長藩第四大隊戦死者招魂碑
東京都世田谷区・松陰神社
 
 
世良修蔵(福島県福島市宮町・稲荷神社/東京都世田谷区・松陰神社)
長州藩浦靭負陪臣・奥羽鎮撫使下参謀。萩藩家老浦靭負の臣木谷良蔵の養子となり、また世良氏を継いだ。海防僧月性の教えを受けたが、江戸に行き羽倉外記・安井息軒・藤森弘庵らに学んだ。その後、奇兵隊に入って書記となり、慶応元(1865)年藩論回復の時、第二奇兵隊の編成に尽し、その軍監となり、翌年の幕長戦には大島口に奮戦し、ついで藩の海軍局に入って洋学を修めた。慶応四(1868)年の中四国征討軍に総督四条隆謌に従い姫路を降し、ついで3月奥羽鎮撫総督府参謀に任じ、総督九条道孝に従って陸奥松島から仙台に進み、ついで福島に滞陣し、会津若松上を突かんとして兵備を整えていた時、仙台藩瀬上主膳の使者が来て寛典を乞うたが、修蔵は硬説をとってこれを拒んだため、仙台兵の恨みを受け、閏4月20日不意に旅宿金沢屋を襲われて捕えられ、寿川河原で斬殺された。享年34歳。
 
勝見善太郎
報国隊。参謀世良修蔵に従い、慶応四(1868)年閏4月20日福島の旅宿金沢屋で仙台藩士に斬殺される。享年19歳。

松野儀助
世良修蔵従者。慶応四(1868)年閏4月20日世良と共に福島で仙台藩士に斬殺された。享年16歳。

繁蔵
世良修蔵の馬丁。慶応四(1868)年閏4月20日世良と共に福島で仙台藩士に斬殺された。享年不明。
野村十郎
監察局直目付。中村半左衛門組。慶応四(1868)年閏4月20日福島の旅宿金沢屋で世良修蔵と共に捕えられ斬。享年24歳。

中村小次郎
元膳所藩士。岩国藩籍。世良修蔵従者。慶応四(1868)年閏4月22日岩代二本松領清水村で斬殺。享年25歳。
宇都宮攻防戦を中心とした下野の戦いも総合的に西軍の勝利となり、戦線はいよいよ奥州と北越へとに移り始めます。
慶応四(1868)年閏4月9日、領主不在の空城だった白河城に入った奥羽鎮撫総督府の下参謀の世良修蔵さんは、仙台藩や米沢藩などに会津討伐の命を下し、会津進撃の準備を始めます。
しかし会津藩の赦免を訴えた奥羽諸藩の嘆願を却下し、出兵を督励したところでまともに応ずる藩もなく、戦力不足に陥ったために兵力の増派を同じ参謀の大山格之助さんに書状で要請したところ、その書状が仙台藩の手に渡ってしまい、さらに文中にあった「奥羽皆敵」の語に激昂。世良さん暗殺へと動いていったのです。
結果的にこの一連の流れは、会津討伐どころか、むしろ奥羽列藩同盟を結成させる契機となってしまいました。
慶応四年 世良修蔵斬殺事件