伏見・悟真寺

伏見・悲願廃寺

淀・千両松

淀・楳の木

淀・光明廃寺

淀・文相寺

淀・大専寺

淀・東雲寺(一)

淀・東雲寺(二)

淀・長円寺

八幡・番賀

伏見・法伝寺

伏見・悟真寺

淀・長円寺

淀・妙教寺

天王寺・一心寺
嘉村権太郎 元盛岡藩士。諸士調役。慶応四(1868)年1月3日伏見で戦死。享年31歳。吉村貫一郎と同一人物の可能性がある。
田辺太三郎 伏見で戦死したと伝わるが、田村大三郎の誤記と思われる。 慶応四(1868)年1月3日伏見で戦死。享年歳。
服部幸次郎 会津藩士慶応四(1868)年1月3日伏見で戦死。享年歳。
宮川数馬 元治元(1864)年10月、江戸での新撰組隊士募集に往時、上洛入隊。同年暮れの編成では、六番武田観柳斎隊に配属。慶応三(1867)年6月の幕臣取り立てで見廻組並御雇の格を受ける。この時平隊士。慶応四(1868)年1月3日伏見(千両松とも)で戦死。享年27歳。
池田小三郎 元治元(1864)年10月、江戸での隊士募集に応じ、上洛入隊。同年暮れの編成では五番尾形俊太郎隊に配属。慶応元(1865)年春の新編成では剣術師範。のちに伍長も務める。慶応二(1866)年9月の制札事件に参加、事件後、金一〇〇〇疋の恩賞を受ける。慶応三(1867)年6月の幕臣取り立てで見廻組並御雇の格を受ける。慶応四(1868)年1月3日伏見(淀堤・千両松とも)で戦死。享年26歳。存命して江戸帰還後同年3月の甲州勝沼戦争に参戦した可能性もある。
井上源三郎(東京都日野市・宝泉寺)
新撰組六番隊組長。井上家は川中島の合戦にも参加したと伝えられる甲州武田家の旧臣で、正徳三(1713)年以後、代々、八王子千人同心を務めた家柄である。このような環境に育った源三郎は幼少のころから剣を持つことを覚え、青年時代は兄松五郎とともに近所の佐藤彦五郎の道場に通い、天然理心流近藤周助の門人となり、稽古に励んだ。源三郎は12年の歳月を要し、万延元(1860)年に免許を許されている。文久三(1863)年、幕末の風雲ようやく急を告げるに至った時、幕府は清河八郎の建議を容れ、将軍家茂上洛警固のため、浪士隊を結成することになった。源三郎も、近藤勇、土方歳三、沖田総司らと、これに参画し、同年2月中山道を京に向け出発した。京では京都守護職松平容保の麾下に属し、新撰組結成後、副長助勤六番隊長となっている。元治元(1864)年6月の池田屋事変、同年7月の蛤御門の変及び天王山の戦いなどでの勇戦、また、任務である京都市中の警備、巡察に全力を挙げてこれに当たったが、時に利あらず、幕勢は日々に衰えていった。慶応四(1868)年1月3日鳥羽・伏見の戦いが開始されるや、新撰組は1月4日、淀千本松に布陣した。源三郎も六番隊を指揮し、死闘を繰り広げたが、飛来した銃弾により、この地で戦死した。一緒に参戦した甥の泰助により、源三郎の首・刀は撤退途中の寺の門前に埋められたといわれているが、寺の名は不明。享年38歳。
斯波緑之助 慶応元(1865)年4月江戸で入隊。元僧侶で文武劣等とされるが、教授心得の役にあったという。慶応三(1867)年6月、幕臣に取り立てられ、見廻組並御雇の格を受けるが、慶応四(1868)年1月鳥羽・伏見の戦いを経て江戸に帰還し、脱走。1月4日の淀の戦いで戦死とも。享年不明。
和田十郎 元治元(1864)年10月前後に京坂で入隊。同年12月の編成では伊藤甲子太郎の二番組に属した。慶応三(1867)年6月、幕臣に取り立てられ、見廻組並御雇の格を受ける。慶応四(1868)年1月4日伏見で戦死。享年不明。
甘地一撰 慶応元(1865)年5月ごろ京坂で入隊。慶応三(1867)年6月幕臣に取り立てられ、見廻組並御雇の格を受けるが、鳥羽伏見の戦いを経て江戸に帰還し、脱走。慶応四(1868)年1月5日伏見で戦死とも。享年不明。
今井祐次郎 諸士取調役兼監察。慶応元(1865)年4月江戸で入隊。慶応二(1866)年2月に大石鍬次郎の実弟造酒蔵を、そうとは知らずに殺害し、仇を討とうとする鍬次郎と険悪になるが、土方歳三が大石を戒めて事なきを得た。9月の三条制札事件に出動し、宮川助五郎にて傷を負わせている。慶応三(1867)年6月幕臣に取り立てられ、見廻組並御雇の格を受けるが、慶応四(1868)年1月5日鳥羽・伏見の戦いで淀において戦死。受傷後、江戸帰還船の船中で死亡とも。享年25歳。 
小林峰太郎 慶応元(1865)年4月、江戸で入隊。慶応三(1867)年6月幕臣に取り立てられ、見廻組並御雇の格を受けるが、慶応四(1868)年鳥羽・伏見の戦いで1月5日淀において戦死。6日に八幡で戦死とも。享年26歳。
真田四目之助 伍長。慶応元(1865)年4月、江戸で入隊。慶応三(1867)年6月、幕臣に取り立てられ、見廻組並御雇の格を受けるが、1月5日鳥羽・伏見の戦いで淀において戦死。3日に伏見で戦死とも。享年25歳。
宿院良蔵 文久三(1863)年6月ごろ入隊。元治元(1864)年12月暮れの編成では井上源三郎の三番組に属した。池田屋事変では土方歳三隊に属し、屋外を守備し、報奨金十五両を受ける。。同年9月の葛山武八郎の切腹に際して、谷三十郎とともに頼越人として光縁寺を訪れている。慶応三(1867)年6月幕臣に取り立てられ、見廻組並御雇の格を受けるが、慶応四(1868)年鳥羽・伏見の戦いにおいて1月5日橋本において戦死。3日に伏見で戦死とも。享年47、8歳。
鈴木直人 剣術教授心得。慶応元(1865)年4月、江戸で入隊。慶応二(1866)年5月に魚棚烏丸西で山井三位の家来森某を斬殺、との記録がある。慶応三(1867)年6月、幕臣に取り立てられ、見廻組並御雇の格を受けるが、慶応四(1868)年1月5日鳥羽伏見の戦いで淀において戦死。3日に伏見で戦死とも。享年25歳。
諏訪市二郎 慶応三(1867)年6月以降に入隊し、局長附人数となる。慶応四(1868)年鳥羽・伏見の戦いに参加するが、1月5日淀千両松で戦死する。享年不明。
林小五郎 慶応元(1865)年4月、江戸で入隊。慶応三(1867)年6月、幕臣に取り立てられ、見廻組並御雇の格を受けるが、慶応四(1868)年鳥羽・伏見の戦いで1月5日淀において戦死。享年25歳。 
古川小二郎 慶応元(1865)年4月、江戸で入隊。慶応三(1867)年6月幕臣に取り立てられ、見廻組並御雇の格を受けるが、慶応四(1868)年鳥羽・伏見の戦いで1月5日淀において戦死。3日に伏見で戦死とも。享年21歳。
逸見勝三郎 教授心得並。慶応元(1865)年4月、江戸で入隊。慶応三(1867)年6月幕臣に取り立てられ、見廻組並御雇の格を受けるが、慶応四(1868)年鳥羽・伏見の戦いで1月5日淀において戦死。享年39歳。
三浦恒次郎 慶応三(1867)年6月以降の入隊。当時すでに老齢であったため、仮同志として局長附人数に加わる。同年11月18日の油小路事件で恩義のある藤堂平助を死に至らしめた事を気に病み、慶応四(1868)年1月神経病を発して没するというが、鳥羽伏見の戦いにおける負傷のために大坂八軒屋で死亡とも伝わる。享年不明。
三品一郎 慶応元(1865)年5月ごろ京坂で入隊。慶応三(1867)年6月幕臣に取り立てられ、見廻組並御雇の格を受けるが、慶応四(1868)年鳥羽・伏見の戦いで1月5日淀において戦死。享年28、9歳。
水口市松(京都市右京区・三宝寺)
元治元(1864)年10月前後に京坂で入隊。同年12月の編成では武田観柳斎の六番組に属した。慶応二(1866)年9月の三条制札事件に七番組として出動し、15両の報奨金を受ける。慶応三(1867)年6月幕臣に取り立てられ、見廻組並御雇の格を受けるが、慶応四(1868)年鳥羽・伏見の戦いにおいて1月5日淀で戦死。3日に伏見で戦死とも。享年44、5歳。
向館登 慶応三(1867)年6月以降に入隊し、局長附人数となる。慶応四(1868)年1月の鳥羽・伏見の戦いに参戦するが、1月6日橋本で戦死する。享年不明。
山崎烝 副長助勤。新撰組入隊は文久三(1863)年末か文久四(1864)年初めと推定される。諸士取調役並監察、副長助勤を歴任。元治元(1864)年池田屋事変では、薬屋に変装して数日前から潜入し、当日は内部から手引きしたとされるが、その事実はなく、報奨金リストにも名前が見られないことから、不参加が確認される。同年12月の編成では原田左之助の小荷駄雑具方に属し、山南敬助の切腹の際には神崎一二三とともに頼越人として光縁寺を訪れている。慶応元(1865)年閏5月、松本良順が屯序を訪れた際に救急治療法を習い、「我は新撰組の医者なり」と笑って語ったという。同年11月、近藤勇の広島行には吉村貫一郎らと同行し、近藤の帰郷後も長州藩探索のために残留して、慶応二(1866)年6月には報告書を佐藤安次郎に託している。その後慶応三(1867)年4月まで消息はつかめないが、同年中に谷山誠一郎ら数人の隊士と江州八日市への出張の記録がある。6月の幕臣取り立てでは見廻組並の格を受けた。また、この前後には中山忠能、正親町三条実愛、柳原前光らの公卿を訪れるなどして、新撰組の立脚する公武合体論を説き、9月14日には鷲尾隆聚邸に不穏人物の捜査に赴いている。慶応四(1868)年1月鳥羽・伏見の戦いで重傷を負い、大坂の京屋忠兵衛方まで後送されて死亡したとされるが、淀あるいは橋本で討死とも江戸帰還の船内で死亡ともある。享年35,6歳。
坂本平三 慶応三(1867)年6月以降に入隊し、局長附人数となる。慶応四(1868)年鳥羽・伏見の戦いに参加するが、1月6日橋本で戦死する。享年不明。
浜田善次 伏見御香宮の「戊辰東軍戦死者霊名簿」に、1月6日鳥羽・伏見の戦いにおける新撰組の戦死者として土方歳三附と記載されているが、他に記録は見られない。
向館登 慶応三(1867)年6月以降に入隊し、局長附人数となる。慶応四(1868)年1月の鳥羽・伏見の戦いに参戦するが、1月6日橋本で戦死する。享年不明。
村上清 慶応元(1865)年5月ごろ京坂で入隊。諸士取調役兼監察。慶応三(1867)年6月、幕臣に取り立てられ、見廻組並の格を受けるが、鳥羽・伏見の戦いで負傷し、大坂まで引き揚げる。大坂城入城後、1月7日に城外での失火を敵兵の攻撃によるものと誤認し、自刃した。享年不明。
青柳牧太夫 慶応元(1865)年4月、江戸で入隊。勘定方、伍長、小荷駄方を歴任。慶応三(1867)年6月幕臣に取り立てられ、見廻組並御雇の格を受けるが、慶応四(1868)年鳥羽・伏見の戦いにおいて1月6日橋本で戦死。江戸帰還船の船中で死亡とも。享年30歳。
吉村貫一郎 慶応元(1865)年4月、江戸で入隊。諸士取調役兼監察、剣術師範、目付を歴任。慶応三(1867)年6月幕臣に取り立てられ、見廻組並御雇の格を受けるが、慶応四(1868)年鳥羽・伏見の戦いに敗走後、大坂で脱走。出身の南部藩邸に出頭し、帰藩を求めたが、諌められて切腹する。享年29歳。
新撰組は市中見廻りを解任され、伏見奉行所に布陣していましたが、近代兵器で武装した薩長軍に対してなす術もなく、土方さんをして「戎器は砲に非ざれば不可なり。僕、剣を佩し槍を執るも一に用いる所無し」と言わしむる事になりました。剣一筋に鍛え上げた新撰組の敗北は、大きな意味で歴史の中で生きることなく、ノモンハンをはじめ戦車に銃剣で突撃する日本陸軍が継承してしまうことになります。
慶応四年 鳥羽伏見の戦い 新撰組