箕浦猪之吉(大阪府堺市・妙国寺宝珠院)
土佐藩士。代々扈従格の儒家として藩に仕えた。学問詩文を能くし、安政四(1857)年江戸に遊学し、万延元(1860)年3月山内容堂の侍読となった。同年11月帰国後、藩校致道館の助教となり、容堂の扈従を勤め、馬廻格に昇進した。慶応三(1867)年11月半の歩兵第六番隊長となって上京し、慶応四年(明治元=1868)年堺の警衛を命ぜられ、2月15日上陸したフランス軍艦ジュプレー号の乗員と紛議を起こしてこれを殺傷した堺事件の責任を負い、堺妙国寺において内外検使立会のもとに2月23日切腹。その際短刀を左脇腹に突き立てて右へ引き、上へ引き上げると刀を捨ると臓腑をつかんで引き出して首に巻き、臨席していたフランス公使ロッシュに睨みつけたという。享年25歳。
西村左兵次(大阪府堺市・妙国寺宝珠院)
土佐藩士。馬廻格。歩兵第八番隊長。土佐郡江ノ国村の人。慶応三(1867)年8月歩兵小隊司令になる。慶応四年(明治元=1868)年2月15日の堺事件の責を負い、2月23日堺妙国寺で切腹。享年25歳。
池上弥三吉(大阪府堺市・妙国寺宝珠院)
土佐郷士。歩兵第六番隊小頭。長岡郡大津村の人。慶応四年(明治元=1868)年2月15日の堺事件の責を負い、2月23日堺妙国寺で切腹。享年38歳。
大石甚吉(大阪府堺市・妙国寺宝珠院)
土佐郷士。足軽。歩兵第八番隊小頭。孕村出身。初め京都勤務。慶応四年(明治元=1868)年2月15日の堺事件の責を負い、2月23日堺妙国寺で切腹。享年38歳。
杉本広五郎(大阪府堺市・妙国寺宝珠院)
土佐郷士。新規足軽。折衝六番隊。長岡郡池村の人。慶応四年(明治元=1868)年2月15日の堺事件の責を負い、2月23日堺妙国寺で切腹。享年34歳。
勝賀瀬三六(大阪府堺市・妙国寺宝珠院)
土佐郷士。足軽。吾川郡瀬戸村の人。六番隊所属。慶応四年(明治元=1868)年2月15日の堺事件の責を負い、2月23日堺妙国寺で切腹。享年28歳。
山本哲助(大阪府堺市・妙国寺宝珠院)
土佐郷士。新規足軽。折衝六番隊。土佐郡小高坂村の人。慶応四年(明治元=1868)年2月15日の堺事件の責を負い、2月23日堺妙国寺で切腹。享年28歳。
森本茂吉(大阪府堺市・妙国寺宝珠院)
土佐郷士。足軽。長岡郡大津村の人。慶応四年(明治元=1868)年2月15日の堺事件の責を負い、2月23日堺妙国寺で切腹。享年39歳。
北代健助(大阪府堺市・妙国寺宝珠院)
土佐郷士。新規足軽。折衝六番隊。長岡郡十市村の人。慶応四年(明治元=1868)年2月15日の堺事件の責を負い、2月23日堺妙国寺で切腹。享年36歳。
稲田貫之丞(大阪府堺市・妙国寺宝珠院)
土佐郷士。足軽。高知城下南新町住。六番隊。慶応四年(明治元=1868)年2月15日の堺事件の責を負い、2月23日堺妙国寺で切腹。享年28歳。
柳瀬常七(大阪府堺市・妙国寺宝珠院)
土佐郷士。折衝六番隊。土佐郡潮江村の人。慶応四年(明治元=1868)年2月15日の堺事件の責を負い、2月23日堺妙国寺で切腹。享年26歳。
グィリヨン(大阪府堺市・妙国寺宝珠院)
フランス軍見習い士官。フランス軍艦ジュプレーに乗り組む。慶応四(明治元=1868)年2月15日、堺に上陸したが警備の土佐藩兵と遭遇。言語不通の行き違いにより交戦状態となり闘死。享年不詳。なお他に3人がフランス側で死亡している。
2002年7月23日から始まる第一次高知調査は大阪南港発のフェリーを使って移動することになってました。そこで19時の乗船時間まで相当間があったので堺まで足を伸ばし、土佐藩十一烈士に邂逅しようと一路堺に向かいました。しかし場所の特定に少々時間をとってしまい、宝珠院に着いたのは16時過ぎ。この御墓は何故か幼稚園の園内にあり、その幼稚園はまさに閉門しようと言う状態でした。事情を話して入れてもらおうかとも思ったのですが、どうせ帰りもフェリーなのでここは慌てず引き下がりました。さて高知から戻ってきて南港に着いたのは25日の朝6時半。満身創痍の状態で上陸したため、早急に撮影を終えて帰ろうと再び宝珠院に向かうと…閉まってました…。連日の過酷な調査で体は悲鳴を上げている状態に加え疲労も蓄積していたので諦めようかと言う悪魔のささやきにも耳を傾けそうでしたが、ここは根性で踏ん張り、開園まで待つことにしました。だからといって幼稚園の前でじっと待ってると絶対不審者扱いされるに決まってます(ご時世です)。そこでまず駅近くの吉野家で朝食を摂り、コンビニで立ち読みし、さらに一路仁徳天皇百舌鳥耳原中陵(大山古墳)へ向かいました。さすがに面積では世界最大の墓だけに全体像を捉えることはできず、感心しながら再び宝珠院へ。門が開いてるのを見たときには天岩戸並に嬉しかったです。早速中に入って御墓と対面したのですが、かなり劣化が進んでいて一瞬誰のものか判読できませんでした。「仏蘭西兵士之碑」は厳密に言うと墓碑ではありません。ただ堺事件で亡くなった11名の兵士は神戸居留地外国人墓地に葬られたとのことですが、現在のその場所は再度山に移転の上非公開であるため墓碑として扱いました。
慶応四年 堺事件