戸に帰った。慶応二(1866)年3月上京して尊攘の志士と交わり、翌慶応三(1867)年10月薩摩藩の実力者西郷隆盛の密名を受け、同藩士伊牟田尚平・益満休之助と江戸に入り、芝三田の薩摩藩邸を根拠地として浪士隊を糾合し、推されて総裁となり、それ以来村上四郎に代わって相楽総三の変名を用いた。浪士隊は江戸の攪乱を目的として野州・甲州・相州で挙兵したが、いずれも功を収めなかったので、直接江戸市中の豪家を襲撃して治安を攪乱した。このため12月薩摩藩邸は庄内藩を主力とする幕軍に焼打ちに遭い、総三は海路兵庫港に走り、明治元(1868)年正月入京して西郷と面会し、綾小路俊実・滋野井公寿の二卿を擁して東征軍の先鋒隊として発することを命ぜられ、赤報隊を編成し総三は一番隊隊長となった。出発前に太政官から年貢半減の措置を許され、行路その新政策を発表し、規定方針通り資金調達と武器食料を徴発して進み、東山道先鋒嚮導隊と称した。しかしその後財政難から年貢半減の措置が撤回され、すでに新政府の方針として民心をひきつけていた総三らを偽官軍として処罰することになり、信濃国下諏訪で全士を捕え、3月3日幹部8人は斬首され、他は追放された。享年29歳。
赤報隊は維新史の闇として新政府に葬られた悲劇の部隊です。そのためにその存在を知る人も少なく一時期までは赤報隊といえば朝日新聞襲撃事件を先に思い出すような状況でしたが、近年「るろうに剣心」の登場で若年層に広まっていった感じです。それにしてもこの御墓の探しにくいことときたら…青山霊園から離れた場所にありますからね
三枝蓊(京都市東山区・霊山墓地)
大和国生駒郡本多村椎木・浄蓮寺の僧。儒学・国学を究め強力な攘夷論を主張した。文久三(1863)年天誅組に加わって因幡へ敗走、慶応四(1868)年2月30日同志朱雀操と共に英公使パークスの参内行列を祇園に襲い失敗、重傷の身を捕えられ、3月4日粟田口で斬、梟首された。享年34歳。
外島機兵衛(東京都港区・青山墓地)
会津藩士。会津藩に仕え目付・勘定奉行助・学校奉行助などを勤め、文久二(1862)年藩主松平容保の京都守護職補任に伴い公用人となり、上京して公卿および諸藩有志の間を奔走し朝幕の融和に努め、藩主を補佐した。慶応三(1867)年勘定奉行を兼ね、慶応四(1868)年鳥羽伏見の戦いには糧秣のことをつかさどり、また会津藩兵の撤収に当っては播磨・紀伊を巡歴してことごとくこれを送還した。慶応四(1868)年3月7日江戸で病没。享年43歳。
石蔵卯平(福岡市・萬行寺)
福岡藩商人。博多鰯町に住み、屋号を石蔵屋と称し、対馬藩の御用達を業とした。尊王の志士と交わり、対馬・福岡両藩士のために金銭を供給し、あるいは自分の家に尊王の志士を庇ったり、また志士の依頼を受けて各地の情況を偵察した。対馬藩内訌では平田一族救出に尽すところ大であった。慶応元(1865)年の夏、福岡尊王藩士月形洗蔵の書を携えて京都へ赴き、西郷隆盛の返書を得て帰る途中、形勢一変、月形らの刑死を聞き、下関に留まって奇兵隊に入った。以後高杉晋作に従い、野村望東尼の姫島脱出に尽力した。明治元(1868)年王政復古するも諸藩の向背定まらず、ために九州の同志糾合に活躍中、3月4日天草で暗殺された。享年33歳。
疲労度の限界はとっくに超えてる福岡行脚。ここでも大雑把な性格全開で予備の体力を消耗してしまいました。本当は入口近くにあったのですが、ちょうど真向かいに「石蔵家」の御墓があり、「これかな?でも名前がないなぁ。違うなぁ…」って気をとられ見逃してしまい、墓地の奥へと進んでしまいました。そしたら次から次に「石蔵家」の御墓が出てきて大パニック!まさに一昔前の「ウォーリーを探せ」状態に陥りました(要は石蔵一族の菩提寺だったんですね)。結局どれが卯平さんのは特定もできず時間切れで泣く泣く帰る最中に突如姿を現していただいたのです。嬉しいやら情けないやら…でもやっぱり嬉しいです、ハイ。

もへい様寄贈
河津祐邦(東京都台東区・谷中墓地)
幕臣。安政元(1854)年徒目付をもって堀利?にしたがって蝦夷地を巡回し、7月箱館奉行支配調役に任じ、ついで組頭に進んだ。安政三(1856)年東蝦夷地を巡回して版図を松前藩より受領した。箱館奉行を輔け、蝦夷地幣政の改革、七飯薬園の開設、箱館近郷の開拓、五稜郭および弁天砲台の築造、北蝦夷地の開拓などは彼に負うところが多いといわれる。文久二(1862)年江戸に帰って新徴組組頭となり文久三(1863)年9月外国奉行に任ぜられた。これより先、8月18日に政変が起り、幕府は攘夷の体面を保つ必要から横浜を鎖港しようとする問題が生じた。かくて10月池田長発と共に仏公使と会見するなど、この問題の衝に立ち、さらに11月欧米差遣を命ぜられ、副使として12月出発した。上海・スエズ・マルセイユを経てパリに入り、案件を談判したが、使命達成の不可能を知ると共に開国の必要を痛感し、パリ約定調印後、米国まで行く予定を切上げ、直ちに帰国し、元治元(1864)年7月横浜に入り、正使池田長発と共に幕府に建議するところがあった。しかし、かえって忌諱に触れ、免職・小普請入り・逼塞を命ぜられた。その後許されて歩兵頭並となり、慶応二(1866)年8月関東郡代、慶応三(1867)年正月勘定奉行並となり、8月長崎奉行となった。さらに慶応四(1868)年正月外国副総裁、2月外国事務総裁、同月若年寄を歴任し、瓦解期の幕府の整理、および徳川家護持のことに当ったが、3月に没した。享年不詳。
中勘二郎(京都市東山区・霊山墓地)
十津川郷士。御親兵として上京。慶応四(1868)年4月10日病死。享年不詳。
近藤勇(東京都三鷹市大沢・竜源寺〔1〕/福島県会津若松市・天寧寺〔2〕/東京都北区・寿徳寺境外墓地〔3〕〔4〕京都市中京区・壬生寺〔5〕)
新選組局長。武蔵国多摩の出。剣法を天然理心流近藤周助の試衛館に学び、嘉永二(1849)年その養子になる。文久元(1861)年天然理心流4代目を継承し、文久三(1863)年将軍家茂の上洛に当たり、幕府が京都の尊攘志士・浪士を牽制するために両毛・武蔵・甲斐その他の浪士二百数十名を募って西上させたとき、養父の門下土方歳三・沖田総司・永倉新八らと共に浪士隊六番隊に加わった。これに加わった。浪士隊は新徴組と称し葛野郡壬生村に屯したが、清河八郎を指導者とする隊員の志向が攘夷派に傾いたため幕府より東帰を命ぜられると、清河らと意見を異にしたので、芹沢鴨・沖田・永倉ら20余名と共に残留することになり、京都守護職支配下に属して浪士組を組織し、やがて局長に推された。8月18日、新撰組の隊名を下賜され、芹沢鴨と共に局長として八月十八日の政変に出動する。以後、尊攘派志士の弾圧に辣腕を振るい、特に元治元(1864)年6月5日、肥後藩士宮部鼎蔵らの京都騒擾計画を捉え、隊士を率いて池田屋を襲撃し功をたてた。慶応三(1867)年6月見廻組頭取に任ぜられて幕臣となった。12月、御陵衛士の生き残りに狙撃され重傷を負い、鳥羽伏見の戦いに参加できなかった。慶応四(1868)年正月鳥羽伏見の戦いで幕軍が敗走して東帰すると、姓名を大久保大和と改め、新撰組の残党をもって甲陽鎮撫隊を組織し、3月政府軍と甲斐勝沼に戦ったが敗れ、4月3日下総流山で投降し政府軍に捕らえられた。同年4月25日板橋の庚申塚の刑場で斬られ、首を京都三条河原に梟された。享年35歳。
近藤さんの御墓と言えば、東京、福島、愛知にありますが、壬生寺にもあるようです。なぜ推測かと言うと、サムネイルを開いていただければわかると思いますが、文字が判読できないのです。脇にある看板に葬られている隊士の名前と、墓碑銘を見比べたら近藤さんが残るので、これではないかと思われるのです。これは遺髪塚なんですね。

そんなわけで2005年7月、会津と東京を巡ってしまいました。それはとりもなおさず、近藤さんの御墓を追っかける形にもなるわけですので一気に本墓を含めてお参りできました。
もっとも天寧寺では道間違って全然関係ない墓地を彷徨う羽目に陥って遭難しかけたり、翌日筋肉痛と睡眠不足に苛まれながら多磨霊園駅前から龍源寺まで歩く歩く…もう殉職するかと思いましたよ。さらに翌日は聖地・板橋の寿徳寺境外墓地…。特に意図したわけではなかったんですけど、結果的に3日の間で3箇所巡ったんですね。ほんと我ながらよくやるなぁって思いましたよ。

これで残すところ愛知の法蔵寺と、東山のどこかにあったといわれる伝説の首塚だけですね。まぁ法蔵寺はともかく、清水寺の奥地にあるといわれる首塚を発見したら…新選組研究史に名前残せるかな?

京都市右京区京北町
山国護国神社
田中伍右衛門 山国隊士。山国郷小塩の人。上士。明治元(1868)年5月15日江戸上野山で戦死。享年44歳。

高室重蔵 山国郷塔の人。山国隊従士。下野戦争後の明治元(1868)年8月8日江戸で病死。享年不明。

仲西市太郎 山国隊士。山国郷鳥居の人。明治元(1868)年10月4日江戸で病死。享年不明。

三木志津馬(京都市東山区・霊山墓地)
伊予の人。公家侍。慶応四(1868)年6月2日卒死。他詳細不明。
東郷愛之進(鹿児島県鹿児島市・南洲寺)
薩摩藩士。慶応元(1865)年薩摩藩が派遣した留学生として、岩屋虎之助の変名でイギリスに留学した。時に開成所諸生であった。イギリスでは海軍機械術を修めた。帰国後慶応四(1868)年戊辰戦争に出陣し、各地を転戦して7月8日陣中に死亡した。享年不明。
尾崎謙二郎(京都市東山区・霊山墓地)
十津川郷士。御親兵として上京。慶応四(1868)年7月16日病死。享年不詳。
森田節斎(和歌山県那賀郡粉河町・善通寺)
儒者。幼にして漢学をうけ郷校に学んだのち上洛して頼山陽に師事、従学四年ののち江戸へ出て昌平黌に学んだ。天保末年再び京都に出て塾を開き、教授すること数年、その間尊攘の論を強くし、吉田松陰・梅田雲浜・頼三樹三郎・春日潜庵らと交わった。松陰・三樹三郎・乾十郎らは一時その門に従学したという。安政二(1855)年より備中・備後・伊予・讃岐・姫路など各地に漫遊し、姫路藩に聘せられたが仕官することを好まなかった。文久三(1863)年備中倉敷に赴いて学筵を開き、諸藩の尊王攘夷の士多くその門下に集ったが、勤王論を説くこと激しく、ために幕吏の追及を受け、逃れて紀州那賀郡荒見村の北家に寓し、慶応四(1868)年7月26日同所で没した。享年58歳。
高倉永?(京都市左京区・金戒光明寺)
堂上公家。安政四(1857)年侍従に任じ、慶応二(1866)年従三位に昇る。同年8月大原重徳ら二十一卿の廷臣と共に参内し、朝政の改革・征長軍の解兵などを建言したが、そのため結党建言の罪を問われて差控に処せられた。慶応四(1868)年正月、諸道鎮撫のため総督を任命するに当り、北陸道鎮撫総督(のち北陸道先鋒総督兼鎮撫使と改称)の大任をおい同月20日小浜藩・広島藩の藩兵を率いて京都を進発し、途中北陸の諸藩を慰撫しつつ4月4日江戸に着いた。しかし奥羽列藩同盟が成立し、北越諸藩も動揺をきたすに及び、同月会津征討総督に任ぜられ、海路北海をまわって5月8日越後高田の本営に着き、黒田清隆・山県有朋を参謀として、北越地方の鎮定に努めた。ついで奥羽征討越後口総督となり、同地方の経営に当たったが、6月末より感冒におかされ、病床についたため総督を辞任し、7月29日高田の陣中において没した。享年31歳。同年8月戦功により参議・正三位の官位を贈られ、明治二(1869)年永世祭粢料(供物料)として二〇〇石を下賜された。
鎌塚久米吉(京都市東山区・霊山墓地)
十津川郷士。御親兵として上京。慶応四(1868)年8月25日病死。享年不詳。
富田織部(京都市東山区・霊山墓地)
三条家家臣。はじめ生家の後藤氏を称し、壮年時江戸に遊学して和歌の学を修め、ついで京都に移る。たまたま三条実万に知られてその家臣に召抱えられ、信任を得るに至り、実万生母の実家の名乗りを許されて、富田と改姓した。以来実万に昵近して国事の機密に与り、また侍講に選ばれて実美の教育にも当った。安政五(1858)年将軍継嗣問題で、主命を帯びて江戸に赴き、一橋慶喜擁立を計る同志諸侯との連絡に奔走した。そのため安政の大獄に連座し、どうねん12月捕縛され、安政六(1859)年正月江戸に檻送、10月押込みの刑に処せられた。翌年赦免、京都に帰って実万亡き後の実美に仕えたが、文久三(1863)年実美が八月十八日の政変で失脚して西下すると、京都に留まって家政の整理に当たる。元治元(1864)年幕府の嫌疑を受けて再び投獄されたが、いくばくもなく出獄、密かに長州と声息を通じて情勢挽回に尽力した。慶応四(1868)年9月2日死去。享年54歳。
森寺常安(京都市東山区・霊山墓地)
三条家諸大夫。文化四(1807)年6月三条家侍、文化十一(1814)年12月同家諸太夫となる。出羽守・大隈守・長門守・雅楽権助等を経て、嘉永五(1852)年3月因幡守に任ぜられ、翌年正月従四位下に叙せられた。時あたかも米艦渡来し国論沸騰の際、よく主家を助けて奔走した。安政五(1858)年2月橋本左内の三条実万への入説を斡旋し、このため安政の大獄に連座、12月幕吏に捕われ、翌年3月江戸に送られ、10月永押込の刑に処せられた。文久二(1862)年11月赦され、慶応元(1865)年10月従四位上に昇叙された。明治元(1868)年9月22日没。享年78歳。
鷹司政通(京都市右京区・二尊院)
堂上公家(摂家)。寛政八(1796)年12月元服・叙爵、寛政九(1797)年12月従三位に叙せられ、文政三(1819)年6月左大臣、文政六(1823)年3月関白となった。翌文政七(1824)年正月左大臣を辞し、天保十三(1842)年8月太政大臣に任ぜらる。嘉永元(1848)年8月太政大臣を辞し、安政三(1856)年8月関白を罷めて准三宮の宣下を受け、12月特旨により太閤と称せしめられた。なお関白辞任後も新関白九条尚忠と並んで内覧の宣旨を受け、枢機に参与せしめられた。仁孝・孝明両代の関白として、その在職34年の長期に及び、その間輔弼献替に勤め、学習院の設置、薄禄廷臣の救済にも力を尽した。関白在職の末期、外国艦船の来航漸く頻繁となり、弘化三(1846)年8月朝廷は海防戒飭の御沙汰所を幕府に下したが、これを端緒として爾後朝幕間に外交事件その他国事に関する交渉が行われることになった。しかし政通在職の間に米・露・英・蘭等の諸国との間で相次いで和親条約の締結を見たが、外交方針をめぐって未だ朝幕間の対立を見ることはなかった。これは一つには政通が和親交易を上計として幕府の措置を是認したためであったが、政通の関白辞任後、安政五(1858)年幕府が米国との通商条約調印の勅許を奏請するに及び、朝廷はその奏請を斥け、ここに朝幕間の対立を見るに至った。この際政通は鎖国説の優勢な廟堂にあって、一人開国説を固執して幕府を支持したが、侍講三国大学・諸大夫小林良典の勅諫により鎖国説に豹変し、逆に鎖国説から開国説に転じた九条関白と対立し、専ら攘夷の叡旨を貫徹することに努めた。またこれと前後して起きた将軍継嗣問題についても橋本左内らの入説によって一橋慶喜の擁立を支持し、さらに水戸賜勅一件にも関与した。このため大獄の起るや、幕府の要請により、天皇の庇護も力及ばず、落飾(法名拙山)・慎を命ぜられるに至った。この後同年12月慎を解き、文久二(1862)年4月参朝を許され、5月復飾を許されたが、老年の故をもって辞退し、6月隠居した。明治元(1868)年10月16日没。享年80歳。
佐古武五郎(京都市東山区・霊山墓地)
十津川郷士。明治元(1868)年10月19日病死。御親兵として上京。享年不詳。

もへい様寄贈
森陳明(東京都江東区・霊巌寺/三重県桑名市・十念寺)
桑名藩士。桑名藩主松平定敬に仕え、藩校の句読師から横目・大目付を経て、元治元(1864)年定敬の京都所司代となるや選ばれて公用人となり、各方面の交渉に当り、佐幕論を主張した。明治元(1868)年戊辰戦争が起るや江戸に下り、彰義隊に投じ、上野戦争後仙台に逃れ、定敬の榎本武揚の軍に参加するのに従って函館に行き、名を常吉と変え、同藩士と共に新撰組に入り、一隊長となって各地の戦に参加した。翌年榎本軍降伏ののち、藩主に代ってその罪を負い、明治二(1869)年11月13日、東京深川入舟町の下屋敷で斬首された。
享年44歳。
十念寺の門前には「森陳明翁墓所」という碑が立っており、市指定の史跡として看板もありました。しかし肝心の墓碑がどこにあるかは示されてなく、境内にある2箇所の墓地を散々探し回って結局見つからないという状況に…しかしあれだけ大々的に顕示してるんだから必ずあるのは間違いないわけです。だとしたら見つからない他に考えられる見つからない原因は…って考えてるときに目に入ったのが道路を挟んで林立している墓碑でした。道路を渡って墓所に踏み込んでみると…ありました!外にあるなら外にあるってどっかに書いといてくれればもっと早くに見つけられたものをと思ったもんです。
墓所の前には辞世の句碑があって、「うれしさよ 尽すこころのあらはれて 君にかはれる死出の旅立」と刻まれていました。また森さんの顕彰碑が桑名城址に建てられており、往時桑名の人々がいかに森さんを偲んでいたかが感じられます。
福田侠平(山口県下関市・東行庵)
長州藩士。吉敷郡大内村氷上に移住し、福田貞八の養子となり、文久三(1863)年奇兵隊に入って書記となり、元治元(1864)年8月下関に外艦と戦い、12月奇兵隊参謀に進み、慶応元(1865)年8月には軍監を兼ね、慶応二(1866)年6月の幕長戦に豊前に渡って小倉兵と戦った。慶応三(1867)年10月討幕密勅が長薩二藩に下った時、長州藩では広沢真臣・品川弥二郎と共に連署してその命を奉じた。明治元(1868)年正月幕軍を伏見に破り、5月北陸鎮撫に越後から陸奥に転戦し、11月凱旋に当って下関滞在中、阿弥陀寺町の廻船業者綱平邸で卒中症のため11月14日に病死した。享年40歳。
峯廻武平(京都市東山区・霊山墓地)
十津川郷士。御親兵として上京。明治元(1868)年12月4日病死。享年不詳。
枚岡次郎(京都市東山区・霊山墓地)
大坂の人。土佐人とも。明治元(1868)年12月17日死去。他詳細不明。享年29歳。
西垣久米進(京都市東山区・霊山墓地)
十津川郷士。御親兵として上京。明治元(1868)年12月29日病死。享年不詳。
慶応四年/明治元年