松林廉之介(京都市東山区・霊山墓地)
大村藩士。嘉永五(1852)年藩主大村純?に従って江戸に上り、安積艮斎に学び、安政四(1857)年19歳で昌平黌の詩文掛となる。万延元(1860)年より松本奎堂らと双松岡塾を開いて尊王攘夷を鼓吹し、幕府の圧迫により閉鎖して国へ帰る。文久三(1863)年正月藩命により京坂の間を奔走して天下の形勢を洞察して帰り、五教館教授に擢んでられ、また特旨をもって政務に関与せしめられた。これよりますます勤王の大義を唱えて藩の士気を鼓舞し、岩崎弥太郎・竹添進一郎など全国から来り学ぶ者が多かったが、一方同志三十七士と義盟を、結んで佐幕派を排斥し、慶応三(1867)年1月3日ついにその凶刃に倒れた。享年29歳。
笹内万右衛門(京都市東山区・霊山墓地)
十津川郷士。御親兵として上京。慶応三(1867)年2月26日病死。享年不詳。
高杉晋作(山口県下関市・東行庵〔1〕/萩市・護国山墓所〔2〕/京都・霊山墓地〔3〕下関市・桜山招魂場〔4〕
長州藩士。安政四(1857)年藩校明倫館に入学。19歳のとき吉田松陰の松下村塾に入門、英才を発輝して久坂玄瑞と共に松門の双璧と称された。文久二(1862)年5月藩命により千歳丸に乗船し上海へ渡航。太平天国の乱を目撃し、安易な攘夷では外国勢力には対抗できないことを悟り、外国と諍いを起こす事で、外国の真の力を知らしめようとする。帰国後藩論を尊攘に転換するべく努力したがならず。同年11月、品川御殿山に建築中の英国公使館の焼打ちを敢行、文久三(1863)年、尊攘運動に対する見解の相違から10年間の暇を乞い、出家して東行と号し、萩に隠棲。 6月、藩命により身分によらない草莽掘起の部隊、「奇兵隊」を組織して総督となり馬関総奉として下関防御の任に当たった。八月十八日の政変で長州藩が京都から一掃されると、藩内に高まる武力上洛論に反対し、京都進撃を主張する来島又兵衛らの説得の命令をうけたが失敗、脱藩して上洛。この後帰国して野山獄に投ぜられた。 しかし、元治元(1864)年四国連合艦隊下関砲撃事件に敗れると善後処理を命じられ、宍戸刑馬の名で藩の正使となり、講和条約を締結した。同年の第一次長州征伐に対しては、主戦論を説いたが、佐幕派の俗論党が牛耳る藩政府にやぶれ、危機を察して福岡に脱走、やがて機を見て下関に帰り、12月奇兵隊等諸隊の決起を促して功山寺で挙兵、佐幕派藩政府を転覆させた。慶応二(1866)年6月の第二次長州征伐には、海軍総督として幕府との開戦直後、小倉口の戦闘を指揮したが、慶応三(1863)年4月14日、下関で結核により病死した。享年29歳。

高杉雅(山口県下関市・東行庵〔5段目〕)
弘化二(1845)年、長州藩士井上平右衛門の娘に生まれた。萩城下一と言われた美人だった。16歳で晋作に嫁ぎ、4年後に長男東一を産む。晋作と雅子の結婚生活は7年余りに及ぶが、2人共に暮らしたのは合計して1年半に満たない。病に倒れた晋作の最後を妻として看取った。維新後は東一の養育に心血を注いだ。大正十一(1922)年没。享年78歳。

おうの〔梅處尼〕(山口県下関市・東行庵〔最下段〕)
下関の芸妓。高杉晋作の愛人。此ノ糸とも称した。高杉に献身的に仕え、高杉も寵愛して讃岐へ逃げたときも連れて行ったりもした。晋作の死後、剃髪して(させられて?)梅処尼と名乗り、東行庵初代庵主として高杉の墓を守った。明治四十二(1909)年没。享年67歳。
最初は霊山で取材したのですが、この御墓は最近作られた(それでも30年前ですが)ものですし、何より高杉さんの御墓といえば東行庵と思っています。さらに、もっと会いたい方もいましたのでこれは行くしかないなと計画を立案しました。そこでついでなら功山寺も萩も行っちゃえってことで京都から一路フェリー埠頭を目指して神戸に向かいました(原付で・・・)。しかし盆休み始めということもあっていきなりキャンセル待ちを宣告されてしまいましたが劇的な展開で何とか乗船、行程を確認すると・・・メチャメチャ遠い!(事前に調べろよ)。翌朝6時半に下船、一雨来そうでしたのでいきなり予定を変更して苅田町へ向かいました。8時頃になると晴れてきたのでようやく下関へ向かい、長府の功山寺、乃木神社を経て小月駅に着きました。観光掲示板を見ると(まともな地図を持ってきてない!)東行庵は枠外・・・。道路掲示を見ながら何とか現着、10キロ超の荷物を背負っての取材は正直エグイものがありましたが、ようやく久しぶりに高杉さんと会えました。その後絵堂を経て昼過ぎに萩に到着、疲労と日焼けでボロボロでしたが、それでも大照院を経て松陰神社へ。ここに松陰先生の御墓があると思いきやありませんでした。やむなく社殿を御墓とすることで自身を納得させ、東光寺へ向かいました。その帰りに「松陰生誕の地」に寄ろうと坂道を登ると、何と松陰先生の御墓があるじゃありませんか!象山先生のときといい、このときも「見えない力の支援」を感じずにはいられませんでした。しかも、久坂さん、稔麿さん、さらに高杉さんの御墓まで!! 思いました。「恐るべし。高杉晋作・・・」。他の高杉さんの御墓をご存知の方、おられますでしょうか・・・?
と聞いてはや一年。あるんですね、高杉さん。ということで今年は下関の桜山招魂社へ…他にもまだあるんでしょうかね、高杉さん…
曲直瀬道策(京都市上京区・十念寺)
幼時より父雅香について平田派の国学を学び、勤皇の志が厚かった。常に京都に住し、加賀藩主前田氏に仕えた。慶応二(1866)年7月加賀藩の有志と尊攘の説を唱え、実弟六人部雅楽らと金沢に赴いて藩世子前田慶寧の入朝wp勧め、あるいは志士の窮状を救って家産の蕩尽するのも顧みなかった。ついで小松帯刀・三上兵部・陸奥陽之助らと計って大坂に出て船舶運輸業を興し、その利潤で勤王同志の活動資金を得ようと種々努力したが、幕吏及び新撰組の知るところとなり、5月25日大坂難波新地で新撰組に襲われ惨殺された。享年30歳。
曲直瀬と聞いてピンと来る方は戦国期についてもなかなかご存知の方でしょう。曲直瀬家といえば戦国期の名医にして日本医学界の泰斗、曲直瀬道三の流れです。その道三の御墓もこの十念寺にあります。さらにこの近くの阿弥陀寺には本能寺の変で討ち死にした織田信長・森蘭丸らの御墓もあります。
吉田太郎(福岡市・円徳寺)
福岡藩士。元治元(1864)年3月24目、松田五六郎(中原出羽守の変名)と謀り、老臣牧市内を斬殺して脱藩、姓名を河辺又太郎と変じ、下関を経て三田尻に赴き七卿を護衛した。同年7月真木和泉の忠勇隊に属して禁門の変に戦い、敗れて天王山へ退き、ついで三田尻に帰って忠勇隊に復した。のち五卿の西渡、薩長の離和に尽力し、五卿西渡後は藩の大田太郎と共に薩摩へ入り、同地で撃剣師範となった。のち病床に伏し、西郷隆盛の勧告により長崎で療養したが、6月12日同地で病死した。享年37歳。
昨日佐賀をアホみたいに歩いて下半身創痍の状態で挑んだ2日目の先頭を切ったのが吉田さんでした。佐賀と違って特に掲示板も無く、しかも数が多いと言うハードスケジュールだったため、すぐにお会いできたことは大きな弾みになりました。先日リベンジした天王山も吉田さん縁の地ということで、ひょっとしたら十七烈士と久々邂逅…ですか?
住谷寅之介(京都市東山区・霊山墓地)
水戸藩士。天保九(1838)年床机廻に選ばれ、十二・三年学問出精により賞せられ、天保十三(1842)年8月弘道舎長に挙げられた。弘化三(1846)年藩主徳川斉昭の雪冤運動に加わり処罰された。安政四(1857)年格式馬廻組列・文用掛見習となる。安政六(1859)年再度の藩難に連座して職を免ぜられた。万延元(1860)年正月家督を継ぎ、翌月18日矢野長九郎らと評定所召喚となり、禄を奪われ、閉居処分を受けた。文久元(1861)年5月江戸高輪東禅寺英国仮公使館襲撃事件発生して幕府からの圧迫が加わるに及び、原市之進らと共に宇都宮藩士大橋訥菴らと安藤老中要撃について計画するに至った。同年10月長州藩士周布政之助・桂小五郎に書を送り、丙辰丸の盟約により、安藤信正襲撃の援助を求めたが、長州側の参加に難を生じ、ために常野志士の連名により決行された。文久三(1863)年藩主に随従して上京し、滞京して京師警衛指南役に任じ、本圀寺に駐在したが、慶応三(1867)年6月13日土佐の山本旗郎のために暗殺された。享年50歳。
露木恒之進(京都市東山区・霊山墓地)
徳島藩士。文武両道を究め、父に従って京都四条烏丸の藩邸に住み、綾小路に道場を開いて撃剣を教える傍ら志士と往来して気脈を通じた。三条家に出入して実美に親愛されたという。文久三(1863)年8月七卿都落ちに従って周防三田尻に赴き、三条実美が森寺若狭を阿波に遣わすに際して副使となったが讃岐で捕えられ、藩邸脱走の罪で下獄中重病に罹って宿預けとなり慶応三(1867)年7月27日自宅で没。享年35歳。
鷹司輔政(京都市右京区・二尊院)
堂上公家(摂家)。安政五(1858)年正月従三位に叙せられ、同年9月権中納言・左衛門督となり、文久二(1862)年正月左近衛権中将を兼任し、文久三(1863)年2月権大納言に昇任した。この間万延元(1860)年10月には和宮降嫁勅許の可否につき摂家一同と共に勅問にあずかった。元治元(1864)年2月正三位に叙せられ、同年5月16歳の年少ながら国事御用掛にあげられて時局の要務に参与したが、ついで7月禁門の変に際して長州藩に同情をよせ、同藩のために斡旋するところがあり、このために事変後、有栖川宮父子・父鷹司輔?その他攘夷派の公家と共に参朝停止、他人面会及び他行禁止の処分を受け、また国事御用掛を免ぜられた。この後8月謹慎を解かれて廟堂に復帰し、慶応二(1866)年8月従二位に叙せられた。なお翌慶応三(1867)年2月孝明天皇諡号宣下にあたって山陵使長官となり、諡号奉告のことを奉仕した。同年8月14日没。享年19歳。
原市之進(京都市左京区・長楽寺)
水戸藩士。少年の頃より俊秀の聞こえ高く、藤田東湖・茅根伊予之介の後継者と目された。従兄東湖に学び、のち昌平黌に入る。嘉永の末川路聖謨露使応接のため長崎に向う時、請うて従者となり、帰藩して弘道館訓導に挙げられ、安政三(1856)年史館勤に移った。文久元(1861)年5月江戸高輪東禅寺英国仮公使館襲撃事件発生して幕府の圧力加わるに及び、野村?之介らと共に大橋訥菴と老中安藤信正要撃を謀議した。文久二(1862)年末一橋慶喜に随従して上京し、滞京して慶喜の宗家相続、ついで将軍職就任に奔走した。慶応二(1866)年7月一橋付用人から目付に登用され、慶喜の左右に近侍して幕政改革に尽力した。慶応三(1867)年8月14日幕臣鈴木某ら3人に寓所を襲われ、非命に斃れた。享年38歳。
野村助作(福岡市・明光寺〔1〕)
早く父を失い、病弱な兄貞和に代って家を継いだ。祖母野村望東尼と志を同じくして尊王運動に従事した。かつて友人の中村恒次郎が脱藩上京しようとしてこれを助作に謀った時、ともに国を脱しようとしたが、露顕して果さなかった。慶応元(1865)年五卿が太宰府へ移ったとき、接伴掛を勤めた。同年夏嫌疑を受けて自宅に監禁され(福岡藩「乙丑の獄」)、10月23日同志と事を謀り、上を憚らざる所為ありと玄界島配流を命ぜられたが、未だ配所に至らざるに脚疾にかかり、城内南之丸の獄舎で8月16日病死した。享年24歳。辞世「浮雲はまた晴やらぬ身たれとも露もこヽろを世には残さし」。
野村望東尼(山口県防府市・桑山墓地〔2〕/福岡市・明光寺〔3〕)
幼少より読書を好み、とくに書に通じていた。文政十二(1829)年二四歳で福岡藩士野村新三郎貞貫の後妻となった。27歳で夫新三郎と共に大隈言道の門下に入り、和歌を学び、42歳で夫が致仕したので、城南平尾山荘に転居した。安政六(1859)年54歳のとき夫の死に遇い、博多東町妙光寺で受戒剃髪して望東尼と号した。女ながら丈夫の気性あり、勤王の志深く、かつて安政五(1858)年京都の勤王僧月照が幕吏に追われて福岡に来た時、これを山荘に潜匿させ、また文久元(1861)年の春、平野国臣が帰国した時もしぼらくこれを山荘に匿った。同年10月上京、堂上名家と交わり、翌二(1862)年5月帰国した。ついで元治元(1864)年11月には長州藩を逃れてきた高杉晋作を山荘に匿い、また熊本藩の入江八千兵衛、対馬藩の平田大江ら、この山荘に匿われた人物は多い。このほか福岡藩の勤王志士中村円太・月形洗蔵・早川養敬らも、しばしば山荘を国事を密議する場に利用した。慶応元(1865)年3月太宰府に赴いて三条実美を訪れた。同年6月福岡藩の勤王派藩士弾圧に際して孫の野村助作と共に自宅に幽閉され、10月死刑を免ぜられて姫島へ流された。翌二(1866)年9月高杉晋作の指揮により福岡脱藩志士藤四郎・多田荘蔵らの尽力で姫島を脱出し、下関の白石正一郎宅に匿われ、のち三田尻へ移り、11月6日ここで病没した。享年62歳。辞世に「花の浦の松の葉しろく置霜と消ぬれはあはれ一さかりかな」「雲水の流れまとひて花の浦の初雪とわれふりて消ゆなり」がある。
吉田さんから始まった2日目、墓場の探索行動も含めすでに8キロ近く歩いていた私にはもう承天寺(「慶応元年」参照)からここまでの1キロを歩く力が無く、また時間も押していたのでタクシーで向かいました(1キロ程度で普段タクシーなぞ絶対使いません!置かれた状況故の措置です)。「ここが最期!」と力の萎えた足を動かし、ようやくお参りをしましたが、2日にわたる苦行が頭をよぎって全身の力が抜ける…と思いきや、まだ駅まで行かなきゃって思いの為何も変わりません。本当に全てが終わったとき…トイレにも2本足で行けませんでした…
赤松小三郎(京都市左京区・金戒光明寺)
上田藩士。嘉永二(1849)年江戸に出て蘭学を学び、また佐久間象山・勝海舟らに師事して兵学や航海術を学び、安政二(1855)年長崎海軍伝習所で伝習生として学ぶ。業成り帰郷したが志を得ず、去って京都に家塾を開いて新式兵法を教授した。この間、幕薩一和の説を主張し、あるいは公議政体論を唱え、名声は京坂間に喧伝された。諸藩は争って小三郎を招聘したが、薩摩藩の招きに応じた。学ぶ者800余人、桐野利秋・村田新八・篠原国幹・野津道貫・東郷平八郎らがその中にいた。この時に至り上田藩から呼び返された。藩主松平忠固は老中を勤めたこともあり、佐幕派の頭目の一人と目されており、小三郎が帰国するに当たり、桐野利秋は他日敵対することがあろうと言って指定の杯を返したと言う。9月3日帰国の途中、たまたま所用あって伏見に外出しての帰途、東洞院魚棚下ルで暗殺された。享年37歳。
赤松さんを暗殺したのは薩摩の人斬り半次郎こと中村半次郎と言われています。もちろん中村半次郎というのは後の桐野利秋陸軍少将のことです。桐野さんら薩摩藩士にとっては赤松さんの才が幕府や会津藩(当時赤松さんは会津藩にも招かれていました)などの佐幕派につくことが脅威だったのだと言われています。
伊藤竜太郎(京都市東山区・霊山墓地)
丹波国氷上郡中山村の農民。14歳のとき柏原藩士広瀬門平の養子となったが、百姓の出と人に辱められて養家を去り、京に出て所司代与力大野応之助の門に入り剣を磨いた。安政二(1855)年江戸に出て千葉周作の門に入り、万延元(1860)年水戸弘道館の教授となる。その後文久三(1863)年5月但馬生野代官所地役人の剣道指南となったが、たまたま同年10月沢宣嘉の生野義挙に際会、去就を問われたが、欣然としてこれに参加し、敗戦ののち出石藩兵に捕われ、よく元治元(1864)年正月姫路に送られ、ついで京都六角の獄舎に投ぜられ、慶応三(1867)年11月18日獄中で没した。享年33歳。
庭田嗣子(京都市左京区・竜光院)
仁孝・孝明天皇女房。仁孝天皇の宮廷に仕え典侍に至り、天皇崩御後も致仕することを許されず、孝明天皇後宮女官の指導を命ぜられた。万延(1860)元年10月和宮の降嫁が定まると、再三の辞退も許可されず、翌文久元(1861)年10月宮の輔導として江戸へ下り、慶応三(1867)年没するまで京方女房として宮に仕えた。その間の事情は、和宮輔導を申渡された日より没する数日前までの日記「静寛院宮御側日記」(心おぼえ)にみえ、さらに同日記には宮の御起床より御寝に至るまで江戸での宮の動静が事細かに記載されている。慶応三(1867)年11月19日没。享年48歳。
中井庄五郎(京都市東山区・霊山墓地)
十津川郷士。資性剛直、膂力衆に過ぎ、最も撃剣を能くした。文久三(1863)年17歳にて上平主税と共に京に上り、勤王の士に交わり、同年天誅組の変には鎮撫使に従ってこれを治む。慶応三(1867)年4月京にて新撰組と戦い2名を斬り、会津藩に内通した長州藩士岸泰治を要撃し、また坂本龍馬の横死を悲憤し、12月7日その下手人と思われた新撰組員を天満屋に襲撃して数名を殺傷し、自らもまた数送を受けて死す。享年41歳。
村井政礼(京都市東山区・霊山墓地)
蔵人所衆。安政五(1858)年10月蔵人所衆村井政敬の嗣となり、正六位下修理少進に叙任されて蔵人所衆となった。かねて博く国漢の史籍を通覧し、兵法にも達しており、尊攘の念厚く、幕府の専権を憤って志士と交を結んだ。文久二(1862)年3月長州藩士長井雅楽がその所説航海遠略策を京都に入説した際、「関東阿党の奸説」と断じてその阻止を謀り、あるいは和宮の降嫁に反対してこれに尽力した岩倉具視らを排斥し、あるいは松延次郎と変名し、武市瑞山らのために尽力し、また薩長連合のことに奔走した。同年10月戸田忠至の建議にもとづき修陵の事が令せられるや、その学殖を認められて諸陵調方を命ぜられた。しかし文久三(1863)年9月ついに幕吏に逮捕され、久しく京都六角の獄に投ぜられた。たまたま翌元治元(1864)年禁門の変によって生じた火災で獄も類焼の危険にさらされ、当時投獄されていた志士は多く殺されたが、幸いにも政礼はこの厄をまぬがれ、志士塵殺の状をつぶさにその手記に残したが、慶応三(1867)年12月12日斬罪に処せられた。享年33歳。
宮永良蔵(京都市東山区・霊山墓地)
医師。18歳のとき父の業を継ぎ家名をあげようと決心して京都にのぼり、医術を研究して開業した。この間、尊王攘夷に志し、志士・公卿と交わって奔走した。元治元(1864)年7月禁門の戦いには長州藩のために尽力するところがあった。叔父に豊前国本願寺末院を預かる僧玉暎あり、このころ上京して勤王運動に携わっているのを聞き、その謀議に加わった。このため新撰組の追及をうけ、慶応三(1867)年八月病家回りの途中捕えられて投獄された。のち許されて帰宅したが、入牢中の拷問のため病床に臥し、12月22日死去した。享年35歳。
内藤将左衛門(京都市・蓮華寺)
佐土原藩士。都城隊。慶応三(1867)年12月21日見回り中の新選組井上源三郎隊と衝突。敵前逃亡の嫌疑をかけられ憤慨、12月26日自刃。
大峰荘之助(京都市・蓮華寺)
佐土原藩士。都城隊。慶応三(1867)年12月21日見回り中の新選組井上源三郎隊と衝突。敵前逃亡の嫌疑をかけられ憤慨、12月26日自刃。享年17歳。
安藤惣兵衛(京都市・蓮華寺)
佐土原藩士。都城隊。慶応三(1867)年12月21日見回り中の新選組井上源三郎隊と衝突。敵前逃亡の嫌疑をかけられ憤慨、12月26日自刃。
野辺納右衛門(京都市・蓮華寺)
佐土原藩士。都城隊。慶応三(1867)年12月21日見回り中の新選組井上源三郎隊と衝突。敵前逃亡の嫌疑をかけられ憤慨、12月26日自刃。
坂元与八郎(京都市・蓮華寺)
佐土原藩士。都城隊。慶応三(1867)年12月21日見回り中の新選組井上源三郎隊と衝突。敵前逃亡の嫌疑をかけられ憤慨、12月26日自刃。
横山藤助(京都市・蓮華寺)
佐土原藩士。都城隊。慶応三(1867)年12月21日見回り中の新選組井上源三郎隊と衝突。敵前逃亡の嫌疑をかけられ憤慨、12月26日自刃。
いわゆる六志士の御墓でして、JR線の南側に位置しているのですが、墓地の管理を別のお寺がやっていたために「蓮花寺」の名で見つけるのに随分往生しました。その探す様がよほど不審だったのか、おかげ様で人生初の職務質問を受ける羽目になりましたよ。
新撰組史家の伊東成郎さんによると、このころ新撰組では夜間市中見回りの際、同士討ちを避けるために、合言葉を決めていたようで、「月」「星」だったそうです。同時期に薩摩藩も合言葉を使っていたようですが、それは「どさ」「こさ」だとか…。
三輪友衛門(京都市左京区・長楽寺)
水戸藩士。天保九(1838)年床机廻に選ばれ、天保十(1839)年進仕して小普請組に入り、天保十二(1841)年小十人組となり、弘道館歌道掛を兼ねた。安政三(1856)年小姓頭取、安政四(1857)年奥右筆頭取に進んだ。文久三(1863)年藩主徳川慶篤の上京に随従し、滞京して松平昭訓の傳役に任じのち昭武の守衛に任じた。慶応三(1867)年12月将軍慶喜退京に際して二条城の留守を水戸に託し、家老大場一真斎を将として警備に当ったが、12月30日病を得て城中に没した。享年不明。
慶応三年