伏見・悟真寺

伏見・悲願廃寺

淀・千両松

淀・楳の木

淀・光明廃寺

淀・文相寺

淀・大専寺

淀・東雲寺(一)

淀・東雲寺(二)

淀・長円寺

八幡・番賀

伏見・法伝寺

伏見・悟真寺

淀・長円寺

淀・妙教寺

天王寺・一心寺
山田与一 岡崎藩士。慶応四(1868)年1月3日伏見で戦死。享年不明。
小倉六兵衛 大垣藩卒。慶応四(1868)年1月5日山城淀で戦死。享年不明。

岐阜県大垣市・円通寺
戊辰洛南之役戦死者碑
向阪伝蔵(岐阜県大垣市・全昌寺)
大垣藩士。鉄砲頭。先手組隊長。慶応四(1868)年1月5日山城鳥羽堤で負傷、のち没。享年36歳。
大垣市全昌寺にある「六十二人墓」には、側面に16名の名が見て取れます。その中に向坂さんの名前もあります。残る45名は不明です。
ちなみに大垣藩が戊辰戦争で失った人的被害は93名(「幕末維新禅殉難者名鑑」に拠る)。そのうち詳細が分らない者19名と、藩士ではない夫卒3名を除くと71名。そのうち鳥羽伏見の戦いで戦死された方が10名で、それをも除くと61名なんですよね。
そして向坂さん以外の15人は全員鳥羽伏見の戦い後に新政府側へと参じて殉難した犠牲者ですから、この御墓は「官軍」として戦死された方々を供養する目的で建てられた可能性が高いと思います。
したがって、「官軍」として戦死した61名と、なぜか幕府側について戦った鳥羽伏見の戦いの際に犠牲になった向坂さんを加えれば、62名になるんですけど・・・何で加えたのかがよくわかりません。

そもそも勝手な類推に過ぎませんから、実際は差別なく供養してるのかもしれませんし、深くは追求しないでおきます。
小寺良之助 大垣藩卒。二番兼用隊。慶応四(1868)年1月5日山城鳥羽堤で戦死。享年20歳。
佐藤文之助(岐阜県大垣市・縁覚寺)
大垣藩士。鉄砲隊先手。慶応四(1868)年1月5日山城鳥羽堤で戦死。享年20歳。
塩川幸五郎 大垣藩士。大砲隊車長。慶応四(1868)年1月5日山城鳥羽堤で戦死。享年26歳。
堤文之丞 大垣藩士。二番兼用隊伍長。慶応四(1868)年1月5日山城鳥羽堤で戦死。享年不明。
名波常蔵 大垣藩卒。二番兼用隊。慶応四(1868)年1月5日山城淀で戦死。享年24歳。
森国蔵 大垣藩士。鉄砲隊先手。慶応四(1868)年1月5日山城淀で戦死。享年30歳。
矢野才次郎 大垣藩士。鉄砲隊先手。慶応四(1868)年1月5日山城鳥羽堤で戦死。享年31歳。
渡辺右一郎 大垣藩士。先手。慶応四(1868)年1月5日山城鳥羽堤で戦死。享年22歳。
岩崎貞爾 桑名藩士。慶応四(1868)年1月3日山城下鳥羽で戦死。享年24歳。
面川修輔 桑名藩士。慶応四(1868)年1月3日山城下鳥羽で戦死。享年不明。
山内金次郎 桑名藩士。慶応四(1868)年1月3日山城下鳥羽で戦死。享年不明。
荒尾良次郎 桑名藩士。慶応四(1868)年1月4日山城下鳥羽で戦死。享年不明。
岡鉦左衛門 桑名藩士。慶応四(1868)年1月4日山城下鳥羽(5月15日江戸上野山とも)で戦死。享年不明。
岡本蔵太 桑名藩士。元地組。慶応四(1868)年1月4日山城下鳥羽で戦死(逃れて三河山下で自刃とも)。享年不明。
下田岩五郎 桑名藩士。元地組。慶応四(1868)年1月4日山城下鳥羽で戦死(負傷のち没とも)。享年不明。
西野常蔵 桑名藩士。慶応四(1868)年1月4日山城下鳥羽で負傷、紀州で没。享年不明。
富士田忠五郎 桑名藩士。慶応四(1868)年1月4日山城下鳥羽で戦死。享年不明。
富士田領左衛門 桑名藩士。慶応四(1868)年1月4日山城下鳥羽で戦死。享年不明。
渡辺多惣右衛門 桑名藩士。慶応四(1868)年1月4日山城下鳥羽で戦死。享年40歳。
松井佐騎蔵 淀藩士。慶応四(1868)年1月5日淀川堤で戦死。享年不明。
松井政蔵 淀藩士。慶応四(1868)年1月5日淀川堤で薩長兵に狙撃され戦死。遺体は淀川に流失。享年不明。
松田三右衛門 淀藩士。慶応四(1868)年1月5日淀川堤で薩長兵に狙撃され戦死。遺体は淀川に流失。享年不明。
京都守護職松平容保候の実弟で京都所司代でもあった松平定敬候が率いただけあって、桑名藩の被害も大きなものになっています。
逆に老中も勤める藩主の意向に逆らって新政府軍に恭順した淀藩は、戦場となったにもかかわらずその被害は2名にとどまっています。薩長を選ぶか幕府を選ぶか…忠孝を尊ぶ儒教の影響下にあった当時では、苦衷の決断もあったと思います。
大垣藩も同様に逡巡し、恭順を決めた時にはすでに戦端が開かれていました。その後ひたすら謝罪して会津攻めに参加することになります。
慶応四年 鳥羽伏見の戦い 幕軍諸藩